【映画】「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」感想・レビュー・解説

間違ったことをして誰かに評価されることより、正しいことをして誰かに嫌われた方がマシ。そんな風にいつも思う。

【君は知らんのだ。今モスクワで記者をすることの難しさが】

自分が果たすべき役割があるとして、努力してもそれを果たせないことは往々にしてある。しかし、果たそうともせずに、というか、果たすべき役割と真逆なことをやって、それで普通でいられるというのがよく分からない。

いや、もちろん、彼らにも言い分はある。

【大義を選ばなければならないことはあるのだ】

革命に犠牲はつきものだ、という言説はよく登場する。まあ、犠牲なくして獲得できるものなどない、ということはわからないではない。しかし、大前提として、その犠牲は、革命に積極的に賛同した者がその大半を負うべきだと思う。というか、革命に賛同していない者がその犠牲を負うという状況は、まったく不可思議なことでしかない。

もちろん、「革命」を評価するのは困難だ。革命が成し遂げられしばらくたってからで無ければ、その良し悪しは判断出来ないだろう。今、香港で繰り広げられていることも、僕の個人的な視点で見れば、周庭さんを始めとする市民運動家の人たちの主張や行動が正しいと思えるし、自ら積極的にというのは難しいが、何か支援出来るような機会が自分に巡ってくることがあるなら、彼女たち市民運動家を支援できたらいいと思う。しかし、革命というのは、成し遂げた側あるいは成そうとした側が常に「正しい」とも限らない。革命を成し遂げた者が独裁政権敷くこともあるだろう。あるいは日本の全共闘の頃のように、一部が過激化し市民から支持を得られないレベルにまで先鋭化してしまうこともある。

だから、この映画でも様々な人物が口にすることになる、「革命の途中なのだから仕方ない」という趣旨の発言は、一概に否定することは難しい。

だが。この映画の全体を見れば、さすがにそう判断できる人は少ないだろう。先程触れたように、革命に賛同していない(だろう)者たち、数百万人という単位で犠牲を敷いられている。そんな犠牲の上にしか成り立たない「革命」など、どんな理由があろうと正当化出来るものではないだろう。

世の中には、自らの危険を顧みず、世界中の様々な場所に足を運び、現実を自ら目にし、それを報じる者たちがいる。命を懸けるほどの動機は理解できないまでも、「真実を知りたい」という衝動についてはそれなりに理解できる。そして、自らの命を危険に晒してまで真実を追い求める者たちがいてくれるお陰で、僕らは無知にならずに済んでいる。ありがたいことだ。

一方で、メディアの力を己の欲望のために利用し、真実とはかけ離れた記事を書くことで自らの地位や名声を確保し、あまつさえ、報道における最高の賞を受賞する者もいる。

報道に、ミスが存在しないなどということはあり得ない。ミスはいつだって起こりうる。しかし、ミスではなく、悪意を持って真実ではない記事を書く者もいる。報道をすべて鵜呑みにしてはいけないというのは鉄則だろうが、しかし同時に、それが厚いベールに覆われた世界の話であればあるほど、比較するための情報が存在しないことになる。だから、報じる者の良心を信じて報道を受け取るしか無い。

しかし改めて、残念なことではあるが、やはり疑いを持って報道に接しなければならないのだなぁ、という思いを新たにすることになった。

内容に入ろうと思います。
イギリスの政治家ロイド・ジョージの外交顧問として各国の取材をしていたガレス・ジョーンズは、外国人記者として初めてヒトラーを取材したことでも知られていたが、ジョージの下ではその情報分析をうまく活かせないでいた。ジョージの他の取り巻きたちが、ジョーンズの話をいつも小馬鹿にしか聞かないからだ。その上彼は、経費削減もあって、ジョージから解雇通知を受けてしまう。彼はジョージが書いてくれた推薦状を持って、モスクワを目指すことにした。
スターリンにインタビューをしたいと考えたのだ。
ジョーンズには大いなる疑問があった。全世界的に恐慌の嵐が吹き荒れているというのに、スターリンのソ連だけが繁栄していたからだ。予算のつじつまが合わないのだ。スターリンの金脈がどこにあるのか。それを探るべく、まず彼はソ連へのビザを取り、さらにモスクワにいる記者仲間であるポールに連絡を取った。また取材に協力してもらうためだ。
しかし、ジョーンズがモスクワに着くと、ポールはなんと事故死したと知らされる。また、1週間のビザを手にしたのに、ホテルには2泊しかできないという。ニューヨーク・タイムズのモスクワ市局長であるデュランティに会うように言われるが、彼は記者仲間と美女を集めたアヘンパーティーに興じていた。デュランティは、スターリンを礼賛する記事を書きピュリッツァー賞を受賞した人物である。ジョーンズは記者たちの話を総合し、記者はモスクワの外には出られないこと、どうやらまともな取材が行われていないようだと理解する。
その夜、たまたま出会ったエイダは、デュランティの下で働く記者であり、ポールのことも知っていた。事故死と聞いていたポールが、実は背後から4発も銃弾を撃ち込まれていたことをエイダから聞き、ポールの取材が真実に迫っていたのだろうと理解する。ポールの取材の後を引き継ぐために、ジョーンズはジョージからの推薦状を一部書き換え、記者ではなく外交顧問としてウクライナまでの切符を手にすることになる。果たしてそこで彼が見たものとは…。
というような話です。

戦時中の話でありながら、現代とも二重写しになるような話で、昔の歴史の話だと切り捨てられない怖さを感じさせられました。

この文章を書いている最中で起こっていることと言えば、Tik Tokの問題があります。中国企業が生み出したこのアプリを、全世界的に規制しようという動きがあります。その背景には、中国の独自の法律の存在があります。中国には、「国家が求めれば企業は情報を出さなければならない」という趣旨の法律が存在します。つまり、中国企業を通じて、中国政府が様々な情報を収集できる仕組みになっている、ということです。Tik Tokの運営会社は、情報を渡したことはないし、求められても渡さない、という声明を出しているけど、それを信じるのはなかなか難しいものがあると言わざるを得ないでしょう。このように中国は、情報収集の可能性を広げることで、自国以外の人間の自由を奪える可能性を秘めているということになるでしょう。
(とはいえ、アメリカも、エシュロンという衛星で、世界中の通信を傍受していると言われているし、他国を非難できるような立場ではないような気がする、という気持ちもあるのだけど)。

また、同じく中国には、ウイグル自治区での問題もあります。少数民族を排除するような動きがある、とされている一方で、なかなかその情報がメディアに乗りません。中国が取材などを制限していたりすることもあるし、一方で、中国を敵に回さないように配慮しているのだ、という記述も見かけたことがあります。

ロシアでは割と最近も、大統領選挙の投票所で、プーチン大統領への投票を水増しするような不正が多数カメラに収められていたことが報じられ、しかしそれでもプーチン大統領が当たり前のように当選し、大統領を続けています。

元社会主義国家である中国やロシアで情報や言論の統制が厳しいのはまあイメージしやすいですが、日本も、世界的に見ると報道に難ありと判定されています。毎年出されている「報道の自由度ランキング」では、2020年の日本は66位、G7では最下位で、セネガル・トンガ・マダガスカル・ドミニカ共和国・ボスニアヘルツェゴビナ・アルメニアといった国にも負けています。なかなか酷いですね。日本に住んでいると、言論の自由、つまりどういう発言をしても国家が介入するような事態にはならない一方で(SNSなどで炎上はするが)、正しく客観的な情報を得るための報道の役割がきちんと果たされていない、という評価になっているわけです。

この映画で描かれているのは、ソ連が、外国の記者を懐柔し、偽りの報道をさせてまで暴かれたくなかった事実を、名もなきジャーナリストが単身乗り込み暴き出すという、実際の出来事を元にした物語です。いつの時代にも、ジョーンズのような、真実のために自らの危険を顧みない人物というのはいるものだけど、ジョーンズは、ピュリッツァー賞を受賞した超有名な記者を敵に回してソ連の闇を暴くという、かなり難易度の高いことをやってのけているというのが凄いなと思いました。

ジョーンズのように憤っている記者は、もちろんたくさんいたことでしょう。しかし、そう簡単に行動には移せない。ポールのように行動に移しても殺されてしまう人もいるし、エイダのようにソ連が成そうとしている革命を信じている(あるいは、信じ込みたいと思っている)場合もある。もちろん、運も良かっただろうけど、「真実を知りたい」「知った真実を知らせなければならない」という強烈な動機が、この無謀な挑戦には必要だったのだろうと思う。

この映画で非常に興味深かった点として、ジョージ・オーウェルの存在が挙げられる。かなり後半に登場するのだけど、登場した瞬間に、「なるほど、『動物農場』か!」と合点がいった。この映画では、ジョージ・オーウェルが「動物農場」を執筆するに至った経緯が簡単に描かれているが、どこまで史実に基づいているかはわからない。しかし、ジョーンズとの関係性がどうだったかはともかく、ジョージ・オーウェルが、こういう時代背景を元に「動物農場」を書いたのだ、ということが理解できて良かった(まあ、「動物農場」は未読だけど)。

映画の最後で少し触れられるのだが、ジョーンズは不遇な形で命を落としてしまう。彼のように、真っ当に正しさを追い求める人物は、もちろん生きている間に評価されるべきだと思うし、それが叶わなくても、死後に名誉が回復されるべきだ。そのためには、僕らが積極的に、ジョーンズやジョーンズのような人の存在を知ろうとする必要がある。こういう映画の存在によって、ジョーンズが正しく評価されるのは、良いことだと思う。

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