【映画】「Ribbon(監督・脚本:のん)」感想・レビュー・解説


作品もとても良かった。でも、まずやっぱり感じてしまうのは、「のんって良いよなぁ」ということだ。

のんを見ると、なんだかウキウキしてくる。それは、単に「芸能人として好き」「顔が好き」みたいなこととはちょっと違うような感じがある。上手く言葉にできないが、「のんみたいな人がこの世界でちゃんと生きていてくれて嬉しい」みたいな感覚がある。別に彼女のことを詳しく知っているわけではないけど。

のんが出演している作品をすべて観ているなんてことはないが、いくつか観た作品はどれも、なんとなく「主人公のキャラクター=のん」に感じられるようなものが多かった。これも僕の勝手な印象に過ぎないが、何故かのんの場合、主人公とのん自身を重ねて見てしまうことが多い。

『Ribbon』もそうだ。しかもこの作品は、脚本・監督ものんがやっている。なおさら、主人公とのんを重ねたくなる作品だ。

この映画の主人公・浅川いつかも好きだし、のんも好きだ。まず僕としては、そこが素敵なポイントである。

【世の中の人みんな、芸術なんかなくたって生きていけるんだって。
異常だよね。】

凄く良い場面だった。つい先日、芸術系の専門学校に通う友人から卒展に誘われたこともあり、また、ちょうど昨日、森美術館の「Chim↑Pom展」を観にも行った。だから、「芸術」というものの存在や存在意義みたいなものを漠然と考えている時だったから、余計に彼女たちの状況に想いを馳せてしまった。

いつも感じていることがある。生きていくのに必要なものは、人それぞれまったく違う、ということだ。

今でも印象的に覚えていることがある。かつて同じ職場で働いていた、ボーイズラブの漫画が大好きな女性のことだ。彼女はしかし、仮に世界からボーイズラブの漫画が無くなってもたぶん生きていけはする、と言っていた。その代わり、例えばバスに乗って外を眺めている時に、「あ、凄く綺麗」と感じるような瞬間があって、そういう瞬間が自分の人生から無くなったら、たぶん生きてはいけない、と言っていた。

今でも、「生きていくのに必要なもの」について考えを巡らす時、真っ先に頭に浮かぶ記憶だ。

誰しもが、そういう何かを持っているだろう。家族と話す時間、友人と会う時間、本や映画、雨音や潮風、そういう、「身体的な生命維持には必要とは言えないが、人間として生きていくのに自分には欠かせないと感じるもの」を、皆何かしら持っていると思う。

僕はまさに、昨日それを感じた。前述した「Chim↑Pom展」に、頭をガツンと殴られたような衝撃を受けたのだ。僕は、本でも映画でも芸術でも誰かとの会話でも何でもいいが、自分が予期しなかった、想像さえしたことがない何かに遭遇する瞬間があってほしい。もうそういう瞬間にしか、「あぁこれでもう少し生きていられる」と感じられなくなってしまった。

世界的なパンデミックは、この「生きていくのに必要なもの」に対する価値観に大きな影響を与えた。「不要不急」という言葉が、ありとあらゆるものを押し流していく。とりあえず、身体の生命維持に必要なものは確保しましょう、でもそれ以外はちょっと諦めましょう、という世の中に切り替わってしまった。

仕方ない、ということはちゃんと理解している。しかしそれは、「身体が動いているだけのゾンビ」と大差ないとも思う。いずれこのパンデミックは収まるだろう。そこまで生き延びた人たちで、人類はまた新しい歴史を歩んでいく。しかしそれは、「身体が動いているだけのゾンビ」の状態から始まっていくことになる。なかなか悲観的な未来だ。

世界中の誰もがたぶん、自分の中の何かを少しずつ欠損させながら今を生きている。せめてこのパンデミックが意味のあるものだったと感じられるようにするためには、自分が何を欠損しているのか、それをきちんと捉えるべきだろう。

【こんなにも誰かに見てほしかったんだなって実感した】

卒展が中止になってしまった浅川いつかは、残念そうにそう語っていた。

自分にとって否応なしに必要なものを遠ざけなければならない非常事態だからこそ、普段は当たり前すぎて気づけなかった「自分が人間として生きていくために必要なもの」を再認識することができる。そういう時間なのだと、自分たちで言い聞かせるしかないだろう。

さてこの「生きるのに必要なもの」について、映画を観ながらもう1つ感じたことがある。それは、「他人のそれを、自分の価値観で判断するな」ということだ。

映画の中で最も不愉快で、しかしだからこそ印象的だった場面がある。いつかの部屋を片付けにやってきた母親が、いつかの絵を勝手に捨てたのだ。ゴミ捨て場から絵を回収したいつかは、母親に「どうして謝らないの」と詰め寄る。それに対して母親は、

【お母さん、そんな悪いことしたぁ?】

と返す。

僕はこういう人間が大嫌いだ。

娘の絵を「子どもが遊んで描いてるみたいな絵」と感じるのは自由だ。別に、そういう感想を抱くなとは思わない。ただ、「そんな子どもが遊んで描いてるみたいな絵なんだから要らないよね」と自分の価値観で決めるのは最低だと思う。しかも、自分の行為の是非を認識できていない。「自分の価値観で要らないと思ったものを捨てて何が悪いの」という態度なわけだ。

サイテーだと思う。

とにかく僕は、自分の周りにこういう人が一人でもいてほしくないと思ってしまう。それが家族だとしたら最悪だ。僕は、それが家族だろうがなんだろうが、他人とは完全には分かり合えないと思っているが、しかし、こういう分かり合えなさはまったく許容できない。

法律に触れたり、倫理的に許しがたいことであれば、たとえそれが生きるのにどうしても必要なものだと感じる人がいても制約されるべきだ。しかし逆に、そうではないのなら、どんなものも制約されるべきではない。こんなことは当たり前のことだと思うのだけど、世界的なパンデミックは、「こんな当たり前のことが当たり前だと感じられない人もいる」ということも可視化することになった。

映画の冒頭は、卒展が中止になったことで、家に持ち帰れない大きな制作物を自分で壊す場面から始まる。そんな辛い現実はなかなかないだろうが、しかし、「なかなか出来ない経験を、同時に経験したたくさんの人がいる」という特異な経験に何か価値を見いだせるように生きていくしかない。

内容に入ろうと思います。

美大に通う浅川いつかは、新型コロナウイルスの蔓延によって卒展の中止を知る。翌日から校舎には入れないとアナウンスが流れ、いつかは、画材や絵を苦労しながら持ち帰る。親友の平井と共に帰るが、平井は何も持っていない。あまりにも絵が巨大すぎて、家に持ち帰れないのだ。苦労を口にするいつかに対して、「持って帰れるだけいいじゃん」と嫌味なことを言ってしまう。

絵を持ち帰ったいつかだったが、平井の言葉が頭に残っていることもあり、また、卒展が中止になってしまったことで情熱が湧いてこないこともあり、結局絵を描けないでいる。一人暮らしの部屋には、母・父・妹の順で一人ずつ家族がやってきては、コロナ禍なりのやり取りを交わす。

人気のなくなった近所の公園で、散歩や気分転換を兼ねてお弁当を食べるのだが、そこにいつもいる謎の男がいる。自分が見られているような感じがして、いつしかその男の人がいる時は公園を避けるようになってしまった。しかし、ふとしたきっかけからその男の人と関わろうと決意するのだが……。

というような話です。

好きな映画だなぁ。全体的に、とても好きな雰囲気のまま、最初から最後まで展開される。

何よりも、浅川いつかがとてもいい。特にいいのは、いつかが「平井」「妹」それぞれと絡む場面だ。どんな風に親友になったのか分からないながらも、恐らく本当になんでも打ち明けられる仲なんだろうと感じさせる平井とのやり取り、そして、コロナをメチャクチャ怖がっていつかが驚くぐらい消毒など念入りにする妹とのワチャワチャしたやり取りがとても良かった。

場面としては、先述した通り、母親が絵を捨てる場面が一番印象的だった。ホントに、「虫酸が走る」という表現が一番しっくり来るぐらい、ちょっと僕には耐えられない場面だった。この母親のような人、そしてこの母親の言動に違和感を覚えない人は、一刻も早く世界から駆逐されてほしい。本当にそう願うほど、個人的には耐えられない人種である。

平井が学校から持ち出せなかった絵が、途中でああいう展開を見せ、最終的にあんな風になうというのは、凄く意外でとてもカッコいいと思う。もちろん、ルール違反は咎められるべきだが、結果として人やモノに危害を加えるような行為ではなかったので、個人的な感覚としては許容したい。

しかしやっぱ、最終的には、のんって良いよね、という感想になってしまう。


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