【映画】「オッペンハイマー」感想・レビュー・解説

なかなか難しい映画である。これは決して「難解」という意味ではない。物語的には「一人の人間の苦悩を描く」という作品であり、ストーリーとしては難解なものではない。しかし「ある程度知識が必要」という意味で難しさがあると感じた。

というわけでまずは、その辺りの難しさについて触れておこう。この部分は、「映画を観る前に知っておいてもいいこと」でもあると思うので、参考にしてほしい。

まず、僕自身の話を少しすると、僕は物理や科学が好きで、原子爆弾の技術のベースとなっている量子力学についても、一般書レベルだが本を読んでそれなりに知識はある。また、科学的な知識だけではなく、昔の科学者についてのノンフィクションなんかも読んでいるので、特にこの「マンハッタン計画」周辺の話については、様々な本で色々と読んだことがある。そういう事前知識があったので、僕としてはさほど難しくはなかったのだが、「オッペンハイマー」や「マンハッタン計画」について特段知らない人がこの映画を観たら、ちょっとついていくのは大変だろうと思う。

まず、本作全体の構成について触れておこう。本作は、「保安聴聞会に出席するオッペンハイマー」と「閣僚としての招聘を決める公聴会に出席するストローズ」の2人の物語として描かれる。オッペンハイマーのパートはカラーで、そしてストローズのパートはモノクロで描かれるので、その両者で混乱することはないだろう。そして、2人が聴聞会・公聴会の最中に過去を回想するという形で、アメリカで数少ない量子力学の理論物理学者だったオッペンハイマーがマンハッタン計画のリーダーになってから、戦後の混乱に巻き込まれるまでを描いていくのである。

しかし僕は、このストローズという人物のことをそもそも知らなかったので、映画を観ながらしばらく、「何が対立的に描かれているのか」という点が理解できなかった。この辺りのことについて、現代を生きるアメリカ人が当たり前に知識を有しているのかちょっと不明だが、映画の中では観客向けに説明されることはない。映画を観ていく中で、徐々に分かってくるという感じだ。

ストローズは原子力委員会の委員長を務めた人物で、戦後オッペンハイマーをプリンストン高等研究所の所長として迎え入れた人物でもある。また、オッペンハイマーは戦後、原子力委員会の諮問委員会のメンバーだったようで、アドバイザーとして原子力委員会に意見する立場だったようだ。もちろん、当時の委員長もストローズであり、作中でも彼らの対立が描かれていた。

では何で対立していたのか。それは「水爆の開発」である。僕は事前の知識として、「オッペンハイマーは戦後、水爆の開発に反対した」という事実だけは知っていたのだが、細かなことは理解していなかった。そしてどうやら、「水爆開発を推進すべきと考えるストローズ」と「『アメリカが開発したらソ連も開発せざるを得なくなる』という理由で反対を表明していたオッペンハイマー」の対立が明確化していったそうなのだ。

そして、そのような背景があって、聴聞会・公聴会が開かれているというわけだ。「どうして聴聞会・公聴会が開かれたのか」については、映画の後半で明らかになる展開があるので詳しくは触れないが、とりあえず「オッペンハイマーとストローズの対立によって、このような会が開かれるに至った」と捉えておけばいいだろう。

では、それぞれの会では一体何が問題になっているのか?

まずはストローズの公聴会の方から説明しよう。元々この公聴会は、「閣僚を任命するための形式的なもの」であることが割と早い段階で示唆される。つまり、「ちゃんとした形式を踏んで任命しましたよ」という形を作るためのもの、というわけだろう。しかしその中でストローズは、オッペンハイマーとの関わりについて様々に問われる。「形式的」というには、ちょっと突っ込んだやり取りが行われるのだ。

何故か。それは戦後、オッペンハイマーには「共産主義者」というレッテルが貼られたからだ。この辺りのことも、僕は何となく事前の知識として知っていた。「赤狩り」が激しかった時代は特に、「ちょっと赤いだけでもすぐ大学を追われた」と登場人物の1人が語るくらい、「共産主義者」との関わりが厳しく指摘された。そして、オッペンハイマーにそのような疑いが掛けられていたため、プリンストン高等研究所の所長にオッペンハイマーを任命したストローズにも、同様の疑惑が向けられることになったのだ。

では、オッペンハイマーの聴聞会では何が問われているのだろうか。もちろん、「共産主義者か否か」である。会議の目的な色々あるのだが、表向きの目的は「アクセス許可の更新の可否」である。オッペンハイマーが共産主義者であるなら、当然、アクセス許可の更新は許可されない。そして、オッペンハイマーや周辺の人物に様々に話を聞き、それを判断しようというわけだ。

本作を観る前の時点で、まずこれぐらいのことは理解しておいても良いように思う。そうすると、全体の構成や物語を捉えやすくなるはずだ。逆に言えば、この辺りのことを知らずに観に行くと、「会議室のシーン」で何が行われているのかさっぱり理解できないだろう。

一方で、「回想シーン」を観る分にはさほど難しさは無いように思う。時折物理の専門用語が出てくるが、まあ理解する必要はない。物語を把握するのに不可欠な専門知識は、僕が観る限りなかったと思う。難しい単語が出てきても、「物理学者のリアルを描いているシーンなんだな」と思えば十分だろう。科学知識の話で言えば、『TENET』の方が圧倒的に高度だった。『TENET』こそ、科学知識無しにはストーリーを理解できないんじゃないかと思う。

というわけでまず、本作の「鑑賞における難しさ」について触れたところで、次に「原爆開発や原爆投下に関する僕自身の考え」に触れたいと思う。この辺りの価値観も、鑑賞する上で大きな影響を及ぼすし、今僕が書いている文章を読んでもらう上でも重要だと思うからだ。

まず大前提として、「現代を生きる日本人の僕」からすれば、「原爆投下は誤りだった」という結論になる。重要なキーワードは「現代」「日本人」である。まずは「日本人」の方から触れておこう。アメリカ人の中には、「原爆投下によって戦争終結が早まり、これ以上の犠牲者を出さずに済んだ」という考えがあると聞いたことがある。この考えがどれぐらい多数派を占めているのかは知らないが、アメリカ人としてはそのような判断になったりもするのだろう。しかしやはり、「日本人」としては、広島・長崎への原爆投下は「明確な誤りだった」という判断になるはずだ。

では「現代」の方に話を移そう。それがどんな歴史であれ、「同時代」に判断を下すことは難しい。作中では何度か、「歴史に裁かれるぞ」という趣旨のセリフが散見されたが、まさにその通りだ。歴史は常に、未来を生きる人間によってしか評価されないと思っている。

そしてそんな「未来人」である僕の評価は、「原爆投下は誤りだった」となる。しかし、「同時代を生きた人」にとって何が正しかったのかは、やはり別で考える必要があると思っている。

というわけで、本作でも描かれているし、僕がこれまでに読んだ本でも触れられているのだが、「アメリカが何故原子爆弾を開発し、それを日本に投下したのか」の話をまとめておこう。

作中で、マンハッタン計画のリーダーに就いたばかりのオッペンハイマーが、友人の物理学者ラビから「私はここ(ロスアラモス)には来ない」と告げられる場面がある。ラビは続けて、「物理学300年の歴史が爆弾なのか」と嘆くのである。

それに対してオッペンハイマーはこのように返していた。

【分からない。そんな平気を私たちが預かってよいかなど。
でも、ナチスではいけない。】

僕はこれまで色々本を読んできたが、共通して語られていたのがこの点である。つまり、「ナチスドイツが原子爆弾を開発してしまったら、世界が終わってしまう」というわけだ。

当時の世界にとって「ナチスドイツ」というのは共通の恐怖だった。ヒトラーを先頭に、何をしでかすか分からない狂気的な集団と目されていたわけだ。そしてそんなナチスドイツがもし仮に原子爆弾を生み出してしまったら、世界はまさに終焉を迎えるだろう。彼らは、現実的にそのように考えていたのだ。

しかもドイツには、量子力学の世界的な理論物理学者がたくさんいた。ハイゼンベルク、プランク、ボルン、ゾンマーフェルトなどなど、量子力学の創設に貢献した理論物理学者がわんさかいたのだ。かたやアメリカはというと、オッペンハイマー自身が大学内で量子力学の講座を立ち上げ、最初の生徒はたった1人という有り様だった。ある場面でオッペンハイマーは、「ドイツは2年先を進んでいる」と語っていた。とすれば、ドイツが世界初の原子爆弾を作るのも時間の問題だと考えられても当然だろう。

ちなみに、本作で描かれることではないが、僕は以前本で、「ドイツの原子爆弾開発は、実は全然進んでいなかったことが戦後明らかになった」という話を読んだことがある。というのも、ヒトラーは半年間で成果の出る研究しか認めなかったからだ。結果的には「ナチスドイツが先に原子爆弾を開発する」というのは多くの人にとっての幻想に過ぎなかったわけだが、しかしそうだとしても、当時の物理学者にとっては間違いなく現実的な脅威だったはずだ。なにせ、これも映画で描かれる話ではないが、原爆開発の発端は、あのアインシュタインがルーズベルト大統領に「原爆開発を進めるべき」と手紙を書いたからである。そのため、オッペンハイマーが「原爆の父」と呼ばれているのに対し、アインシュタインは「原爆の祖父」と呼ばれる。ちなみにアインシュタインは戦後、科学者が原爆開発に参加しないことを宣言した「ラッセル=アインシュタイン宣言」を取りまとめもした。アインシュタインはドイツからの亡命者だったためロスアラモスには呼ばれなかったが、間接的に原爆開発に関わってしまったことを生涯後悔していたそうだ。

さて、話を戻そう。当時の物理学者には「ナチスドイツによる原爆開発」は現実的な脅威だった。だから、それに対抗するために、彼らが先に原子爆弾を作りナチスドイツを壊滅させる必要があったのだ。

僕は、この判断は仕方なかったと考えている。仮に原子爆弾が1年で完成していたら、彼らはドイツに原子爆弾を落としただろう。そして、ドイツの人には申し訳ないが、その世界の方が、世界全体としても今より少しはマシだったのではないかと思う。もちろん、日本としては大いに喜ばしい状況だったと言える。

さて、しかし原子爆弾の開発には膨大なコストが掛かった。4000人の科学者、20億ドル以上の資金、そして3年という歳月である。そして実は、原子爆弾の開発を行っているその3年間の間に、ヒトラーが自殺している。既にナチスドイツは脅威では無くなったのだ。

もしもこの時点で、原子爆弾完成の見通しが立っていなかったら、恐らく原爆開発は中止されただろう。しかし日本にとって(あるいは「世界にとって」もか)不幸だったのは、ヒトラーが自殺した時点で既に、原子爆弾はほぼ完成していたことである。

ロスアラモスではもちろん、この時点で議論が生まれた。ヒトラーの死を知った科学者の1人は、「今や人類最大の脅威は敵ではなく私たちになった」と、人類史上類を見ない兵器を開発している自分たちこそが最も危険な存在になったという認識を示していた。もちろんその人物は、これ以上の開発の中止を考えてただろう。

しかしその議論を聞いていたオッペンハイマーは、「確かにヒトラーは死んだ。でも日本がいる」と発言する。そこで「投下をどう正当化する?」と問われ、このように答えるのだ。

【我々は未来のことを想像し、脅威を感じれば行動を変える。
しかし、実際に使いその威力を理解するまでは、人々は恐れないだろう。
そのために投下する。
人類の平和を確実なものにするのだ。】

別の場面でもオッペンハイマーは、同じような趣旨の発言をしていた。原爆投下の是非を決断する会議でどのような助言を行ったのかを語った場面である。

【一度使えば、核戦争、いや、恐らくすべての戦争のことを考えもしなくなるだろう。】

これらの発言は、要するにこういうことだ。原子爆弾は、そのあまりの威力故に、「原子爆弾なんてものが存在する世の中では、二度と戦争を起こすまい」と人々に認識させるだけの力がある。しかし、一度も使わなければ人々はその威力を知ることは無く、そうなれば戦争を放棄することもないだろう。だから、「恒久的な平和」のために、一度は原子爆弾を使わなければならないのだ。

さて、この点についても、まずは「現代」視点で捉えてみよう。結果として、今も多くの国が戦争を繰り返しているし、核保有国はアメリカ以外にも広がったし、北朝鮮がミサイル技術を進化させて近隣や世界を挑発している。オッペンハイマーが理想的に捉えていたような「誰も戦争を考えなくなる世界」など、やってこなかったというわけだ。そういう意味でもちろん、「今」の視点ではこの判断は誤りだ。

そして僕の感覚では、当時の価値観においてもやはり、ここは踏みとどまるべきだったのではないかと思う。もちろん、「大量破壊兵器を開発している」という事実を無視した話をすれば、「せっかく大金を投じて作ったのだから使いたい」という気持ちは分かる。それは科学者に限らず、技術者やアーティストなど様々な人が共感できるだろうと思う。しかし問題は、それが「大量破壊兵器」だったということだ。

確かにオッペンハイマーの言う通り、「原子爆弾を実際に使用してみることで、世界から戦争が一掃される」みたいな可能性もあったかもしれない。僕らが歩んだ未来は、たまたまそういう道を通らなかっただけで、原爆投下以前にはそのような可能性もかなり高いものとして捉えられていたかもしれない。ただそうだとしてもやはり、有名な哲学の問題の「トロッコ問題」のように、「5人助かるなら1人は死んでもいい」みたいな話にはすぐには頷けない。原爆投下も同じで、仮にオッペンハイマーの主張が当時は説得力があるのだとしても、結局それは「5人助かるなら1人は死んでもいい」みたいな考えでしかなく、やはり個人的には「誰も死なない道を探るべきだったのではないか」という理想的な考えを抱いてしまう。

さて、そのような判断とは別に、もう1つ認識しておくべき視点があるだろう。

原爆投下の直前の会議である人物が、「諜報員によると、いかなる状況でも日本は降伏しない」という発言が出てくる。当時のアメリカからすれば、日本は「ハラキリ」「バンザイアタック」など、普通には理解不能な異次元の死生観を持った種族であり、「まともな話が通じる相手ではない」と考えられていても仕方なかったようには思う。

それに、色々噂はあるものの、やはり日本は「真珠湾攻撃でアメリカに宣戦布告した国」である(隙を作ってわざと真珠湾を攻撃させた、みたいな話があることも知ってはいる)。日本では「大東亜戦争」と呼び、「アジアを欧米から解放する」みたいな主張で戦争を続けていた当時の日本が世界からどう見られていたのか、正直僕にはよく分からないが、「戦争に負けた」という事実も含めた上でだが、やはり「日本が間違っていた」と捉えざるを得ないように思う。

「日本が間違っていたんだから、原爆を投下されても文句は言えない」などと主張したいのではまったくないが、少なくともアメリカの論理としては、「あいつらが仕掛けた戦争なんだから」みたいな感覚はあったんじゃないかと思う。別にその辺りのことが本作で描かれているわけではないが、これまで自分が触れてきた知識を元に考えると、このような感覚になる。

長々書いたが、まとめると、「原爆開発に着手したことは正しかったと思うが、原爆を日本に投下したことについては理屈は通らないと思う。しかし、当時のアメリカの感情論としては、理解できなくもない」と言ったところである。日本に生まれ育った身としては、シンプルに「原爆投下は間違いだった」と言いたいところだが、色々なことを踏まえて考えると、こういうフワッとした結論になってしまう。

さて、前置きが長くなったが、ここからまた映画の話に戻そう。

本作は、前半では主に「オッペンハイマーはどのような形で共産主義と関わっていたのか」が丁寧に描かれていく。正直僕は、冷戦やら全共闘やらをリアルには知らないので、「共産主義」と言われてもその脅威を理解しにくいのだが、とにかくかつては、資本主義の国では特に「共産主義」が嫌悪されたようだ。

オッペンハイマー自身は共産党に入党したこともなければ、共産主義者でも無いようだ。少なくとも、本作ではそのように描かれている。しかし、弟は共産党に入党していたことがあるし、かつての恋人(というか、結婚後も不倫関係にあった)も共産党員だった。オッペンハイマーの周囲には共産党と関わる人が結構いたのだ。

その理由は、オッペンハイマーが大学内で労働組合を作ろうと動き始めたことと関係があるようだ。正直良くわからないのだが、当時はおそらく「労働組合を作る」というのも「共産主義的な行動」と見なされていたのだろう。それ故にオッペンハイマーは、労働組合を作ろうという動きをことごとく封じられてきた。「国家プロジェクトに参加できなくなるぞ」と忠告を受けたこともある。

そのため、学内での行動は避けるようになったが、彼はその後「FAECT」という集会に関わるようになっていく。シェル社という企業の労働組合のような組織、なのだと思う。恐らくこれが、共産党との関わりの接点になったのだろう。そんなわけで、彼自身は共産党員でも共産主義者でもないももの、周囲には共産主義者が多くいるという状況にあった。

しかし、彼がマンハッタン計画のリーダーに決まった時点では、その事実はあまり重視されなかったようだ。作中でもオッペンハイマーが、「左翼との関係が核計画への参加を妨げないと告げられた」と語る場面があった。オッペンハイマーと共産主義者との関係は知られて事実ではあったが、それよりもオッペンハイマーの科学者としての力量を買った、というわけだ。そしてそれは成功し、原子爆弾は完成に至ったわけだが、戦後「赤狩り」の嵐が吹きすさぶ中、改めて共産主義者との関わりが取り沙汰されるようになったというわけだ。

監督のクリストファー・ノーランは「鑑賞の枠を狭めたくない」みたいな理由から、「作品をどう観てほしいか」みたいな質問には基本的には答えない。そしてそんなスタンスの人物らしく、オッペンハイマーについても「分かりやすい人物」としては描かない。本作を観ても、オッペンハイマーがどのような人物だったのかも、そしてクリストファー・ノーランがオッペンハイマーをどのような人物として描こうとしたのかも、よく分からないだろう。そして、それでいいのだと思う。本作の良さは、「複雑な人間を、『複雑な人間である』という風に描き出していること」にあると思うからだ。そしてその複雑さは、一方では「原爆開発の葛藤」から生み出されるわけだが、もう一方は「共産主義者との関わり」によって明らかになっていくという感じがする。

さて、もう一方の「原爆開発の葛藤」の方だが、この点が本作においては最も理解しやすい部分だと思う。特に物語の後半、実際に日本に原爆が投下されたことを知った後のオッペンハイマーの「葛藤」については、もちろんこの点についても決して理解は容易ではないのだが、一般的な人間の感覚として捉えやすいものではないかと思う。

印象的だったのは、ルーズベルト大統領に面会したオッペンハイマーが、「私の手は血塗られたように感じます」と口にした際の大統領の返答だ。ここではその返答には触れないが、なかなか凄いことを言うな、と感じた。

さて最後に、本作には「世界を破壊する」みたいなセリフが随所に出てくる。もちろんこの意味は、観ていない人にもきっと想像出来るだろうと思う。オッペンハイマーが開発した原子爆弾は、その後の世界を一変させるような凄まじい代物だったからだ。個人で成した偉業ではないものの、その主導者であったオッペンハイマーが「世界を破壊した」と評されるのも、まあ分かるだろう。

しかしこの「世界を破壊する」には、実はもっと実際的な意味があったことを映画を観て初めて知った。

マンハッタン計画が始まった当初、話し合いの場でテラーという物理学者が「ヤバい計算結果が出た」と話し始める場面があった。その計算によるとなんと、「原子爆弾を爆発させることで大気に引火する」というのだ。つまり、原子爆弾をどこに投下しようとも、爆発した瞬間に大気が燃え、それによって世界が火に包まれる、という計算結果が導き出されたというのだ。

この計算は後に、テラーの仮定に重大な誤りがあったことが判明し、撤回された。しかしそれは「ほぼ」だった。「ほぼ可能性はゼロ」というわけだ。

この話、完成した原子爆弾を実際に爆発させてみる「トリニティ実験」の直前に、再び話題として登場する。ある科学者が、「『大気に引火する』への賭け」を行っていたのだ。その様を観ていた軍人が、「あれは何だ?」とオッペンハイマーに聞き、彼は軍人に、当初そういう計算があったことを話す。

それを受けて軍人は、「だったらどうしてあんな賭けをしているんだ?」と聞き、オッペンハイマーが「ブラックジョークだよ」と答えるのだが、さらに軍人が「可能性は?」と聞く。オッペンハイマーが「ほぼゼロだ」と答えると、「ほぼ?」と返す。オッペンハイマーが「理論に何を求める?」と聞くと、軍人は「ゼロがいい」と答えるのだ。

このシーンは、映画全体としては大した描写ではないが、「科学者」と「非科学者」の深遠なる溝を表現するようなとても印象的なシーンに感じられた。科学者は、未知のものに対しては「可能性がゼロ」などという表現はしないものだ。

そしてこの会話を受けてのことだろう、原子爆弾に引火する直前、軍人がオッペンハイマーに「世界を壊すな」と言うのである。「ほぼゼロ」だったとはいえ、原子爆弾を爆発させることで、本当に「世界が壊れる」可能性もあったというわけだ。なかなか興味深い話だった。

映画は最後の最後まで分かりにくい。人間を単純に捉えようとしないクリストファー・ノーランのスタンスが最後まで貫かれている感じだ。ストローズに関しては全体的に「小物感」が浮き出るような描かれ方になっていたが、オッペンハイマーに関しては「どう捉えるべきか悩むような複雑さ」に溢れており、なんとなくだが、観る度にその印象が変わるんじゃないかとも感じた。

僕が知っているクリストファー・ノーラン作品とは大分趣の異なる作品で、色んな意味でとっつきにくさもあるが、個人的には「観て良かった」と思える作品である。

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