【映画】「ZAPPA」感想・レビュー・解説
「フランク・ザッパ」という固有名詞は知っていた。たぶん人名なんだろうな、とも。
映画を観る前に、「フランク・ザッパ」がミュージシャンなのだと知った。そんなことさえ知らなかった。
映画を観終えた今、「フランク・ザッパ」はミュージシャンじゃないのだと理解した。
彼は「作曲家」だ。
この映画は、フランク・ザッパの過去のインタビュー映像や周囲の人間の証言などを組み合わせて作られているが、フランク・ザッパが繰り返しこんなようなことを言っていたのが印象的だった。
【自分が作った曲を“聴く”にはバンドを組むしかなかった】
【(「マザーズ」という自身のバンドを解散したことについての証言)私がやりたいのは、発言することと、作った音楽を聴くことだ】
【俺の願いは単純だ。作った曲全てのいい演奏といい録音をする、そしてそれを家で聴く。聴きたい人がいたらすばらしい、簡単に聞こえるがすごく難しい】
【リハ2回でお願いしたいというオーケストラもある。リハ2回なんかじゃ、とても完璧な演奏など望めない。間違った演奏をするくらいなら、しない方がマシだ】
このような発言から、「フランク・ザッパが何を望んでいたのか」が理解できるだろう。彼は、音楽の世界で有名になることやお金を稼ぐこと、あるいは自身が最高の演奏を実現することや、自分の音楽で人を感動させることにさえ興味がなかった。何よりも、「自分の頭の中で鳴っている曲を、完璧な形で実際に聴きたい」という動機のみで邁進し続けたのだ。
そのことは周囲の人間も理解していたようだ。
【冷たい印象に感じられることもあったけど、何よりも「作品を作ることだけ」にすべてを懸けていたんだと思う】
【少なくとも8時間、時に12時間も練習した。クリスマスも感謝祭もお構いなしだ】
【主流の音楽でトップに立ちながら、「こんなのクソだ」って言うんだからね】
【(周囲の人間の)力不足と限界ゆえに、頭の中の再現ができずにいることに悩んでいた】
あるいは、こんな言い方をする者もいた。
【フランクは、ヒットするのを恐れていた。
ヒット曲なんかいくらでも作れたはずだ。でも、自分でダメにしている。僕にはまったく理解できないよ】
【ヒット曲を書くことにまったく興味はなかった】
僕はたぶん、フランク・ザッパの曲を聴いたことがない(あっても、それがフランク・ザッパの曲だとは認識していない)と思う。僕はそもそも音楽についてまったく詳しくないが、それでも、ビートルズやクイーンの曲は、聴けば分かる。おそらく、フランク・ザッパもそれぐらいのレベルの人だと思うのだが、それでも、「フランク・ザッパの曲」だとパッと思い浮かぶ曲はないし、きっと聴いても分からない。それは彼自身が、そういう方向性をまったく狙っていなかったからなのだ。それなのに、コアな層にだけでなく、大衆にも知られる存在になっていることには驚かされる。
そもそも彼は、家が貧乏だったこと、そして家族に音楽好きがいなかったこともあり、15歳くらいまで音楽に触れたことがなかったそうだ。13歳ぐらいまでは化学に興味があり、6歳の時に爆弾の作り方を覚え、父親の仕事の都合で家に置かれていたガスマスクをおもちゃにして遊んでいたらしい。
そんな彼が音楽の道を志したのは、あるレコード店の店主が書いた雑誌の記事だったという。その店主は、「どんなクソみたいなレコードでも売ることができると豪語していた」らしく、そこで紹介されていたのがヴァレーズの『イオニザシオン』だった。さっそくそのレコードを買って聴いてみると、
【瞬時に好きにならないのはどうかしている】
というほど打ちのめされ、作曲を始めたのだそうだ。『イオニザシオン』について映画ではそこまで詳しく触れられていなかったが、ネットで調べてみると、「騒音主義」と呼ばれるジャンルの頂点といえる作品だそうで、ある種「美しさ」の対極を行くような音楽らしい。
そんなきっかけで作曲を始めたので、音楽的な知識を誰かから学ぶことなく独学で作曲を行った。映画の中でフランク・ザッパを「作曲の天才」と評する人物が何人か出てくる。その内の1人は、後にフランク・ザッパが作曲したクラシック曲を演奏した人物だが、彼は「独学だとは驚異的だ」と言っていた。ちなみにフランク・ザッパは、作曲を始めた当初クラシック曲を書いていたそうで、ロックの作曲を始めたのは20代後半からだそうだ。フランク・ザッパが結成したバンド「マザーズ」は、ホーン奏者がいたり、クラシック曲を演奏したりと、当時の常識から大分外れていた(現代の常識とも外れていると思うが)。
もちろん、最初から音楽で食べていけたわけではなく、イラストカードを作る会社でイラストを描くなどしていた。そんな彼の「音楽で食べていくための心得」が非常に面白い。晩年、何かの講演会に登壇しているらしき映像の中で、対談相手から、
【あなたの考えでは、音楽学校の生徒たちは、「死んだ教授」から「死んだ音楽」を「死んだ言語」で学んでいる、ということなんですよね?】
と聞かれ「はい」と答えた上で、さらにこう続けている。
【音楽で食べていこうという人には、不動産免許を取るように勧めています。自分の作曲をしたいなら、他で稼ぐ必要がある】
この考え方もとても面白い。彼は【今やっている音楽では稼げない】と理解している。というか、「稼げない音楽であることに意味がある」みたいなニュアンスではないかと思う。公式HPのトップページには、「売れたものが優れている、という考え方はくだらない」と書かれている(たぶんこの言葉は、映画には出てこなかったと思う)。そして、その信念を逆説的な形で証明するために、「売れないが優れていると評価されるもの」を作ろうとしていたのではないかと思うのだ。だからこそ彼にとって「売れないこと」はとても重要だった。
こういう点も、「フランク・ザッパはミュージシャンではない」という感覚を後押しするだろう。ミュージシャンであれば、望む形は様々だが、やはり「多くの人に聴いてもらいたい」と思うだろうし、その分かりやすい手段が「売れること」だと考えるだろう。しかし作曲家である彼は、「誰かに聴いてもらうこと」よりも「自分が聴いて満足したい」という欲求の方が強い。だからこそ、普通ではない特異な存在としてあり続けたのだろうと思う。
詳しい経緯を理解できたわけではないが、彼は所属していたレコード会社と喧嘩別れするような形で独立し、自身のオリジナルレーベルを立ち上げた。現在でもアーティスト個人によるオリジナルレーベルはそんなに多くない気がするが(SNSやサブスクの登場でまた状況が変わったかもしれないが)、当時としてもかなり画期的だったそうだ。フランク・ザッパは、音楽的にもお金的にも、完全に独立した初めてのアーティストになった。
そして、恐らくそのことが背景にあるのだろう、多くのミュージシャンが沈黙を貫いたある問題に対して、フランク・ザッパは音楽業界でただ一人気炎を上げることとなった。
アメリカで、音楽の歌詞の中に教育に悪いものも多くあるので、映画のように格付け制度を導入すべきだという議論が持ち上がった。国の偉い人の奥さんも運動に参加していたこともあり、大手レコード会社に所属するようなアーティストは個人としての発言が出来なかったのではないか(と勝手に想像する)。しかし、そんなこととは無関係になんでも発言できるフランク・ザッパは、自身の「それは検閲の臭いがする」という違和感をベースに、たった1人闘いを挑んでいく。
フランク・ザッパが言うように、【誰にだって沈黙する権利はある】と分かっているが、それでも、フランク・ザッパ以外の人が誰も立ち上がらなかった、という状況になんとなく残念な気持ちになってしまった。そして、たった1人立ち上がったフランク・ザッパは見事だったと思う。
また、この映画の冒頭シーンは、ビロード革命を経て民主化したチェコスロバキアで3年ぶりにギターを弾いたライブ映像から始まるのだが、後半の方で彼が「チェコスロバキアの通商貿易担当に就任した」という話が出てきて、その幅の広さに驚かされた。なんとチェコスロバキアはアメリカから、「今後もアメリカからの支援を得たければ、フランク・ザッパを排除しろ」と言われたという。フランク・ザッパがどれだけ権威から毛嫌いされていたかが分かるエピソードだろう。
1993年に54歳で亡くなったフランク・ザッパは、生前に62枚のアルバムを発表したが、死後に53枚も発表しているという。彼の自宅には、自身が作曲した曲のあらゆる情報が保管された倉庫があり、恐らくそこからピックアップされたものなのだろう。フランク・ザッパを知る人物は、「彼は常に作曲していた」とその特異さを語っていた。恐らくまだ発表されていない曲が山ほどあるのだろう。
1995年にはロックの殿堂入り、1997年にはグラミー賞特別功労賞・生涯業績賞を受賞している。僕には音楽的なことは分からないが、その生き様・考え方・思想はとても好きだ。もし自分が何者かになれるのであれば、フランク・ザッパのようになりたいものだとも思わされた。誰かがフランク・ザッパについて、
【自分が生きたいように生きられないのであれば、生きていても仕方ないと考える人物だった】
というようなことを言っていたが、僕にもその感覚はある。フランク・ザッパほどその考えを強く貫くことはできないが、可能な限りそんなスタンスを持ち続けていたいものだと思う。
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