【映画】「生きててごめんなさい」感想・レビュー・解説

これはなかなか良い映画だったなぁ。映画の中盤ぐらいで、「ストーリー的にもうちょいあるといいんだけどなぁ」と思っていたのだけど、その「もうちょい」が実際にあったので、ストーリー的にも良かった。後は、映画全体に通底する「いたたまれなさ」みたいなものは、変な表現だけど「自傷行為をしている」みたいな気分になって、なんとも言えない味わいを醸し出していたと思う。

設定は、又吉直樹原作の『劇場』の逆バージョンみたいな感じと言えば伝わりやすいかもしれない。いや、逆ということもないか。『劇場』では、「創作する側」と「支える側」が別人格だったが、『生きててごめんなさい』は、「創作する側」と「支える側」が同一人格であるという点にややこしさがある。

描かれる人間関係は、シンプルに表現してしまえば「共依存」ということになるだろう。僕は、現実に「共依存関係」を知っているわけではないので、そういう意味で、何がリアルで何がリアルでないのかは分からない。ただなんとなく、「凄くリアルな共依存関係だなぁ」と感じた。

そのややこしい関係性を、図らずも成立させているのは、出版社の編集部で働く作家志望の園田修一である。彼は、傍目には「眩しい存在」に映るかもしれない。大手ではないものの、出版社の編集部で働いており、さらに「小説家になる」という夢を追っている。彼の小説がどの程度ものになるのか、推し量るのは難しいが、「決して悪くない」と感じさせる場面がある。高校時代の文芸部の先輩であり、今は大手出版社で有名作家の担当編集をしている相澤今日子から、「あなたは絶対に『書く側』の人になるんだと思ってた」「高校時代、私はあなたのファンだったよ」と言われるのだ。現役の文芸編集者からそんなことを言われれば、「可能性はある」と感じて当然だろう。

というのが、客観的に見た「園田修一」の人物像である。

しかしそんな彼は、それが何であるのかはっきりと描かれる場面こそないが、随所で「何らかの劣等感を抱いているのだろう」と感じさせる男でもある。

最近、少し興味深い経験をした。

私は、誰もが名を知る有名な大学を中退している。で、つい先日、大学時代の同期と1つ上の先輩10人程で飲む機会があった。その中に、もしかしたら大学卒業以来会ってないかもしれない、というぐらい久々に会った先輩がいる。彼は、園田修一と同様、客観的に見れば「羨ましがられる生き方」をしていると言っていいと思う。一方僕は、客観的に見て「決して羨ましがられることはない生き方」だと言っていいだろう。

しかし、その先輩に今の自分の仕事などを伝えた際、明らかに「羨ましがられる生き方」をしている側にいる先輩から、「すげぇな」と何度も言われた。初めは、何を「凄い」と言われているのか掴みにくかったが、次第に、「どうやら先輩は、自分の生き方に何か劣等感的なものを抱えているのだろう」ということが分かってきた。具体的にそれが何なのか、はっきりとは分からなかったが、映画を見ながら、ちょっと重なるような状況だなぁ、と感じたことは確かだ。

話を戻そう。園田修一は、それが何かは不明だが、何らかの劣等感を抱いている。そしてだからこそ、恋人である清川莉奈の存在を必要とするのである。

清川莉奈とは、彼女がバイトしていた飲み屋で出会った。出会ったその日、莉奈は9度目の「クビ」を宣告されてしまう。社会に上手く馴染むことが出来ず、どこに行っても「役立たず」みたいな扱いをされている。両親も、彼女のことを諦めてしまっているそうだ。

そんな彼女と居酒屋で出会った修一は、その後莉奈と同棲するようになる。修一は文芸とは程遠い実用・ビジネス系の本を出す編集部で働いており、仕事そのものはさほど好きになれないでいる。新人賞の締め切りが近づいているのに、小説の執筆も進んでいない。敬愛する作家・多和田彰の講演会にも、同僚のミスの尻拭いのために行けなかった。そういうイライラを日々募らせながら、修一は毎日働いている。

一方の莉奈は、ほぼ部屋着のまま修一を駅まで送った後は、日がな一日何をするでもなく日々を過ごしている。彼らの部屋のオーナーであるらしい、近所でペットショップを経営している親子の元を訪れるぐらいで、後はベッドの上でゴロゴロしているだけの生活だ。

そういう莉奈を、修一は「必要としている」。その理由は恐らく、「自身の『劣等感』が、莉奈と関わることで少し薄れるから」だ。酷い書き方をすれば、「自分よりも下がいる」という気持ちこそが、「俺には莉奈が必要だ」という気分の底の底に横たわっているのだと思う。

そのことを、修一がきちんと自覚しているのか。そのことは、はっきりとは分からなかった。どちらにしても、修一の振る舞いはなかなかのクズなので大差はないのだが、自覚していなかった場合、「修一が受ける衝撃」が倍加することになるので、修一的には大変だろうと思った。

映画はしばらくの間、はっきりと「莉奈のヤバさ」が引き立つような構成で作られていく。しかし映画が展開するにつれて、むしろ「修一のヤバさ」が際立つようになっていく。「修一は真っ当な存在だ」と思って観ていると、頭をガンガン殴られるみたいな転換を強いられるだろうと思う。

莉奈が発する「ズルさ」はとても分かりやすいし、分かりやすいが故に、批判や拒絶もしやすい。一方、修一が発する「ズルさ」はとても分かりにくい。だからこそ、気づいた時にはもう、批判も拒絶も受け付けないような状況に追い込まれていることになる。

修一が莉奈に向かって、直接的にかなり酷いことを口走る場面がある。しかしその言葉は結果的に、修一自身に向けられて然るべきものだと言ってもいいかもしれないと感じた。そのような「反転」構造は、ラストシーンでも上手く取り入れられていると思う。特にラスト、あの場面で莉奈が口にするセリフは、なんとも言えない奥行きを感じさせるもので、凄く好きだった。あのラストのセリフは、翻訳すると「ついて来ないで」という意味になるはずなのだが、それを疑問形にし、さらに「一緒に」という言葉を入れ込んで、「ついで来ないで」とはまったく異なる文字列に置き換えているところは、なんか凄く良かった。「ついて来ないで」と言われていたら、もしかしたらその後も追いかけていたかもしれないが、あんな風に言われたら、もう止まるしかないよな、と感じた。

役者は、とにかく、清川莉奈役の穂志もえかがとても良かった。今調べて初めて知ったが、映画『窓辺にて』で、稲垣吾郎の親友の不倫相手を演じてた人なのか。マジでまったく違う印象だったから、全然気づかなかった。

穂志もえかは、「メチャクチャめんどくさいメンヘラ」を絶妙に演じていたと思う。なんか、ホントにそういう人なんじゃないかと思うくらい、メチャクチャハマっていた。セリフとか言動とかじゃない、もう「雰囲気」としか言いようがないレベルで「めんどくささ」を発してる感じが凄い。ちょっとこの女優さんは、これからも注目してしまうかもしれん。先日観た映画『グッドバイ、バッドマガジンズ』の杏花も良かったが、穂志もえかもメチャクチャ良かったなぁ。

個人的には、「一年後」の物語も、もう少し観てみたかったなと思う。ただ、この映画の終わり方もとても良かったので、別に不満があるわけではない。とても良いラストだった。

あと、メチャクチャどうでもいい話なんだけど、「耳触りが良い」っていう表現、もはや市民権を得てるんだなぁ、と思った。元々「耳障り」が正解で、だから「耳触りが悪い」というマイナスの方の表現しか成立しないはずなんだけど、「耳障り」が「耳触り」と誤記されるようになり、その後「耳触りが良い」という表現が出てくるようになった。本来は誤用のはずだけど、辞書にも載ってるみたいだし、普通の言葉になったんだなぁ。

この記事が参加している募集

映画感想文

サポートいただけると励みになります!