【映画】「落下の解剖学」感想・レビュー・解説

実に興味深い作品だった。しかし、その内容に触れる前に、もう1つ興味深かった点に触れておこう。

それは、「今日の満員の観客は、一体どこからやってきたのか?」だ。つまり、「本作の何に惹かれて映画館まで足を運んでいるのか」ということである。

僕は、「落下の解剖学」という本作のタイトルを目にした時点で、「これは観よう」と考えた。というのも、「普通そんなタイトル付けないだろう」と考えたからだ。どう考えても、「広く観てもらいたい」と思って付けるようなタイトルではない。特に「解剖学」なんて言葉をタイトルに持ってくる感覚には、ちょっと驚かされた。映画を観れば、まさにタイトルと中身が一致している作品だと分かるだろうし、その点も見事なのだが、プロモーション的な視点から考えると、この「落下の解剖学」というタイトルは、僕にはちょっとあり得ないように感じられた。

だからこそ僕は惹かれたわけだが、世間的にはそんなわけはないだろう。

どうやら本作は、カンヌ国際映画祭でパルムドールに輝いたせいで、そういう意味で元から前評判が高かったとは言えるのかもしれない。にしても、映画館が満員になるほど人が集まるものなのかと驚かされた。僕は映画監督にも俳優にも詳しくないが、本作には、いわゆる「誰もが知っているみたいな監督・役者」は関わっていないように思う。映画ファンからしたら「名監督・名優」みたいな人が出ているのかもしれないが(僕はそういう知識に疎いので知らない)。一般的な知名度がべらぼうに高い人が関わっている気が僕にはしない。

そんなわけで、僕にはまず、公開初日とはいえ、本作を観るのに観客がこれほど押し寄せているという事実に、ちょっと驚かされてしまった。

さて、そんな観客に、本作はどのような作品として受け取られるのだろうか?僕はそもそもだが、「このようなシンプルな設定・展開で映画を撮ろうと思った」ことにも驚かされた。本作は、物語的に大きな起伏があるわけでもなく、スペクタクルな展開や映像があるわけでもない。事故なのか事件なのか自殺なのか分からない「ある死」を巡って翻弄される人々の姿を描き出すだけの物語である。正直なところ、「退屈」と感じる人も結構いるのではないかと思う。

さて、人によって見方は異なるだろうが、僕は割と早い段階で、「この物語は、『真相を明らかにするタイプの作品』ではない」と感じた。どうしてそう感じたのかは上手く説明できないが、いわゆる「ミステリ」のように展開するわけではないことは明確だと感じられたのだ。そして最後まで観て、実際にその通りの展開の作品だったと感じた。

さて、では一体何に焦点が当てられるのか。その辺りの説明をするためにまず、本作で中心に置かれ続ける「ある死」の説明をしよう。

フランスの雪深い山奥に住む夫妻。妻のサンドラはベストセラー小説家で、夫のサミュエルは教師しつつ作家を目指している。サンドラはドイツ人で、2人はロンドンで出会った。そして、サミュエルの希望に従って夫の故郷に移り住んだ。夫はここで、民宿を始めようと、建物の改装に勤しんでいる。サンドラはフランス語が苦手で、2人は基本的に英語で会話をしている。2人は1人息子ダニエルがいるのだが、彼は4歳の頃に事故に遭い、視力を基本的に失っている。

その日、作家を目指す学生がサンドラを訪ね、インタビューにやってきた。しかし、階上で仕事をするサミュエルが爆音で音楽を流し始めたため、仕方なくインタビューを諦めた。サンドラは、学生に再会を誓う。

愛犬スヌープの散歩をしていたダニエルが家に戻った時、スヌープが大声で吠えた。ダニエルはそこで、雪上で横たわる父親を発見する。大声で母親を呼び、サンドラが救急車を手配、サミュエルは死亡が確認された。

検視の結果、サミュエルの頭部に傷が見つかった。状況から判断して、落下の前に殴打された可能性が高いと判断される。誰かに殴られたのか、あるいは、サミュエルが落下した付近には物置があり、そこにぶつかった可能性もある。事故・殺人・自殺、どれも無くは無い選択肢である。

サンドラは、友人の弁護士であるヴァンサンに助けを求める。警察はサンドラを起訴するかどうか慎重に判断を行うが、やがて結論が出た。サンドラを、夫サミュエルを殺した殺人容疑で起訴したのである。

このように、「そもそも事故なのか、殺人なのか、自殺なのか分からない」という状況が設定され、その上で、その真偽が裁判上で争われることになったというわけである。

さて、ここにもう1つ、状況をややこしく要素が付け加えられる。それは、「サンドラが出版している小説は主に、彼女の実体験をベースに描かれている」という点だ。父親との関係や、息子の事故なども作品の題材として取り込んでいる。そしてだからこそ、「サンドラが小説に何を書いているか」までが「事件の解明に関係するもの」として注目を集めることになるというわけだ。そして恐らくそのことは、彼女自身、世間に公表しているわけで、彼女がベストセラー作家であることも相まって、この事件・裁判の進展に世間が注目しているのである。

このような状況を踏まえた上で、どこに焦点が当てられているのかに触れていこう。それは、弁護士のヴァンサンのいくつかのセリフから推察できる。

例えば、サンドラがヴァンサンに「私は殺していない」と口にする場面がある。そしてそれを受けてヴァンサンはこう返す。

【問題はそこじゃない。】

あるいは別の場面においては、サンドラに次のように伝えている。

【事実かどうかは関係ない。
君が人の目にどう映るかだ。】

まさにこの点にこそ、本作のテーマがあると言えるだろう。つまり、狭い捉え方をするのなら、「裁判なんかで真実は分からない」となるし、より広い捉え方をするならば、「何が正しいかは選ぶしかない」ということである。後者の話に関しては、後半で印象的に登場する。具体的には書かないが、ある人物がある人物に、

【客観的に判断するには情報が不足している時は、極端な2つの選択肢の内のどちらかに決めるしかない】

みたいなことを言うのだ。究極的には、このシーンとそれに続く展開を描くことが本作の最も重要なポイントだと言っていいだろう。

最近僕らは「真実相当性」という言葉をよく耳にするのではないかと思う。松本人志の性加害疑惑に関して、よく使われる言葉である。ざっくり説明すると、「週刊誌等の報道機関が、仮に間違った記事を掲載したとしても、『それを真実だと信じるのに正当な根拠』が存在すれば『名誉毀損罪』として処罰されない」という法律の規定である。

この「真実相当性」、「裁判」という仕組みそのものにもそのまま当てはめられる考え方であるように思う。人によっては「裁判」を、「真実を明らかにする場」と捉えているかもしれないが、そんなはずがない。密室で行われた出来事や、客観的な証拠に乏しい案件など、「何が真実であるか」がはっきりとは分からない状況もたくさんある。そのような状況の中で、「裁判」は何か一定の結論を出し、それによって処罰の有無などが決まる。「裁判」によって導き出された結論が「真実」である保証は無いが、しかし、「それを真実だと信じるのに正当な根拠」があるものとみなして判決を下している、というわけだ。

そして本作は、まさにそのような「裁判」の性質をとことんまで突き詰めていくような作品だと感じられた。

「裁判」というのがそのような場なので仕方ないのだが、本作では被害者や被疑者の様々な言動について、憶測に憶測を重ねるような議論が展開されていく。例えば印象的だったのが、夫が爆音で流していた曲についての言及だ。50セントの『PIMP』という曲で、これは「女性蔑視」を歌ったものなのだと作中で言及がある。そしてそれを踏まえた上で検察が、「サミュエルはこのような意図でこの音楽を流したのではないか」とサンドラに問う。

しかしサンドラは、「夫はよくその曲を掛けていたので、そういう意図はないと思う」と返す。このサンドラの返答も、既にサミュエルが亡くなっている以上、真実かどうか不明だ。

また、「作家志望だった夫が、執筆のネタのために日常の会話を隠し録りしていた」ため、ある夫婦喧嘩の音声が法廷中に流れることになるのだが、実に興味深かった。この「録音されたやり取り」だけ聞くと、「妻のサンドラはなかなか酷い人間なんじゃないか」と感じられるように思う。しかし、サンドラ自身も法廷で語っていたが、夫婦には関係が良かったり悪かったりと様々な時期がある。この時は確かにこのようなやり取りをしたが、しかし、それが私たち夫妻のすべてではない、という趣旨の答弁をするのだが、確かにそれもその通りだろうな、と感じる。

ただ結局のところ、「裁判」という場においては、「信憑性のある人物による証言」と「客観的な証拠」によって「真実性」を判断するしかない。特にサンドラの場合、ドイツから友人もいないフランスへとやってきていることもあり、サンドラの周りにサンドラのことをよく知る人物はほとんどいない。ヴァンサンとどのような関係なのかはあまり詳しく描かれないが、恐らく数少ない友人なのだと思う(サンドラがヴァンサンに「フランス語は苦手で」と断る場面があるので、ヴァンサンは恐らくフランス人である。出会ったのは、もっと以前のようだが)。

だから彼女は、自分で自分のことを語るしかないのだが、当然それは「信憑性に欠ける」ことになる。また、視覚障害者であることを除いても、やはり息子の証言も同様の判断をされる。こうして、はっきりした証言や証拠が出てこないために、サンドラがかつて出版した小説までも法廷で朗読されるような展開になっていくのである。

このような作品なので当然、観客も、「一体何が真実なのか?」と翻弄されることになる。そして結局のところ、「何が正しいのかを、自分で『決める』しかない」という結論に放り出されることになる、というわけだ。

本作では、「最終弁論になるはずだった金曜の法廷」以降の物語が、特に示唆的であると言える。はっきりと描かれはしないのだが、観れば「そういうことなのか」と感じる観客は多いのではないかと思う。中心にいるのは、息子のダニエルと愛犬のスヌープ。このスヌープの演技が凄まじく、「マジでどうやってるんだろう?」と感じた。きっとそう感じた人も多かったのだろう、なんとこの犬、「パルムドッグ賞」という賞を受賞しているそうだ。

本作を観ながら、僕は少し映画『英雄の証明』のことを思い出していた。こちらもまた、「何が真実であるのか」が判然としない、非常に現代的な物語だった。「誰もが発信者になれる」という時代において、「何が真実か分からない」という状況に、見ず知らずの個人があれこれ意見を言える時代になった。まさにそういう社会の縮図みたいなものが、本作『落下の解剖学』で描かれる「裁判」に映し出されているとも言える。

そして、そのような時代において避けようがない「分断」みたいなものも描き出しているような感じがあって、とても現代的なテーマだったように思う。「落下の解剖学」というタイトルも含め、個人的にはとても興味深く観させられた作品だった。

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