本日の「読了」
本日の「読了」
西智弘『だから、もう眠らせてほしい──安楽死と緩和ケアを巡る、私たちの物語』(晶文社 2020)
イキモノとしてのニンゲンは、イキモノとしてプログラムされた死を考えないようにできているのだと思う。
でなければ、うぶ声は、死の恐怖に対する悲嘆だということになってしまう。
まず初めに「緩和ケア」は医療分野だと思いがちだが、必ずしもそうではない。緩和ケアが「緩和」をめざす「苦痛」は、医療が得意とする身体的苦痛以外にも、社会的、経済的、精神的、心的なものがある。
また、「緩和ケア病棟」と「ホスピス」さらには「在宅ホスピス」の違いなど、私自身、説明を求められても説明できない。
一つ言えることは、ほかの「苦痛(社会的、精神的、経済的、心的)」は、医療の領分ではないし、緩和ケア(さらには安楽死)が「=医療」であり、ともすれば末期がん者専用と思われるのも、苦痛が見えやすく、医療者側も共有しやすいからだろう。
だから、もっともっと医薬技術が進み、身体的苦痛を伴う病気が少なくなれば、すくなくとも医療者による安楽死は不要になる。
耐え難い身体的痛みがなくても、生きていると家族に迷惑をかけるからといった「苦痛」を感じないままに生きることができる社会を作ること、24時間365日人の手助けが必要であっても、ストレスなく生きることができる社会ができれば、安楽死議論は消滅する。
本書の筆者の願いもそこにある。
さて、先ごろ医師による自殺ほう助が事件化した。その是非はここでは脇に置く。
「安楽」死を願う人は、なぜ、「安楽な」自殺ではなく、医師に頼むのか? 死ぬ「権利」といいながら、その権利の行使をなぜ、医師に委ねるのか? 委ねられる医師や看護師などの負担を考えることがあるのか?
万人が願う「眠るように死にたい」と、本書タイトルの「眠らせてほしい」の違いはなんだろうか? そもそも眠ることは「安楽」なのか? 眠る以外に「安楽」な死はないのか?
そして、日本に「安楽死」は存在しないのか?
自殺では残されたものに心的な癒えない傷を残し、時にはその生命すら奪う。ましてや、心を許し、自死について理解を得ていても、言葉を尽くし、理解を得たがために「幇助」したと罪に問われることもある。
だから、医師に頼む。
安楽な「自殺」を認める国に行く。
医療技術という確実性の高いものにすがる。薬物による安楽死が「安楽」であるなんて実は誰にもわかりはしない。見た目が「そう見える」からにすぎない。
本書に登場する安楽死希望の二人は、医師に対する負担も考えた発言をしている。そして、一人は「医療的」な眠りのなかで「死」を迎え、もう一人は「自然死」を迎えた。
一人は「オヤ」とは断絶していたため、同居するパートナーもある程度納得の死を迎えたが、もう一人は癌にありがちな「もっとできることがあったんじゃないのか?」という「オヤ」たちからの責にパートナーは苦しめられる。(こういう「悲劇」を避けるために、制度化議論の際には、説明(承諾ではない)範囲も議論するべきだと考える。)
安楽死「事件」や、著名人の自殺などのたびにおこる「尊厳死」「安楽死」の問題。そこに必ずついてくる「(生きる・死ぬ)権利」ということば。(権利については、だれかが「生きろ」「死ね」と強制することに対するワードで、安楽死、尊厳死を語るときに使うのはそぐわない気がしている。また同じように、「生きる意味」というのも有害なワード。生きることは生きること自体が目的で、そこに(良いも悪いも)「意味」「価値」などは存在しないものだ。)
本書でも取り上げられているが、日本で「法整備」のうえ「制度」化されるのは、時期尚早すぎるだろう。
冒頭に書いたように本書の筆者の立場は「安楽死の議論を進めて、その先に、安楽死が不要な社会を」である。
まずは生きることがストレスなくできる社会を作ったうえで、もしくは、そういう議論とセットでなければ「安楽死」を議論しても深まりは持たない。
正論を吐いたところで、今の苦しみが消えるわけではない、だが、障がい者を「無価値である」として殺害する輩や、闘病中の人に対して「自業自得」「業病」「自己責任」などと言い放つ政治家がいる土俵で話し合うことができるだろうか。
生命保険会社が「認知症になって家族に迷惑がかかるから」と脅し、認知症保険を売り込むような社会である限り無理だ。迷惑が掛かるなら、家族など作らなければよかったわけだが、散々、万が一のときに「残された家族のために」と保険を売り込んできた同じ口が言うのだから呆れる。安易に制度化すれば、保険会社が「安楽死特約」を作って儲けるだけである。
つねにメメント・モリ(「死を思え」)を要求する社会はどうにもゆううつで嫌だが、生を受けた以上不可避な死、「明日」苦しむことになるかもしれない自分のために、考えておく必要がある。一人一人がつかのまでも考えたときにはじめて、社会として安楽死の問題を議論できるようになるのだと思う。
私は、医療でも祈祷でも抑えられない痛み苦しみのなかで、死による最終的な救済を待つのは嫌だ。だから「眠るように死にたい」し、「眠らせてほしい」と願う。一方で、痛みさえなければ、死にゆく自分を楽しみたいという気持ちもある。
今回、私自身がこの本から得たことは、自分が緩和ケア(できれば在宅で)を受けるようになり、現時で本人が要求できる本書でも使われる「鎮静」という手段で「眠らせてほしい」と願うようになった時には、「苦痛」を可視的に情報化し、できれば言語化し、関わる人たちすべてに共有(共感ではない)させる必要があるのだということ。苦痛の上にさらに努力をしなければならないのは苦痛だが、いたしかたない。
答えを探すための本でも、理想的安楽死を考えるものでもなく、生きるための「処方(情報)」の一つとして、さらには、安楽死だけではなく「死」という「生きること」を医療の問題だけにしないために、本書の中で安楽死希望者を前に悩み格闘する医師と伴走するのも悪くない。
(完)2020.08.21.
付記:眠るのが苦痛という人もいるだろうし、死と眠りが紙一重ということに恐怖を感じてしまう人もいらっしゃるだろう。そういうかたは手にしないほうがいいかも?
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