【映画】「ハッチング―孵化―」感想・レビュー・解説

超絶狂気的な物語だった。最近、『TITANE/チタン』とか『ポゼッサー』みたいな、「良いとか悪いとかではなく、とにかく凄いとしか言いようがない」って映画に出会うが、この映画もその1つに入った。人に勧めにくいし、「面白い?」って聞かれても素直に「うん」とは言いにくいけど、「凄かった?」と聞かれたら前のめりで「うん!」と答えるし、その凄まじさについてはちょっと語りたくなる。

ネタバレを気にせずに文章を書くつもりなので、内容をあまり知りたくない方は以下の文章を読まないでほしい。

映画を観ている最中は、頭を振り回されっぱなしという感じだったのでそこまで考える余裕はなかったのだが、観終わってあれこれ思い返してみると、この映画は「ジキルとハイド」みたいなものなのだろう、と思った。「みたいなもの」と書いたのには理由がある。「ジキルとハイド」の場合、1つの肉体の中で「善」と「悪」が切り替わるが、『ハッチング―孵化―』では、「善」と「悪」で肉体が分裂するのだ。

その見方を補強するかもしれない存在が、母親だ。まず母親について少し説明しよう。

母親は、自身のYoutubeチャンネル「素敵な毎日」を持っている。「普通のフィンランド人家族の日常を切り取る」というコンセプトで、夫と姉・弟の4人の生活を映し出していく。それはまさに「キラキラ」という形容詞をつけるのが適切であるように思う、「普通」とは言い難い生活だが、しかし母親は、「これが私たちの『普通』なんですよ」と暗に主張することで、特定の誰というわけではない誰かにマウントを取るような人物だ。

もっと端的に、悪意を込めて母親を表現すれば、「自分が理想とする『キラキラ』のために家族を平気で犠牲に出来る人物」となるだろう。

ただ、観客からはこの家族は「母親の犠牲」としか映らないが、家族は基本的に、母親のことが大好きみたいだ。彼ら自身は、まったく「犠牲」だなんて感じていない。少なくとも、この映画のスタート地点までは。そしてたぶんだが、映画の物語が展開してからも、夫と弟は、母親に対する感覚は「あまり」変わっていないと思う。

家族からは「素敵なお母さん」なのだ。

しかしそんな「素敵なお母さん」は、家族の前でも平然と「悪」を露出する。予告編でも流れる場面だが、映画冒頭、Youtubeの撮影中に窓から室内に入ってきたカラスを、姉・ティンヤが生け捕りするのだが、「外に放す?」と聞いたティンヤに、「こっちに」と寄越すよう伝え、そのままカラスの首をへし折る。そして「生ゴミに捨てておいて」と平然と言ってのけるのだ。

Youtubeで娘の素晴らしさを見せつけるために、なかなか上達しない新体操の技を、コーチに止められても練習させる。浮気をしていることを娘にあっさり伝え、さらにどうやら夫にもそのことを伝えている。そんな「素敵なお母さん」を中心に「家族」が成立していることそのものがまず「狂気」なのだが、観客にそこはかとなく伝わるその「狂気」は決して、この映画の核ではない。あくまで、「舞台装置」程度の存在でしかない。

さて、ここで僕が確認したかったことは、この母親は、「異様な形で『善』と『悪』を1つの肉体に内在させている」ということだ。

ただし、この母親の振る舞いは確かに「狂気」そのものなのだが、「『善』と『悪』を1つの肉体に内在させている」という部分だけ切り取れば、僕たちと同じだ。程度が違うだけであり、誰もがこの母親のように、「私/僕」という肉体の中に、「善」と「悪」が入り混じっており、時と場合によってそれらがごちゃっと混ざった形で表に出てくる。

一方、ティンヤにはどうもそれが出来ないようだ。

冒頭で、「ティンヤが静かに鬱屈を溜め込んでいるのだろう」と感じさせられる場面が多数描かれる。母親がカラスの首をへし折って生ゴミとして捨てた時、隣に引っ越してきた家族の犬の噛まれた時、その隣人の娘が同じ体操教室に通っており、自分よりも上手いことが分かった時。恐らくティンヤは、その内側に「なんともしがたい感情」を抱えている。

ただ彼女は、それを表に出すことができない。

その理由はたぶん、母親を見ているからではないかと思う。まさに「反面教師」というわけだ。ティンヤは、(それまで感じていなかったのかどうなのか描写がないので分からないが)少しずつ母親へと違和感を積み重ねていく。「こんな風にはなりたくない」と強く感じているだろう。誰だってそう思う。そう思わない夫と弟がむしろ異常なのだ。

母親を見て「こんな風にはなりたくない」と思っているティンヤは、自分の内側から溢れ出そうになる「悪」を、そのまま自分の内側に閉じ込めておくことしかできない。

そんな時、夜の森で卵を見つけるのだ。その卵を拾い、自分のベッドで温めて育てる。初めはニワトリの卵程度の大きさだったのに、いつの間にかダチョウの卵ぐらいの大きさになっていく。そして、「母親を浮気相手に取られてしまった」という悲しみの涙を吸収した卵は中から割れ、怪物が現れるのである。

ティンヤは怪物に「アッリ」という名前をつける。そして僕の解釈では、このアッリは、ティンヤの「悪」だけを凝縮した存在だ。

観客は最初、「ティンヤが何故、卵から出てきた怪物に優しく接しようとするのか」が全然理解できないはずだ。しかし映画を最後まで観ると、「ティンヤ=アッリ」だということが分かる。ティンヤは直感的に、アッリが自分自身であると分かったからこそ、グロテスクな見た目にも拘わらず、その怪物を育てることにしたのだろう。

そして、「ティンヤ=アッリ」だと分かったことで、彼女がアッリを育てようと決めたもう1つの理由が見えてくる。それは、「ティンヤ自身の内側からは表に出すことができない『悪』を、アッリに代わりに出してもらう」ためなのだと思う。ティンヤはこの怪物との邂逅に至るまで、学校でも母親との関係でも隣人とのやり取りでも様々な鬱屈を抱えてきた。しかしそれぞれの場面で、「嫌だ」「悲しい」「辛い」「辞めたい」みたいなことは言えないし、むしろ母親を喜ばせるようなことばかり口にしてしまう。

そんな自分に嫌気が差していたのだ。

アッリがティンヤ自身の「悪」そのものだと直感していたのだとすれば、その「悪」を育てることで自分の現状を打破できるかもしれない……ティンヤがそう考えたとしても不思議ではない。だから、グロテスクな見た目の怪物をお風呂に入れ、一生懸命吐き(アッリは普通の食べ物は食べず、ティンヤの吐瀉物だけは食べる)、家族に見つからないように必死で隠すのだ。

要するに、新手の多重人格みたいなものだ。多重人格について詳しいわけではないが、よく耳にするのは、「主人格が虐待やいじめなど苦痛を感じている時に、『今は自分が苦しんでいるんじゃない』と思い込むために別人格が生み出される」というものだ。同じような仕組みで、「別人格」ではなく「別肉体」を作り出したのがこの映画だと言っていいだろう。自分自身は良い子でいたい。でも、「良い子でいる」ということがどうしても苦しくなる時がある。そういう時に、「自分とは違うけれども、自分の『悪』だけが凝縮された存在」がいたらとても都合がいい。悪いことは、全部そいつがやってくれる。自分の内側に芽生える「悪」をちゃんと表に出しながら、ティンヤ自身は「良い子」のままでいられるというわけだ。

確かに、そんな仕組みが存在するなら、ちょっと惹かれてしまうだろう。卵を拾った時点でここまで考えていたとは思えないが、恐らく、卵が割れ、中から怪物が出てきて、しかしコミュニケーションが取れそうだと理解できた辺りでは、既にこういうことを考えていたのではないかと思う。そうでなければ、グロテスクな怪物を育てる動機が見つからないからだ。

ティンヤの「悪」の塊であるアッリは、分かりやすく「ティンヤの苛立ち」に反応する。ティンヤとアッリは一心同体なのだから当然だ。しかしティンヤは、アッリの「怒り」が予想以上に強いことに驚く。つまりそれは、ティンヤ自身の「怒り」が凶悪だということを意味する。アッリは、ティンヤが予想もしなかったレベルでその「怒り」を具現化する。

今こうして文章を書きながらようやく理解したが、アッリが最初に危害を加えたのが「犬」だったことはそう繋がるのか。その場面ではまだ、「ティンヤ=アッリ」だとは思っていなかったので、何故「犬」が殺されたのかよく分からなかった(最初は、食料として食べたのだと思ったが、吐瀉物しか食べないのでそうではないし)。やがて、それが「隣家の犬」だと明かされるのだが、つまり、「指を噛まれた復讐」というわけなのだ。「ティンヤが指を噛まれたこと」が「アッリがその犬を殺す」ことに直結しているのである。

その後も、「ティンヤが感じた『怒り』」と「アッリの『復讐』」があまりにも釣り合わないレベルで遂行されていく。ティンヤは、アッリの行動が自身の「怒り」から来るものだと理解しているから、アッリの行動を「あり得ない!」と感じてはいるものの完全に拒絶することはできない。こんなことになるなら、自分の「悪」を自分の内側に留めたままにしておけばよかったと感じただろうが、たぶんどうにもならない。ティンヤとしては「消えて!」と叫ぶぐらいしかできない。

さて、そんな風に考えた時、ラストシーンはどうなるのか。赤ちゃんに斧を振り上げた場面でも示唆されたが、ティンヤとアッリは「強い痛み」で繋がっているようだ。だから、母親がアッリに包丁を突きつけた時、ティンヤも痛みを感じた。母親はきっと理解していなかったが、母親がもしアッリを殺せば、ティンヤも死んでしまうのではないか、と観客は考えると思う。僕はそう考えた。

しかしその後、思いもよらないことに、母親が再び振り下ろしたナイフがティンヤの胸に突き刺さる。ティンヤがアッリを庇ったのだ。なかなか複雑な行動ではあるが、しかし分からないではない。ティンヤはずっと、アッリに「消えろ」と言っていた。これは、「私の前にはどうか現れないでくれ」という意味だ。ある種の一心同体なのだから、繋がりを断つことはできない。またティンヤ自身も、「自分の中の『悪』だけを凝縮した存在」として育ててしまったことへの申し訳なさみたいなものもあるだろう。アッリだけが悪いのでは決してないし、ティンヤの視点からすればアッリの行動はすべて自分のせいなのだし、アッリだけにすべての責任を被せて終わらせられない、という気持ちになったのではないかと思う。

さてその後どうなったのか。恐らく、ティンヤは死んだだろう。しかし、それまで獣のように叫んでいたアッリが、まるでティンヤのような振る舞いで立ち上がるのだ。

そこで映画は終わる。

あくまで僕の予想だが、この場面は恐らく「ティンヤの『善』と『悪』が、アッリの身体で再び1つになった」ことを意味するのだと思う。つまり、母親と同じ、つまり僕たちと同じようになった、というわけだ。狂気づくしの映画だったが、この解釈を採用するのであれば、ティンヤにとってはハッピーエンドだったと言っていいのではないかと思う。

では、誰にとってバッドエンドなのか。それは母親だ。

母親が、ティンヤとアッリ2人の存在に気づいて以降の展開は、非常に示唆的だ。母親は明確にアッリを殺そうとするが(冒頭でカラスの首をへし折ったのと同じような感覚でいるはずだ)、そのスタンスはまさに、「自分の娘は『良い子』であってほしい」という母親自身のエゴそのものだ。

ある場面で母親はティンヤに対して、

【せめてあなたぐらいは私を幸せにしてほしかった】

と言う。そもそもこのセリフから、「母親は普段幸せを感じていないこと」が示唆されるし、それは「Youtubeで見せている姿はすべて虚構である」ことをさらに裏付けるものなのだが、それに加えて、「娘が『完璧な存在』なら、私も幸せでいられるのに」みたいな意味も込められているだろう。

凄まじいセリフだ。

しかし、ティンヤとアッリという2人の存在を知ったことで、「アッリさえ殺してしまえば、娘が『完璧な存在』で居続けられる」と母親は考える。考えたはずだ。だからこそ、意気揚々とアッリを殺そうとする。

母親は、それがどれほど「虚構」だったとしても、「自分が理想とする『幸せ』」の追求を諦めないのだ。

しかし、そんな母親の希望は、母親自身の行動で打ち砕かれてしまう。ティンヤを殺してしまったこと、そしてティンヤの「善」と「悪」がアッリの中で1つに融合されたことは、母親が望む「完璧な娘」が完全に消えてしまったことを意味するはずだ。

これによって、母親が望む「素敵な毎日」は途絶えてしまったと言っていいだろう。

というのが僕の解釈だ。そんなに大きくは外していないと思っているが、どうだろうか。

さて、今ここに書いたようなことは、映画を観ている最中にはなかなか言語化出来ていなかった。とにかく、「ホラー作品としてちゃんと怖い映画」であり、しかもその「怖さ」が、「何がなんだか全然分からない」という「怖さ」なので余計に恐ろしい。「え??マジで何が起こってるわけ???」みたいなパニック状態のまま最後まで突き進んでいく映画で、映画を観終わった時の素直な感想は、「マジなにこれヤバすぎ」というシンプルなものだった。

また、映画の冒頭から、「様々な『狂気』がさも『当たり前』であるかのように進行していく」という展開も結構恐ろしい。現代のフィンランドが舞台のはずなのに、僕たちの常識がことごとく通用しない、まったく足元が定まらないグラグラした舞台で物語が進んでいくので、その不安定さに観客もまた揺れ動かされるというわけだ。

とにかく、観ている間は思考が追いつかず、「え?え??え???」みたいなまま、「全然分からないけど怖い」という感じで進んでいく。しかし、改めて思い返してみて、「なるほど、きっとこういう設定だったのだろうな」と感じられる。僕の解釈が合っているとして、「肉体分裂版ジキルとハイド」という設定は非常に面白いし、「自分の『悪』だけが別の肉体で存在する」というのは、ある意味で理想的と感じてしまう部分もある。ティンヤも、アッリがあそこまで凶悪でなければ、分裂している状態を「喜ばしいもの」として許容できていたのではないかと思う。

公式HPによると、監督は本作が長編デビュー作だそうだし、主人公のティンヤは1200人の中からオーディションで選ばれたそうで、恐らく演技未経験だと思う(HPにはシンクロナイズドスケートの選手だと書いてある)。まったく、凄い人ってのはやっぱりいるもんだ。


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