【映画】「鳩の撃退法」感想・レビュー・解説

面白かった。よく出来てるなぁ。原作を読んだのは大分前で、内容はほとんど忘れてるけど、たぶん原作と違う部分もちょいちょいあると思う。恐らく、原作のまま映像化するのは不可能な作品だったんじゃないか。

原作は上下巻で、かなり膨大な物語なのだけど、それを2時間という映画の枠組みの中で、無理なく物語としてまとめ、全体的には割とシリアスな内容にも関わらずところどころ笑いが起こるような作品に仕上げた手腕は見事だと思う。

まずは内容から。
かつて有名な文学賞を受賞したこともある小説家・津田伸一は、今は富山県のデリヘルでドライバーとして働いている。何故か怖いお兄さんに殴られたり(本人には理由はよく分からない)、知り合いの古本屋のマスターと他愛もないやり取りをしながら日々過ごす津田だが、閏年の2月29日にコーヒーショップで一人の男に話しかけたところから「津田の物語」は大きく動き出していく。
津田は馴染みのコーヒーショップで、本を読んでいる男を度々見かけていた。「いつも本を読んでいるね」と話しかけ、会話が始まる。津田は、房州書店で購入したピーターパンの本を持っており、ピーターパンは実は女たらしだという話をする。男は、家にいつ妻と娘のことを語り、津田は男に「だったら別の場所で二人を出会わせるべきだろうな」という。男が持っていた帯に書かれた言葉に反応してのことだ。
その男、幸地秀吉は、その閏年の2月29日に家族と共に失踪する。しかし、津田がその事実を知るのは大分先のことだ。
秀吉は津田と会う前、妻から妊娠を告げられた。それは秀吉にとっては驚きの事実だった。そしてその衝撃ゆえに、店長を勤めるバーへの出勤を取りやめ、コーヒーショップで本を読んでいたのだ。
一方の津田は、コーヒーショップを出た後で、一人の男を駅まで送ることになった。デリヘルの女の子の一人、まりこから呼び出され、友人を送ってほしいと頼まれたのだ。その友人・晴山は、まりこの指示に反して無人駅へと行くように津田に伝える。
その途中、デリヘルの社長から津田に電話がかかってくる。面接希望者とのアポをすっぽかしてしまったから、メシ代を代わりに払って家まで送ってくれ、というのだ。津田は、晴山を無人駅まで送り(晴山は停まっていた車に乗り込み、別の女とキスをする)、それからファミレスで面接希望者(以前津田が、房州書店で会ったことがあるお客さん)を見つけ、家まで送り届けた。
さて、2月29日に起こった出来事はこんなところだ。
それからしばらくして、房州書店の店主(津田は「ジジイ」と呼んでいる)が亡くなり、ジジイが津田に遺したというキャリーバッグを受け取る。鍵が掛かっていて中身は分からない。そして、そのキャリーバッグを引き渡した不動産屋の女性(津田とはセフレのような関係)から、「秀吉一家が失踪した」という事実を耳にすることになる。
その後津田は、4桁のダイヤル錠の数字を地道に合わせ、キャリーバッグを開けることに成功する。
中には、3003万円の現金と、津田が持っていていつの間にか紛失していたピーターパンの本が入っていた。
さて、物語は富山から東京へと移る。
実はここまでの「富山で起こった出来事」は、すべて津田が書いた小説の内容である。津田自身が小説の主人公として登場する小説、というわけだ。津田が働くバーまでやってきて、その原稿をチェックしている編集者は、「これはフィクションなんですよね?」と何度も念押しする。
津田はかつて、事実を小説に書いたとして訴えられており、その際の苦い記憶が編集者の脳裏に焼き付いているのだ。
津田は、「現実の出来事を元にした、起こり得た物語だ」と言って、編集者を煙に巻く。
というような物語だ。

原作小説ともちろん物語の構造は同じだけど、たぶん映像の方がその辺りの構造はより分かりやすくなっていると思う。基本的には、「富山での出来事はすべて小説」「東京のバーで編集者と関わっているのは現実」と区別すればいいからだ。

しかし映画を観ていると、徐々にそういうわけにもいかなくなってくる。小説の記述であるはずの「富山での出来事」が、「東京のバーでの現実」に侵食してくるからだ。

つまり、程度はともかくとして、津田が書いている小説が「事実を背景にしている」ということは明らかだということだ。それは、編集者が富山まで行き、小説の記述が実在するかどうか確かめる旅でも確認できる。

あとは、どの程度事実なのか、ということが問題だ。

しかしまず確認しておくべきは、なぜそのことが問題になるのか、という点だ。事実を元にしているからといって、それが直ちに問題を生み出すわけではないはずだ。

しかし津田の小説はそうはいかない。というのは、劇中で「本通り裏」と呼ばれる、富山で津田が住んでいた周辺では知らぬ者のいない「裏社会」の話が絡んでいるからだ。

津田が小説に書いているのは、「秀吉一家の失踪」と「ニセ札事件」だ。上述の内容紹介では触れなかったが、公式HPにも書かれているからネタバレではないだろう。津田がジジイから受け取った万札を使ってみたところ、それがニセ札であることが明らかになったのだ(その辺りの物語は、映画の中盤以降に展開されていくのであまり具体的には触れない)。

津田自身は「本通り裏」とはほとんど関係がないし、知識もない。そもそも津田は富山に流れ着いたよそ者であり、「本通り裏」を牛耳る存在として誰もが知る「倉田健次郎」のことも知らなかった。

しかし津田は、「現実の出来事を元にした、起こり得た物語」を小説にしている。津田が得ている情報は、例えば「A」「G」「T」「Y」だけだが、これらの情報から「A~Z」までの物語を想像する、みたいなことをやっているわけだ。

そして、その想像が当たっているのではないか、と示唆されていくのが、東京での現実のパートなのだ。バーで働く津田の元に、「小説内の出来事であるはずの、富山でのあれこれ」の続きみたいな出来事が降りかかるのだ。

津田は、限りある情報を元に、想像力で物語を紡いでいる(と言っている)。しかし、そんな風にして津田が書いた物語世界の「続き」が、東京の現実に侵食してくる。

となれば、津田の想像は正解であり、小説に書いたことが図らずも事実を言い当ててしまっているのではないか。そしてそれは、「本通り裏」にとって非常に都合の悪いことであり、だからこそ津田や、津田の小説を出版する出版社にも悪影響が及ぶのではないか……。

というのが、この映画の1つの見方である。

別の可能性もある。それは、「津田が、真実を知っていて、それを小説と偽って書いている」というものだ。「想像で書いたものがたまたま当たっていた」というよりは、こちらの話の方がずっと真実っぽいだろう。

どちらが正しいのか、映画の中では明かされることはない。観た者が自分なりに捉えるしかない。

僕の考えはまだまとまっていないが、書きながら思考をまとめてみよう(以下、なるべく具体的なことを書きすぎないように考察していくが、やはり重要な部分に触れることもあると思うので、何も知らずに映画を観たい人は読まない方がいいと思う)。

まず、この映画で重要な点は、「東京編は現実」「富山編は事実かどうか分からない」という点だ。少なくともこの映画で確実なことは、「東京編で起こったこと・語られたこと」のみだ。

そしてそう考えた時、「秀吉一家失踪事件」は間違いなく起こっていると断言できる。編集者が富山まで行き、コーヒーショップ店員に案内してもらいながら、「売りに出されている秀吉一家の家」を見て、その店員からも一家が失踪しているという事実を聞いているからだ。

コーヒーショップの店員が編集者に故意に嘘をつく理由があるとは考えにくい。津田と店員のやり取りは富山編でしか描かれず、つまり実際の関係性は不明だ。もしかしたら津田と店員が恋愛などの深い関係にあって、店員が津田をかばう証言をした、という可能性もゼロではないが、ちょっと想像しにくい。

そんなわけで、「秀吉一家失踪事件」は間違いなく存在すると思うが、しかしその背景にある「郵便局員とのあれこれ」「港でのあれこれ」などは、すべて富山編であり、事実かどうかは不明だ。

そして、「郵便局員とのあれこれ」が、実際には存在しなかったかもしれない、と感じる場面もあった。

コーヒーショップの店員が編集者に、SDカードを渡す場面がある。編集者は店員に、「これ見たの?」と聞いた時、店員は特に動じることもなくYESという返事をする。

富山編では、このSDカードの中身は結構ヤバいものだと示唆される。だからこそ編集者は「これ見たの?」と質問したのだが、その際の店員の返答からは、実はそのSDカードの中身は大したものではなかったのかもしれない、という想像も可能だ。

となれば、「郵便局員とのあれこれ」はすべて津田の妄想だと考えられる。

ちなみに、津田が東京のバーで編集者に対して、「俺が知っている事実はこれとこれとこれと……」と列挙する場面がある。そして、そういうごく僅かな「真実」をつなぎ合わせて小説を書いていると言っている。その中に「郵便局員とのあれこれ」は含まれていないのだから、当然それは津田の妄想だ、と言えるかもしれない。

しかし、東京編の描写であっても、津田の発言を信用していい根拠はゼロだ。そんなわけでこの考察では、津田の発言は無視して考えている。津田は、すべての事実を知った上で小説と偽って事実を書いている、という可能性を否定しない、ということだ。

さて話を戻そう。東京編の描写から、「秀吉一家失踪事件は実際にあっただろうが、その失踪をもたらしたとされる出来事はすべて妄想かもしれない」と考えられる。

一方「ニセ札」の方はどうか。こちらに関しては、東京編の描写からは「ニセ札に関する事件が起こった証拠は一切ない」と言っていい。

東京編で出てくるのは、「3000万円」についてだ。つまり、富山編で描かれていた3003万円の内、3000万円については確かに存在していた、と言っていい。東京編に登場するような3000万円が、富山にいた津田の元にどう届き、それを津田が(あるいは津田ではない人物が)どう処理したのかについては分からないが、3000万円が存在したことは事実と確定できる。

そして、東京編に出てくる3000万円の絡みから、「倉田健次郎」という人物像についても再考が必要となるだろう。

富山編では、倉田健次郎は「本通り裏を牛耳るトップ」という風に描かれるが、それは津田の小説での描写に過ぎない。東京編では、「倉田さんは、お金は人をダメにするといつも言っている」と語られていた。そして、東京編で3000万円は、「悪の世界のトップ」の行動とは思えないような形で登場する。

だから、「倉田健次郎」が小説で描かれているような「本通り裏のトップ」という立場ではない可能性は充分にあると思う。つまり、「倉田健次郎」という人物は実在するが、津田はその人物と裏社会的な繋がりとはまったく関係ない形で出会っており、何らかの理由で3000万円が津田から倉田に渡った、と考えることもできるというわけだ。

あるいはもう少し考えると、別の可能性も浮かんでくる。それは、3000万円が津田の手元にあったことは一度もない、という可能性だ。

どういうことか。

普通に考えて、津田が3000万円を手に入れた経緯はちょっとおかしい。いくら懇意にしている人物だとしても、そんなことあるだろうか? と感じるような形で入手している。

それより、津田の手元に3000万円などなかったと考える方が自然だ。

では、東京編に出てくる3000万円は何なのか。例えばそれは、「倉田からのお礼」と考えてみてはどうか。

映画「鳩の撃退法」の公式HPに、「本通り裏」という別サイトへのリンクがあり、そこが考察サイトになっている。その考察すべき対象として、「なぜ最後に幸地秀吉は倉田健次郎と一緒にいたのか?」というものがある。

確かに、最後のこのシーンは非常に違和感のあるものだった。津田の小説が事実だとすれば、考えられない組み合わせである。

例えばこんな妄想はどうだろう。幸地秀吉は、何か非常に困った状況に置かれており、津田はその状況を何かで知った。そして、秀吉の窮地に手助けするために津田は、秀吉一家を失踪させるための手伝いをした。

秀吉は、倉田健次郎(この妄想では、本通り裏のトップなどではない一般人とする)と知り合い(あるいは家族などもっと強い関係でもいい)だが、自分が置かれている窮状については相談できなかった。しかし、津田の助けを借りて秀吉は失踪を果たすことができ、それによって状況が改善したことで、ようやく倉田健次郎に自分が置かれていた状況を伝えることができた。

倉田健次郎は何らかの理由で資産家であり、どうにか津田にお礼をしたいと考えた。津田は実は、恵まれない家庭や子どもの支援を行っており(だから小説に、シングルマザーが登場する)、その活動を知った倉田健次郎は、津田名義で寄付を行うことにした。秀吉(あるいは倉田健次郎)は津田のことを理解しており、津田自身に金が渡るより、寄付という形でお金が届く方が喜ばしいと理解しているのだ。

小説に登場する「3000万円」と倉田健次郎が寄付した「3000万円」の金額が同じだったのは偶然だ(この映画で描かれる”偶然”に比べれば、これぐらいの偶然はあっていいだろう)。そして秀吉は、津田から借りていたピーターパンの本(小説の中では、秀吉には貸していなかったことになっている)を津田に返却することで、失踪を手助けしてくれた感謝を示そうとした。直接津田に会わなかったのは、秀吉が失踪せざるを得なかったなんらかの理由に関係がある(たとえば、秀吉と関係していることが分かると周囲の人間に危害が及ぶ、など)。

津田が富山を離れ東京にやってきたのも、秀吉の失踪に絡んだことで危ない橋を渡り、別の場所に移った方がいいと判断したからだろう。そもそも秀吉が津田の居場所を知っていたことも、小説の描写からは不明だが(「まえだ」が口を割ったとしか考えられないが、その可能性は低いだろう)、津田が秀吉の連絡先を知っており、やり取りを続けていると考えれば変ではない。

そしてそう考えると、津田が「秀吉がもし自分に会いに来るとしたら?」と編集者に言ったまさにそのタイミングで本が届いたことも説明がつく。津田が秀吉に、良い感じの時間を指定すればいい。その後、秀吉と倉田健次郎を見つけることが出来たのも、彼らが連絡を取り合っていたからだ。

こんな風に考えても、矛盾はしないと思うのだがどうだろうか? あくまでも、「東京編で描かれていること(津田の発言は除く)はすべて事実」「富山編で描かれていることは事実かどうかすべてが不明」という前提に立った上での話だ。

こう考えると、津田の「だったら別の場所で二人を出会わせるべきだろうな」という発言にも意味が出てくるように思う。

このセリフ、劇中に出てくる中でも結構印象的なものだと思うが、映画を普通に観ている分には、ただそういう言葉を津田が発した、というだけで終わっている。特にこれと言って回収されない、宙に浮いているセリフだと思う。

しかし、もし津田の小説が、「実際に起こったことを覆い隠すための虚構」だとしたらどうだろうか。

つまり、先ほど僕が書いた妄想が富山で実際に起こったことだとすれば、津田が小説を書く動機は、「秀吉一家に起こった真実を覆い隠すため」となるだろう。小説に書かれたことは、ごく一部を除いてすべてでたらめで、そして、そのでたらめが真実であるかのように受け取られることが、実は秀吉一家のプラスになる、という可能性だ。

だから津田は、津田自身が書いている小説によって、まさに「別の場所で二人を出会わせること」を実行していることになるわけだ。まさに津田の企みそのものを、津田が小説の冒頭で宣言している、という解釈であり、なかなか面白いんじゃないかと思う。

この「二人」は別に、誰のことだと解釈してもいい。「秀吉と津田」でも「秀吉と倉田健次郎」でも「秀吉と妻」でもなんでも成り立つだろう。

先ほどの考察サイトの別のお題として、「津田伸一はなぜタイトルを『鳩の撃退法』とつけたのか?」というものもある。この説明は上手くできないが、僕はこの「鳩」というのが、いわゆる「平和の象徴」的な意味を持つのではないか、と考える。

つまり、「津田が小説を書くことによって、現実に起こった出来事を覆い隠そうとする」というアクロバティックな手法が、なにか「平和を撃退する方法」である、というような解釈が可能なのではないか、と考えているのだ。

仮にもし僕の想像が正しいとすれば、津田は富山で、秀吉のような窮状の人物を助けるし、恵まれない子どもの支援もしている。そして、どうしてそんな厳しい現実が起こってしまっているかと言えば、それは「一部の人間が平和に生きているからだ」という解釈も可能だろう。社会を構成する一部の人間が便利さや優雅さを独占していて、そのしわ寄せが厳しい立場の人間を生み出しているのだ、と。

だから、そんな「平和」を撃退することこそが、「小説家・津田伸一」の使命である、というような決意表明とも受け取れる。

というのは、さすがに考えすぎだろうか?

しかし、仮に津田と秀吉が連絡を取り合っており、津田にピーターパンの本を返すタイミングを打ち合わせていたとしたら、何故そんなことをしたのだろうか。唯一考えられる理由は、「編集者に、秀吉や倉田健次郎の存在を信じさせるため」だ。

しかし、普通に考えれば津田にそんな動機は存在しないはずだ。編集者は、津田の小説が事実であることを恐れている(訴訟問題に発展したりするから)わけで、津田からすれば、「編集長がこの小説を事実だと認識しない方がいい」はずだ。その方が出版の可能性も高まるだろう。

しかし、津田が編集者がいるタイミングを見計らって本を返すタイミングを秀吉と打ち合わせていたとするなら、津田としては、「秀吉が背負ってきた真実を覆い隠すために、編集者にこの小説を真実だと思い込ませる」という動機が生まれるかもしれない。

もちろん、リスクはある。編集者がこの小説を事実だと思うことで、本が出版されない可能性もある。しかし恐らく津田には勝算がある。というのもこの編集者は、3年前にトラブルを起こし、文壇から去ったと思われている作家(編集者が編集長と会話する場面で、津田が文壇でどう評価されているかが分かる)の小説を熱心に出版しようとしているのだ。

確か原作では、編集者は津田の大ファンだという設定だったと思う。つまり、編集者は何が何でも津田の小説を世に出したいのだ。

そして津田は、そんな編集者の熱意に賭けている。確かに、この小説の内容が事実だと判断されることで出版の道が断たれる可能性はあるが、しかしそのリスクを負ってでも、津田はこの小説が事実だと編集者に思わせたい。そしてその理由は、この小説に描かれていることがまるっきりでたらめだから、としか考えられない。

というのが僕の考察である。

ここで書いたことは全部僕の妄想でしかないし、恐らくまったく的はずれだろうと思う。

でもまあ、こんな風に考えてみるのも、なかなか面白いと思う。

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