【映画】「シスター 夏のわかれ道」感想・レビュー・解説

普段から、頭の中でシミュレーションしていることがある。

僕は長男で、だから、母親が死んだ場合、親族の「墓」の管理はたぶん、僕に引き継がれることになるのだと思う。以前親族の1人から、それとなくそんなことを言われたこともある。

ただ、僕には墓を引き継ぐつもりなんかまったくない。そもそも僕には墓なんかまったく必要ないし、長男が墓を引き継ぐなんていう訳の分からんルールに従うつもりもない。別に墓はあってもいい。でも、「必要だと感じる人」が管理すればいいだろう。また、僕が管理を引き受けても別にいい。しかしその場合は、100%「墓じまい」をする。僕には要らないものだからだ。

みたいなことで、親族間でモメるだろうなぁ、となんとなく頭の中で想像している。

まあ、僕の墓の話など大したことはない。人命が掛かっているわけでもないし、ほっといたところでただ墓が荒れるだけだ。

しかし、「弟」となるとそうはいかない。これは大変だと思う。

「看護師という現状に不満があり、北京の大学院を目指して勉強中の主人公が、見知らぬ弟を引き取らなければならないかもしれない」というだけで、十分大変な状況だ。彼女は何度も、「私の人生は私のもの」「私の人生が台無しだ」みたいな発言を繰り返す。その気持ちが理解できてしまう人は多いだろう。最近では「ヤングケアラー」という言葉が浸透し始めているだろう。親の介護など、様々な事情で、子どもがまともではない環境に置かれている状況を指す。映画の主人公は「ヤングケアラー」に当てはまる年代ではないかもしれないが、状況は同じだ。親族は皆、彼女に弟の世話を押し付ける。それでいて、養子に出すことは反対するのだ。

さて、上述のような状況だけでも十分大変なのだが、ややこしいのはそれだけではない。中国に未だに残る「男児優先」の考え方が、彼女を苦しめるのだ。

そのことを如実に示す存在として描かれるのが、彼女の叔母だ。現在は、寝たきりになってしまった夫の介護に追われている。もしも夫が寝たきりでなければ弟を引き取ってもいいと思っているのだが、なかなかそうはいかない。

この叔母は、主人公アン・ランの父親の姉であり、アン・ランは、常に弟である父親ばかりが優遇されてきた状況についてアン・ランに語る場面がある。すべて「女だから」という理由だ。ロシアへの留学も途中で諦めざるを得なかったし、家も弟に譲った。どの国でも女性が虐げられる歴史は変わらないだろうが、中国で「女」として生きることは、日本人が想像する以上に遥かに大変であるようだ。

それは、映画の舞台である現代でも変わらない。アン・ランは看護師として働いているが、元々は臨床医学の勉強を志していたし、高校時代の進路表にもそう書いた。しかし、彼女が合格した大学は、地元の看護科だった。何故か。両親が、彼女の希望を勝手に書き換えていたからだ。女は地元に残って家族の面倒を見るべきだ、というのがその理由だ。

そりゃあやってられないだろう。

アン・ランは、もの凄く気の強い女として描かれる。様々な場面で喧嘩しているのだが、印象的だったのが、彼女が働く病院で女医と対立したシーンだ。アン・ランはその女医に、薬の量を間違えていると指摘した。その後女医が、「あなた優秀ね。どうして医者にならないの?」と口にするのだが、それに対してアン・ランは「看護師じゃ悪いのか?」と突っかかるのだ。その時点では、観客はまだ「両親が進路希望を書き換えた」という事実を知らないので、彼女の怒りの奥底までは分からないわけだが、それでも、「看護師じゃ悪いのか?」と口にしつつも、本心では彼女が現状に満足していないことが十分伝わる場面だった。

そもそもアン・ランは、両親が交通事故で死亡した後、初めて6歳の弟に会うのだが、そうなったのは両親とは疎遠だったからだ。そして、疎遠になった理由が進路表の書き換えであり、それに憤りを覚えた彼女はそれ以降、両親のお金に頼らずに人生を歩む決断をした。

とにかく、とんでもなく強い女性なのだ。

だから彼女は、「弟を引き取るつもりなんかない」という意思もはっきりと示すし、さっさと弟を養子に出そうと動き出す。弟と一緒に暮らしていても、手の掛かる弟のワガママに苛立ちを隠そうとしないし、弟に対してもつれない態度を普通に取る。

さて、当然だが、それでは物語にならない。アン・ランが、弟を育てるか否かで葛藤するからこそ物語が成立する。しかし僕はしばらくの間、彼女が一体何に葛藤しているのか、上手く理解できなかった。

もちろん、「人としての当然の感情」の部分は理解できる。そりゃあ血の繋がった弟だし、6歳の子どもを放り出すのは可愛そうだ。そういう、誰もが抱くだろう当たり前の感覚は彼女の中にもあるだろうし、そういう感情は理解できる。

しかし決してそれだけではないはずだとも感じた。もしそういう、世間的な感覚だけしかないとしたら、彼女はもっとあっさりと弟を手放せただろう。だから、彼女にとってもっと重要な何かがそこにはあるはずだ、と思っていたのだけど、それを上手く言葉で捉えられないでいた。

ちゃんとそれが理解できたのは、ある患者が別の病院に転院となる場面でのことだった。入院していたのは妊婦で、彼女はある深刻な状況に置かれている。それは、「子どもを産めば、命を落とすかもしれない」という状況だ。しかし夫は出産を希望している。子どもを産めば妻が死ぬかもしれないと分かっていながら、それでも出産を希望しているのだ。そして、であればここの病院では対応できないということになり、転院することになった。

この患者は、アン・ランが喧嘩した女医が担当しており、アン・ランは彼女に「産ませるべきじゃない」と主張するのだが、夫が出産を希望しているから仕方ないと彼女は返答する。それを聞いたアン・ランが病院内をダッシュ、救急車に載せられる直前の担架を止め、その妊婦の夫に「本人に決めさせて!」と訴えるのだ。

映画を観ている時も、しばらくの間、なんでこんなシーンが挿入されているのかよく分かっていなかったのだが、振り返ってみて考えると、まさにこの「本人に決めさせて!」こそ、彼女の奥深くにある強い感情なのだということが理解できるようになった。

つまり、「弟の気持ちを無視して、自分の都合だけで養子にもらってくれる親を探していること」に対する葛藤がしこりのように残っていたということなのだと思う。

アン・ランの年齢は正確には分からないが、「弟が生まれた時、アン・ランは大学生だった」という発言があったと思うので、アン・ランと弟は18歳以上は年齢差があるということになるだろう。なかなか姉弟の年齢差として、18歳というのは大きいだろう。どうしてそうなったのか。そこには恐らくだが、中国の一人っ子政策が関係している。

映画の冒頭、アン・ランは家族写真の裏から、1枚の書類を見つけ出す。そこには、「娘には足に障害があるため、2人目の子どもを希望する」と書かれていた。中国の一人っ子政策について詳しく知っているわけではないが、先の書類の存在を考えると、「特別な事情がない限り、1人以上の子どもを持つことは許可されない」ということだったのだろう。

さて、アン・ランは別に、足に障害などない。つまり、「娘に障害がある」というのは両親の嘘だ。本来なら両親は、もっと早く弟を持つことが出来たはずだ。アン・ランが「障害のあるフリ」をちゃんとしていれば。結局両親の嘘が通ることはなく、アン・ランは「望まれない子」として育ち、そんな両親に嫌気が差して自立し、そうして弟が生まれた。

みたいなことは、映画の冒頭ではほとんど分からない。中国の観客には、恐らく、説明せずに伝わる部分も多いのだろう。しかし、中国人ではない観客のほとんどが、アン・ランの置かれた状況を想定できないはずだ。だから、アン・ランが「単に気が強いだけの女性」に見えてしまう。しかしそうではない。この映画で描かれているのはアン・ランではなく、「中国という社会そのもの」なのだ。

単に「さらなる飛躍を望んでいる女性が、見知らぬ弟を育てることになった」というだけの物語だったとしたら、ここまでの感動をもたらすことは難しかっただろう。この映画は、数奇な運命から2人暮らしをすることになってしまった姉弟の生活を通じて、「中国」を浮き彫りにしているのである。

とても良い映画だったと思う。

ざっくりと内容の紹介をしておこう。

アン・ランは、交通事故の現場で呆然としていた。警察から、身元を問われ、事故で亡くなった2人の子どもですと答える。両親の携帯には男の子の写真しかなかったようで、それもあって警察から身分証の提示が求められる。思考が停止したまま、彼女は身分証を取り出す。
葬式が行われ、そこで初めて弟に会う。その後、弟をどうするかで親族間であーだこーだ揉め、とにかく皆、アン・ランに世話を押し付けようとする。アン・ランは、北京の大学院に進むつもりだ。子どもなんか育てている余裕はない。だから養子に出すつもりで、叔母に承諾書へサインしてもらった。養子先は自分で見つけるからと、彼女はしばらくの間、会ったばかりの弟と暮らし始める。
肉まんしか食べたくないと喚き、パパとママに会いたいと泣く弟にうんざりしながらも、仕方なく世話を続けるアン・ランだったが……。

姉弟の話は色々と書いたので、別のことに触れよう。映画では、アン・ランとその彼氏の話も描かれる。物語の本筋に深く関わる話ではないのだが、結局これも「中国における家族」を象徴する描写なのだと感じた。

アン・ランと彼氏は、同じ病院で働いている。そして、一緒に北京の大学院に行こうと話しているのだ。そんな会話をするぐらいだから、アン・ランは当然、彼も同じ気持ちでいるはずだと考えている。

しかし、彼の実家での食事に呼ばれた際、アン・ランは違和感を覚える。彼の親族が、「早く結婚して、この家に住んで、孫の顔を見せて」という雰囲気で話し続けているのだ。アン・ランは思う。「え? 北京に行く話は?」と。彼女は、彼が家族に「北京に行く」という意思を伝えていないことを、その時に理解してしまった。

彼女はこの点でも葛藤を抱く。自分と同じ気持ちでいるはずだと思っていた彼氏が、北京行きの話を家族に伝えていない。行くつもりがないのか、それともただ言い出せないだけなのか。ただ言い出せないだけだと信じたい。しかし本当にそうなのだろうか?

彼氏の家は裕福で、彼氏は家族の中で大切に育てられている。それ故、「北京に行きたい」と口にすることは、家族への裏切りみたいな受け取り方がされると思っているのだと思う。だから彼は言い出せない。そして、とにかく気が強いアン・ランは、そんな状況に苛立ちを隠せないでいる。家族のことなんか振り払って、「女である」という不利さえもすべて蹴散らして前進してきた彼女には、彼氏の生き方は許しがたいものに映ったのだろう。

他にも、まともに仕事をしている様子もなく麻雀ばかりしている叔父の存在も物語の中にちょいちょい絡んできて、アン・ランの葛藤をさらに押し上げることになる。ややこしい。とにかくひたすらに、アン・ランが悩まなければならない状況に置かれ続けるのだ。

そういう、アン・ランを取り巻くすべての状況を理解した上で、アン・ランがどんな決断を下すのかが、最終的な物語の焦点となっていく。

演技の話で言えば、6歳の弟を演じた子役がとても良かった。憎たらしい時の凄く憎たらしい表情とか、可愛らしい時の凄く可愛らしい表情とか、涙して真剣に訴える時の真剣な表情とか、どれも良い。物語全体において、彼こそが最も翻弄される存在であり、常に選択や諦めを迫られることになる。そんな彼がある場面で下す決断には、ちょっと驚かされた。なるほど、そんな展開になるのか、と。具体的に彼の気持ちが描かれることはないのだが、それは彼なりの「覚悟」であり「優しさ」だったのだろうと思う。とても良い場面だった。

あと、個人的には関わりたくないと思ったが、麻雀ばかりしている叔父も、凄く良い雰囲気を醸し出していた。

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