【映画】「最悪な子どもたち」感想・レビュー・解説

ある意味で凄い映画だった。というのも、映画を最後まで観ても、「フィクション」なのか「ドキュメンタリー」なのか分からなかったからだ。

いつもの如く、映画の内容をまったく知らないまま観に行った。ただなんとなく想像としては「フィクション」だと思っていた。で、映画の冒頭、粗っぽい画質の映像で、どうやら「オーディション」の様子が映し出される。それを観て、「そうか、ドキュメンタリーだったのか」と感じた。映画の始まり方は、間違いなくドキュメンタリーである。

しかしその後、フィクションっぽく映像が展開していく。先程オーディションのカメラの映っていた子どもたちが演技をしているようだ。それで僕は、「なるほど、冒頭のオーディションシーンがちょっとイレギュラーだっただけで、全体としてはフィクションなんだな」と理解した。撮影している映画のタイトルは、『北風に逆らえば』だそうだ。

しかしその後、監督の「カット!」という声が入り、そこから「『北風に逆らえば』を撮影している様子」が映し出される。これは、映像の感じからすると決してドキュメンタリーには見えないのだが、しかし「ドキュメンタリーかもしれない」と思わせるような要素がある。

というのも、『北風に逆らえば』という作品は、主演の少年少女4人の「実際の人生」を組み込んだ物語になっていることが理解できるようになってくるからだ。これは、単に「役者が映画撮影している様を外側から撮っている」みたいなことではない。「『ほぼ本人役』みたいな役柄を演じる映画撮影と、彼らの日常との境界線が薄れていく」みたいな感じなのだ。

この時点で僕には、この作品が「フィクション」なのか「ドキュメンタリー」なのかまったく分からなくなり、結局最後まで分からないままだった。

考えようによっては、色んな解釈が可能だ。ここまでの話をまとめると、本作『最悪な子どもたち』は、以下の3つの要素で成り立っている。

①冒頭のオーディションシーン
②映画『北風に逆らえば』の映像
③映画『北風に逆らえば』を撮影している様子を撮影した映像

では、考え得る可能性についてちょっと思案してみよう。

可能性1:
オーディションを含め、『最悪な子どもたち』で描かれていることはすべてフィクション。

可能性2:
オーディションは実際に行ったので、①だけはドキュメンタリーだが、②③はフィクション。

可能性3:
実際にオーディションを行い、『北風に逆らえば』の撮影をしており、その様子をドキュメンタリー的に撮ったメイキング映像を挿入している(つまり、①③がドキュメンタリー、②がフィクション)

なんの情報も知らないまま本作を観ると、この3つの可能性のどれなのかを絞ることはたぶん出来ないと思う。まあ実際には、③の映像はかなりフィクションっぽいので、「可能性3」である確率は低いと思ったが、まあ可能性としてはゼロではないだろう。で、結局観終えた時点でも判断できなかったので、公式HPを見てみた。

公式HPを読んでもイマイチはっきりしたことは分からないのだが、恐らく「可能性2」と捉えるのが正解なんだと思う。ただ、オーディションは「演技未経験者」を対象に行われたようで、そう考えると、②はともかく、③を完全に「フィクション」と捉えるのも正しくないのかもしれない。「可能性2」と「可能性3」の中間あたりと捉えておくのが一番近いだろう。

というように、本作は、今まで観たことのない「背景」を持つ作品だと言える。物語がメチャクチャ面白いとか、演技に凄くグッと来るとかではないのだけど、ただ、「えっマジなんなのこれ???」みたいな感覚が最後の最後まで続くという意味では圧巻だったなと思う。なかなかこんな感覚を味わうことは出来ないだろう。まあ公式HPによると、映画の中で「監督役」を演じたのが、ヨハン・ヘルデンベルグという有名な役者らしいので、この役者のことを知っていれば、「フィクション寄りの作品である」ことは早い段階で確信できるとは思うが。僕は当然、その人のことは知らなかったので、「『最悪な子どもたち』の監督」なんだろうと思っていた。

特に印象的だったのは、映画のメインビジュアルにも映る少年ライアンと、『北風に逆らえば』の中では彼の姉役であるリリの2人だ。先程少し触れたが、『北風に逆らえば』の設定は、メインの役者個々の性格や人生を反映しているので、その点も踏まえると、ライアンはまず、「衝動をコントロールするのが難しい」みたいな性質があるようだ。ADHDとかそういう何かなのだと思う。家庭環境も複雑で、夫に捨てられて精神を病んでしまった母親の元を離れ、今は姉と2人で暮らしているようだ。オーディションでは、「相手が挑発してくるから喧嘩になるのに、いつも僕が悪いことにされる」と不満をもらしていた。

リリは、「ビッチ」とあだ名され、男関係が盛んだと噂されている。しかし本人的にはその噂はまったく実態とは異なるもので、しかしそういう風にしか自分を見ない周囲の人間に常に苛立ちを覚えている。とても可愛らしい女の子なので、同世代の女の子の妬みから来るものだろうが、映画の撮影の舞台となったピカソ地区が「荒れた地区」であることも関係しているだろう。

映画全体としては、特にこの2人に焦点が強く当たる。そして、この2人の「変化」が実に興味深い。特にそれを感じさせられるのは、まさに映画のラストシーンだ。具体的には触れないが、『北風に逆らえば』のワンシーンが流れる。そして、そのシーンの撮影が終わった直後、演技から離れたライアンが発する言葉が、なんか凄くグッと来る。僕の勝手な予想だが、これは恐らく、用意されたセリフではなく、ライアン本人の実感が思わず出たみたいな、要するに「ドキュメンタリー的なシーン」なんではないかと思う。分からないが。

とまあ、色々書いてはみたものの、僕の文章を読んだところで、どんな作品なのかよく分からないだろう。で、観たら分かるのかと言うと、それも怪しい。ただ、それでいいんじゃないか、という気がする。少なくとも僕は、「分かる」とか「理解できる」とか「共感できる」みたいなことに、さほど重きを置いていない。とにかくこの作品においては、「一般的な映画からは感じられない、なかなか名付けようのない感覚」が得られるということに価値があると思う。

しかしホントに、変な映画だった。とてもチャレンジングな映画であり、「映画の可能性」みたいなものをほんのちょっと広げたみたいな感じもあるんじゃないかと思う。

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