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【本】川上量生「コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと」感想・レビュー・解説

本書は、「ジブリ映画」をメインで扱いながら、「創作全般」について扱っている。創作というのは要するに、アニメ・映画・小説・音楽・ゲームなどなどのことである。それらに対して、「コンテンツ」の定義を考えたり、「クリエイター」とはどんな人であるのかを考えたりする。

さてでは、僕がこのブログで書いているような文章は、「コンテンツ」だろうか?

本書で「コンテンツ」がどんな風に定義されるのかは後で触れるけど、その定義はやはり「創作全般」に対して当てはまるものだ。しかしその定義は、創作ではないものにはうまく当てはまらないような気がする。僕が書いているような「感想」、あるいはもう少し高度な「批評」、また「エッセイ」や「論文」など、「創作」ではないような表現もある。漠然とした違いを書けば、「創作全般」は「何もないところから生み出されているように感じられるもの」であるのに対し、「感想」や「批評」なんかは「何かがあることを前提に、それに対して生み出されるもの」という感じがする。

あるいは、「CM」なんてのはどうだろう。「CM」というのは、究極的な目的は「伝達」である。映像なりラジオなり文章なりによって、「何かを買ってもらう」「何かを知ってもらう」というような「伝達」のための手段である。また、「何かがあることを前提に、それに対して生み出されるもの」でもある。そういう意味で「CM」は「創作全般」ではないように思えるが、しかし「コンテンツ」かどうかと聞かれれば、「コンテンツ」であるようにも思える。作っている人は「クリエイター」と呼ばれるだろうし。

こういうものについては、本書では触れられていない。そういう意味では、本書でなされる「コンテンツ」の定義というのは、弱いようにも感じられてしまう。

とはいえ、著者にとって本書は「不完全を承知で出すもの」という扱いである。

『本にするなら、もっと膨大な証拠を集める必要があるし、ちゃんと証明しようとすると大変な手間がかかることになるけど、そんな時間はない(から本にはできない)』

当初はそう考えていたが、気が変わって、『ジブリプロデューサー見習いの卒論』のようなつもりで書いたとのことです。なので、不完全さについて殊更に責め立てるべきではないでしょう。とはいえ、「創作全般」以外のものについても、「コンテンツ」という定義に含めて考えてくれるとなお面白かったような気はします。

のっけからマイナス要因となるようなことばかり書いていますが、別に本書全体に対する評価が低かったわけでは全然ありません。本書は、「創作全般」に対して「コンテンツ」や「クリエイター」の定義を追い求めるような中身になっていますが、さすが理系出身という感じの、明快な理屈とシンプルな説明で、様々な体験や会話を組み込みながら、ジブリプロデューサー見習いとして感じた疑問を追い続け、答えを求め続けた軌跡が描かれていきます。

まず、著者について少し触れましょう。
著者は、ドワンゴという会社の創業者(のはず)で、かつては着メロのサイトで一世を風靡し、今ではニコニコ動画を運営する会社としても知られています。そして、その代表取締役である著者が、ドワンゴに出社するのは週に1度木曜だけとし、残りはすべてジブリに通いつめ、プロデューサー見習いとして2年ほど関わりました。
その経験を元に、本書が生み出されています。

著者は、宮﨑駿、高畑勲、鈴木敏夫らジブリの超ビッグネームから、特異な才能を持つジブリのアニメーター、あるいは庵野秀明、押井守といった人たちと関わり、日々その仕事ぶりを見て、様々な質問を投げかけ、そんな風にして、彼らが何を生み出しており、そのために彼らが何をしているのかということの本質を探り出そうとします。

著者がジブリと関わりながら解き明かしたいと考えていた疑問は、3つに集約できるそうです。

1.人間の創作活動とは具体的にはどんなことをしているのだろうか?
2.人間はなぜコンテンツに心を動かされるのか
3.コンテンツを本当につくっているのは誰なのか

そしてこれらについて考える中で、著者の中で様々な考えが固まっていくことになります。

本書の中では、「コンテンツとは何か」という、定義の問題から始まります。ここで著者は、アリストテレスの話を引き合いに出しながら、「コンテンツは現実の模倣」という、とりあえずの結論に達します。しかしさらにそこから考えを深めて、「主観的情報」と「客観的情報」という2つの概念にたどり着きます。それらの詳しい説明は是非本書で読んで欲しいのだけど、大雑把に言えば、「見て脳が気持ちいいと判断する絵」と「正確に描かれた絵」はまったく違う、という話です。そして、ジブリをベースキャンプにして「コンテンツ」について考え続けた著者は、この2つの概念を使って再度「コンテンツ」を定義することになります(その定義も、ここでは触れないことにします)。

ジブリではよく「情報量」という単語が使われていたそうです。どういう意味なのか聞くと、「線の数」だという。要するに、どれだけ細かく描いているか、ということだ。宮﨑駿は、元々情報量が少ないが故に子供でも理解できて楽しめるアニメという分野で、情報量を増やすという方向に進んだ人で、だからジブリ映画は何度再放送しても視聴率が落ちないのだ、と書かれています。

本書には、面白いエピソードや考え方がたくさん出てくるのだけど、コンテンツに関してはこの話が一番興味深かった。

『鈴木敏夫さんをはじめ、いろいろなアニメ業界の人から同じ話を聞いたのですが、アニメーターの動きは現実の人間の動作を忠実に再現しても、良いものにはならないそうなのです』

ジブリでは「らしい動き」という言い方がよく登場するそうです。現実の人間の動作とは違うのだけど、それっぽく見える絵を描けるかどうか―それがジブリにとっての良いアニメーターなんだそうです。

それに関連するエピソードで、さすが宮﨑駿と感じるものがありました。

「ハウルの動く城」の中に、主人公のソフィーが荒地の魔女と一緒に階段を上る場面があります。当初宮﨑駿はこの場面に、ソフィーが荒地の魔女に手を差し伸べるシーンを入れる予定でした。
ただ、この場面を大塚伸治というアニメーターが担当すると聞いて、絵コンテを修正したそうです。どう変えたかと言えば、ソフィーが手を差し伸べるシーンをカットした、と。何故か。
ソフィーが手を差し伸べるシーンは、荒地の魔女が階段を上る苦しさを分かりやすく表現するためでした。そのシーンがないと、苦しさをうまく伝えられないだろう、と。でも宮﨑駿は、大塚伸治という人物が「らしい動き」を見事に描くアニメーターだと理解していたので、荒地の魔女にはただ階段を上らせるだけで十分と判断した、ということのようです。

こういうエピソードが存在するくらい、「らしい動き」を描くのは難しいんだそうです。非常に面白い話だなと思いました。

また次に「クリエイター」の定義をしようとします。ここでも、定義そのものは書きませんが、「クリエイター」の定義を追う過程で、脳が物事をどう判断するのか、そしてそのことが「コンテンツ」とどう関係があるのか、という話が出てきます。

脳がどう判断するのかというエピソードで面白いと思ったのが、ビーイングという音楽事務所の話と、著者自身が手がけた着メロの話です。

ビーイングは、最盛期にはミリオンヒットを連発していたそうですが、創業者は、曲に比べてボーカルの音量を大きめに設定していたと語ります。何故なら、多くの人が音楽に触れるのは街中であり、そこでちゃんと歌詞が聞こえるためにはボーカルの音量が大きい必要があるのだ、と。その設定は、音楽のプロからしたらバランスの悪いものに聞こえるのだけど、音楽を買う多くの人がそのやり方で音楽に触れ、CDを買ってくれるのだからそれは正解の一つです。

また、着メロでも同じような話があります。着メロが流行っていた当時、多くの会社はカラオケ音源をそのまま使っていたのに対し、ドワンゴは着メロ専用の音楽を作るチームを編成したといいます。多くの音大生を雇い、良い着メロを作らせたのだけど、それらはどうも高校生に評判が悪かった。色々検証してみると、音大生は耳が良すぎて、着メロをよく使う人たちの聴こえ方をうまく捉えきれなかったことに原因があるとわかりました。

結局のところ「コンテンツ」に求められるものは「分かりやすさ」が大きな要素を占めるのです。それは、脳の仕組みからして当然なのだ、と。脳は、物事を単純化してしか捉えられないので、単純なものほど受け取りやすい。そしてクリエイターと呼ばれる人たちは、脳の中にあるものを具現化しようとするのだから、どうしてもコンテンツというのはワンパターンに陥りがちになってしまうのだ、というような話が展開されていきます。

じゃあ、どうやってワンパターンを回避するのかということを色んな人が考えるわけですけど、やはり宮﨑駿が凄い。

『宮﨑駿さんの作品のつくり方は独特です。どういうことかというと、脚本なしに絵コンテから描き始めるのです。絵コンテとは作品の設計図にあたるもので、なにをどう描けばいいかを指示するものです。4コママンガみたいなものが延々と続いてストーリーを説明しているといったイメージを想像してもらえばいいんじゃないかと思います。
宮﨑駿の特徴は、ある程度の絵コンテがたまると、もう作品の制作を始めてしまうことです。同時進行なのです。
ですから、制作が始まったとき、まだ絵コンテは完成していないのです。脚本ももともとありませんから、ストーリーが最後にどうなるか、スタッフも誰も分からないまま作品をつくることになるのです。
話の展開を知っているのはじゃあ宮﨑監督ただひとり…というわけじゃなくて、実は宮崎監督も分かっていません。
「宮さんは一本の映画で連載マンガをやってんだよ」
プロデューサーの鈴木敏夫さんはそう説明してくれました。だから映画に緊張感が生まれる、とも。』

そんなやり方で、数々の傑作を最終的に完成させてしまうのだから凄いですよね。さらに、確かにこれだと、予定調和が入り込む余地がかなり少ないので、マンネリやワンパターンを回避しやすくもなるだろうな、と。しかし、メチャクチャな作り方だと思いますけどね。

そう、「天才」の定義について著者は、宮﨑駿の息子である宮崎吾朗のこんな言葉があります。

『でも日本みたいな貧しい国は、天才を使って対抗するしか戦う方法がない』

どういうことか、少し補足しましょう。この発言は、アメリカの作り方との対比から生まれています。アメリカでは、映画でもアニメでも、CGなどでプロトタイプを作り、それを見ながらみんなでやいのやいの言って最終的な形を決めていくのだとか。これは、お金も時間も掛かるけど、「天才」を必要としないやり方だ、と宮崎吾朗は言います。そして、そんなお金も時間もある国と対抗するには、宮﨑駿のような天才が必要なのだ、ということです。

また、「クリエイター」が何を生み出しているのか、という疑問の一部に答えてくれそうな、こんな話もあります。

『高畑監督にこういう問いかけをされたことがあります。
「宮さんの「魔女の宅急便」に出て来る女の子。魔法が使えなくなって飛べなくなったのに、また、最後に飛べるようになった。なぜなのか?」
一度は飛べなくなった魔女のキキが、なぜ再び飛べるようになったのか。それを、宮﨑駿は映画のなかで説明していません。なんの説明もなく、キキは再び飛ぶことができるようになった。これは「宮さんの魔法」だと高畑さんは言います
なぜ使えなくなった魔法がまた使えるようになったかは、いろんな説明が考えられるかもしれない。でも、作劇上のテクニックとして解説すると、そのとき観客は、キキに感情移入をしていて、飛んでほしいと願っていた。みんなが「ここで飛べ、飛べ」と思っていたから飛んだ。だから、そこで拍手喝采して、「ああ、よかった。よかった」とカタルシスを感じた。
願いが叶ったんだから、なぜ飛べたのかということに観客は疑問を感じない。それが魔法のトリックだと高畑さんは言うのです』

僕は書店員なので、「宮崎アニメの謎を解き明かすような本」みたいなのも結構目にする機会があります。恐らく色んな「専門家」「識者」「批評家」みたいな人たちが、ストーリーの展開や世界設定、盛り込まれている要素などから、映画の中では描かれていない色んな謎に説明をつけようとするのでしょう。しかし、少なくともこのキキの場面については、作劇上の理由があり、それ故に成り立っている、という話は非常に面白かったし、「クリエイター」が何を生み出しているのかということの、一つの解だったりするのだろうと思います。

『この本のアイデアを、ぼくの知り合いのいろいろなクリエイターに話してみました。コンテンツとはなにか、クリエイターとはどんなことをしている人なのか。ほとんどのクリエイターにはぼくの考え方についてそのとおりだと言ってもらえたのですが、二人だけちょっと足らない要素があると指摘してくれた人がいます』

多くのクリエイターは、自分自身で本書のような言語化はしていないかもしれないけど、言語化された理屈を読んで納得感があったという。そういう意味でも本書は、何かを頭の中から生み出さなければならない人たちにとっては参考になる話だろうな、と感じました。創作のための具体的な方法論が載っているわけではないですけど、最終的には感性だけど理屈もなくては出来ない「創作」というものに関わる上で、その理屈の部分を支えてくれる土台になるのではないかと感じました。

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