【映画】「梟‐フクロウ‐」感想・レビュー・解説


いやーこれは、メチャクチャよく出来た物語だった!一応「史実」を基にしているらしいが、舞台は1645年だし、当時の朝鮮の王だった仁祖が記述した日記(かな?)の僅かな記述を基にしていると思われる。映画の冒頭で、『仁祖実録』(調べてみると、正式には『朝鮮王朝実録』って名前なのかな?)の6月27日の記述が表示され、さらに映画のラストで後日談のような箇所が恐らく同じ本から引用されるのだが、たぶんそのちょっとした記述を膨らませた作品なのではないかと思う。

その文章は、公式HPに載っているので引用してみよう。

【朝鮮に戻った王の子は、ほどなくして病にかかり、命を落とした。彼の全身は黒く変色し、目や耳、鼻や口など七つの穴から鮮血を流し、さながら薬物中毒死のようであった。】

もちろん、登場人物たちのキャラクターなどは様々な史料を基に作られているのだと思うが、僕にはそもそも、本作の主人公である「盲目の鍼師」が実在したのかどうかも分からない。そう感じるくらい、「どこまでが史実なのか」が分からない作品だが、本作に関して言えば、恐らくほとんどが創作ではないかと思う。

しかし、史実だろうが実話だろうが、別にどっちでもいい。物語によっては、「『これが実話なのか!』という外的要素を含めないと成立しないだろう作品」もある。先日観た『ダム・マネー』などはまさにその典型だろう。完全なフィクションだったら、「ンなわけないじゃん」と感じさせてしまうような、荒唐無稽な話だからだ。

しかし本作はそうではない。実話だろうがそうでなかろうが、そんなこと関係なく面白い。ホントに、とにかく脚本がメチャクチャよく出来ていて、「上質な物語に触れたなぁ」という感じだった。

しかしなぁ、本作の面白さを伝えるにはあるネタバレをするしかないんだが、これを書いている今もまだ、ネタバレしてその事実に触れるべきか悩む。ちょっと書きながら考えよう。まあ、仮にネタバレするにしても、「ここからネタバレ」みたいなことは書くので、それまでは安心して読んでいてほしい。

というわけで、まずは設定とざっくりしたストーリーの紹介をしておこう。

盲目のチョン・ギョンスは、心臓に病を抱える弟ギョンジュと2人で生活している。彼は鍼師であり、もし宮廷に仕える専属の鍼師になれれば大出世だ。非常に腕の良いギョンスは、その道を狙っている。

ある日、宮廷の御医であるイ・ヒョンイクがある人物の治療にやって来た。イ御医は昔ながらの「糸による脈診」で病状を判断するが、大勢の見物人と共にその場にいたギョンスは、見えてもいないのに御医の判断に異を唱えた。宮廷専属の医師の診断を誤りだと断じたのだ。それだけではなく、「糸による脈診は偽りだ」と言い放った。御医はそんなギョンスのことを面白がったのか、「お前ならどこに鍼を打つ」と問う。そしてその才を知った御医に取り立てられる形で、ギョンスは宮廷付きの鍼師に昇格することになったのだ。

借金を抱えて、弟の薬も満足に買えないギョンスは、金貸しに頭を下げて支払いを待ってもらい、とにかく宮廷での仕事でお金をもらえるようにと考えている。宮廷付きの鍼師は、本来は自宅から通いで良いのだが、最初のひと月は覚えることも多いため、宮廷に泊まり込みになる。弟には、ひと月我慢するように言い含め、彼は宮廷へと向かった。

見えないながらも優秀なギョンスは、薬の配置などをすぐに覚え、王妃の施術なども任されるようになる。内医院には、目の見えないギョンスを親切に手助けしてくれる者もいて、宮廷内の作法も教えてくれた。とにかく「聴こえないふり、見えないふり、口には気をつけろ」と忠告された。

さて、そんな宮廷は今、少し慌ただしい。というのも、清国に囚われの身となっていた世子(王の息子)が8年ぶりに帰って来ることになっているのだ。世子の息子である若殿は8才。生まれてまもなく、人質として両親が清に囚われたため、両親の顔を知らずに育った。

そんな世子が戻って来る日。「体調が悪く清国の使者を出迎えられない」と主張しているらしい王を、領相(政を司るトップのことだと思う)が訪ねてきた。領相ら一行を追い返そうとする王妃に領相は、王に会えぬなら職を辞すと告げる。体調が悪いのは確かだが、王は決して出迎えが出来ないような状況ではなかったようだ。

王は、清が嫌いなのだ。

この国はかつて、明に仕えていた。そして王は今でも、明に仕えるべきだと考えている。しかし息子である世子から、「明は滅びました。北京でこの目で見ました」と言われてもなお、王は清を受け入れられないでいる。清に囚われていた8年間で、息子の考えが変わってしまったことを知った王は、なんとも言えない表情をする。

そんなある日。世子が目から血を流して亡くなっているのが見つかる。侵入者がいたことが判明し、毒殺されたのではないかと疑われるのだが……。

というような話です。

繰り返しになるが、ホントによく出来た物語だった。盲目の主人公の設定がとても絶妙だし、さらにその設定がストーリーを面白くする方向に上手く活かされている。また、1645年の朝鮮という、日本人にはかなり馴染みの薄い時代の物語であるにも拘らず、人間関係や状況設定がストーリーの中に上手く織り込まれているので、「誰が誰だか分からない」「状況が理解できない」みたいなことにもならないだろう。物語の前半はそのような「説明」部分と言っていいが、だからと言ってつまらないということはなく、主人公である盲目のギョンスが放つ魅力で物語を楽しく追える。そしてその上で、後半からの怒涛の展開に観客は翻弄されていくことになるというわけだ。

いやー、お見事でした。

さてネタバレするかどうかだけど、やっぱりしよう。理由はいくつかあるが、一番は、「物語の前半でもそこそこ示唆される要素だから」というのが大きい。確かに、はっきり分かるのは後半になってからだが、前半でも「ん?」と感じる部分はある。僕も割と早いだんかいで、確信こそ無かったものの「もしかしたら」と感じた。まあ、あまりちゃんとした理由ではないかもしれないが、とりあえずこれ以降はネタバレをすると忠告するので、読みたくない方はここで読むのを止めて下さい。

さて、僕が「ん?」と感じた場面について触れておこう。それは、ギョンスが弟に宛てて手紙を書いていたシーンだ。ここで、「盲目なのに、手紙が書けるのか?」と感じた。ただこの時点では、「ギョンスが何故盲目なのか」についての説明がなかったので、「元々見えていたのだが、事故か何かで途中から盲目になった」という風に考えていた。そうだとすれば、字が書けても不思議ではない。

しかしその後、闇夜でギョンスが若殿と遭遇する場面があり、そこで若殿に問われる形でギョンスが「生まれつき目が見えない」と答えるのだ。ここで「あれ?」となる。だったら、どうやって字を覚えたのか、と。

さて、その理由を説明する前にもう1つ。本作は予告などで、「唯一の目撃者は盲目の男」などと紹介される。これを聞いて普通は、こんな風に感じるだろう。確かに目は見えない。しかし、音や匂いで周囲のことが判断できる。実際に前半部では、ギョンスが視覚以外の五感を駆使して周囲の状況を把握する様が描かれる。だからこそ、そのような「視覚以外の五感」によって何かを捉えたことを「目撃」と表現しているのだ、という風に多くの人は理解するのではないかと思う。

しかし、その理解は誤りである。本作ではギョンスは、実際に「目撃する」のだ。つまりギョンスは、目が見えるのである。

ただ、ギョンスは決して嘘をついているわけではない(いや、まったくついていないということでもないが)。そのような症状が実際に存在するのかは不明だが、ギョンスは「明るいとまったく見えず、暗いと少しだけ見える」という特殊な盲人だったのだ。これで、タイトルの「梟」の意味が理解できるだろう。「夜目が利く」というわけだ。

普通の人の視界が拓けている昼間は、ギョンスには何も見えない。どこにでもいる普通の盲人に見えるというわけだ。しかし、普通の人の視界が制約される夜に、ギョンスは「見える」ようになるのである。

そしてこの設定がとにかく上手い。この設定がとにかく物語に絶妙な感じで活かされているのだ。

まずそもそもが、後半のスリリングな展開にこの設定が組み込まれている。多くの登場人物が「ギョンスは完全な盲人だ」と考えているため、彼の存在はある種「油断をもたらす」ものとなる。それ故にクリア出来た危機もあるし、実現できた計画もある。

一方で彼は、とある状況に追い込まれることになり、「信頼できる人間には『見えていること』を伝えなければならない」という状況に追い込まれる。彼としては、長年隠し通してきたことである。出来ればその事実を表沙汰にしたくない。しかも、「事件を目撃した人物である」と知れてしまったら、弟の命が危ない。だから彼は可能な限り「自身が目撃者である」という事実を伏せなければならないのだ。

つまり、彼は一方では「目撃者だったと伝える」必要があり、また一方では「目撃者だったことを隠す」必要があるというわけだ。この攻防が、実に面白い。

さらにこの「見えているのに見えないふりをする」というのは、様々な場面における「見て見ぬふり」を暗示するものとも解釈することが出来るだろう。

内容紹介の中にも書いたが、宮廷を案内する先輩からギョンスは「聞こえないふり、見えないふりをしろ」と教わる。この時点では観客は「ギョンスは完全な盲目だ」と考えているから、「そんな忠告の必要などない」と感じるわけだが、実はそうではなかった。ギョンスは、限られた条件下ではあるが「見える」のだ。しかしそれでも彼は、これまでも「見て見ぬふり」をしてきた。

それは、宮廷入りする前の日常生活でも同じだ。断言は出来ないものの、彼は肉屋(かな?)で「どうせ見えないから」と量をごまかされているのではないかと思う。たぶんギョンスは、重さでそのことに気づいたのだが、何も言わなかった。そしてその話を夕飯の席で弟にしたのだろう。弟から「何で黙ってるんだよ」と言われてしまうのだ。これも、ギョンスの「見て見ぬふり」がある種の処世術になっていることを示す1つの描写だろうと思う。

また、彼は実際に「卑しい者は見て見ぬふりするしか生きていく術がない」と口に出してもいる。彼の両親がどこにいるのか(あるいはもういないのか)などは描かれなかったので分からないが、病弱な弟を抱えた盲人というのは、生きていくのに相当な困難を強いられたことだろう。1645年という時代を考えればなおさらだ。だからこそ彼は「見えることもある」という事実を隠してずっと生きてきたのである。

そして作中では、そんな彼の「覚悟」が垣間見えることになる。そのような展開も、とても良い。彼が「私が見ました」と繰り返す場面は、観客に「見て見ぬふりはすべきではない」というメッセージとして真っ直ぐ届くことだろう。

細部に渡る見事な物語と、その物語が必然的に伝えることになるメッセージ性が絶妙に相まって、エンタメとしても教訓としても優れた作品に仕上がっていると思う。とにかく、面白い映画だった!

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