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「え」 ぼくがつぶやいた直後、唇にやわらかなものが押しつけられた――「天使は奇跡を希う」046

 神社の前に自転車をとめた。


 部活が終わったあと、ぼくは成美に誘われて三島神社に来た。

 自転車に鍵をかけ、成美が先に歩きだす。鳥居の前でこちらに向き、目で促してきた。

 ぼくも鍵をかけ、仕方なく急ぎめに追いつく。

 対になった狛犬の間を通り抜け、境内までの長い石段に差しかかる。


 今日は楽しみにしていたコミック新刊の発売日だから、神社に寄ったりはしたくなかった。

 そのことを伝えたにもかかわらず、成美が行こうと粘ってきた。それはとても珍しいことだった。

 ぼくは石段を上りながら、

「どうかした?」

 と、探りを入れる。

 けど、成美は聞こえなかったというふうに無言。

 互いに黙々と足を動かす。

 ……長い。

 なんだろう。今日はやけにそう感じる。やっぱり早く書店に行きたいせいだろうか。


「そういえばさ」

 成美がふいに口を開く。

「手とかつながないね、私ら」

「ああ……うん」

 たしかにそうだと思ったから、そう応えた。

 それきり成美は何も言わずに石段を上る。

 だからぼくも、何も言わずに石段を上った。


 そしてようやく、一番上にたどり着く。

 小さな社が鎮座する、狭い境内。

 ぼくたちはくるりと身を返して、石段と境内の段差部分に腰掛けた。

 田んぼとアスファルトの道が見渡せるいつもの風景。星月さんがいいと言っていた枝葉の目隠し。

 ぼくは特に話すこともないので、ぼぅっとそれを眺める。


「昨日ね」

 成美がいつもどおり、なんでもないことを話し始めた。

 ぼくは「へえ」とか「ふぅん」とか相づちを打つ。

「――なんだって」

「ふぅん」

 スマホで時間を確かめたい衝動に耐える。

 と………いつしか会話の温度が消え、空気が本来の透明度に戻っていることに気づく。

 それは人を不安にさせる肌寒さだ。

 ぼくが成美に振り向こうとした瞬間――

 体に何かがぶつかってきて、ぐらっと揺れた。


 何が起こったのか、わからない。

 鼻先にかかる甘い香り。

 眼下に流れるポニーテールの黒髪。


 成美に抱きつかれていた。


 肩のあたりに押しつけられた額の硬さをぼんやり感じながら、声が出せない。

 ふいに顔を上げてきた。

「え」

 ぼくが思わずつぶやいた直後、唇にやわらかなものが押しつけられた。

 キス。

 薄い皮膚の弾力と、不器用に当たる前歯の感触。

 成美とのキスは初めてじゃない。 いや、初めてなのか? あまりの驚きで記憶が混乱している。


 と、腕をつかみ、ぐいと密着してきた。ぼくの肘から脇腹にかけ、ふわりとして丸いものが押しつけられる。

 驚きで麻痺していた感覚がはっきりし、自分に起こっていることを認識する。

 胸だ。


 ぼくは今、成美にキスされながら、胸を押しつけられた状態でいる。あの大きな胸。

 頭の中がどろりと溶けそうになる。甘いやわらかさが脳を突き刺すように加熱し、顔を火照らせ、心臓を膨張させ、意識を真っ白にして、何かをバチンと飛ばしそうになる。

 その狭間がぼくの冷静さを呼び戻し、恐怖と認識させ―――


 とっさに身を引き、成美から離れた。


 成美が目を瞠っている。

 ぼくは耳の奥で激しい鼓動を聞きながら、おそらくはこわばった表情で、

「……なんだよ急に」

 瞠っていた成美のまなざしが一瞬、痛んだようにぴくりと揺れる。

 何か間違えたかと怖れるぼくの前で、成美は無表情にうつむき、

「………なんとなく」

 聞き返すまもなく立ち上がり、駆け足で石段を下りていく。

 鳥居の前で自転車に乗った成美が見えなくなってから、ぼくは………

 自分の体に残る熱い疼きと向き合わされる。

 それは火が消えたあとの赤い炭のような、行き場を失った牢獄の熱量だ。

 背を丸め、息を乱し、歯を食い縛る。体を巡る衝動に、足の指をぎゅっと縮こまらせる。


「……くそっ」


 そんな自分が、たまらなく嫌だった。


七月隆文・著/前康輔・写真 

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