【映画】「あのこと」感想・レビュー・解説

こりゃあ男が観るべき映画だな。時代背景は違えど、結局のところ描かれているのは、「予期せぬ妊娠に対する、男の『何もしなさ』」だから。そしてこれは、1960年代のフランスの物語だが、これからのアメリカの物語でもあるのだろう。まさにアメリカは今、「中絶禁止」に舵を切ろうとしているのだから。

こう言っては語弊があるかもしれないが、とても「シンプル」な映画ではある。物語を要約すれば、「中絶が違法な社会で予期せぬ妊娠をした女性が、どうにか中絶する手段を模索する」となる。こんな風に、文字でまとめれば、とてもシンプルだ。

しかし、映画全体は、とても「シンプル」なものではない。なんというか、メチャクチャ圧倒されてしまった。

それは、僕が男だからかもしれない。つまり、「予期せぬ妊娠」に限る話ではないが、「女性が直面せざるを得ない現実」に対する想像力が、なかなか備わっていないことによる「衝撃」であるかもしれない。女性がこの映画を観てどう感じるか分からないが、同じように「衝撃」を感じたとしても、それは男が感じるものとは少し違うかもしれない。男には、女性が受け取るだろう「衝撃」にさらにプラスして、「想像力の欠如」がもたらす「衝撃」が加わるからだ。

そんな映画なので、主人公のアンヌのあれこれについて言葉で何か書いてもあまり意味はないだろう。アンヌの葛藤や苦労、そして「痛み」については、とにかく見てもらうしかない。

映画を観ながら、映画『17歳の瞳に映る世界』のことを思い出した。もちろんそれは、どちらも「中絶」がテーマになっているという分かりやすい繋がりもある。しかしそれだけではない。どちらの映画にも共通していたのが、「男の不在」である。

映画『あのころ』は、「妊娠させた男」に関する描写がまったくのゼロではない。しかし、映画全体に比べれば、その描写は非常に少ないと言っていいだろう。そして『17歳の瞳に映る世界』では、「妊娠させた男」の描写は一切存在しなかった。

『17歳の瞳に映る世界』には、家族とのやり取りさえもほぼ描かれなかったことが印象的だった。そして『あのころ』も、それはあまり変わらない。というのも、『あのころ』では「中絶が禁止されている社会」が舞台になっているので、そもそも「ほとんど周囲の人間に相談することが不可能」なのだ。『あのころ』では、家族との関わりが描かれるが、それは「娘が妊娠し、中絶しようとしていることを知っている親」との関わりではない。「娘に何が起こっているのか分からない親」との関わりである。だからこそ、結局描かれているのは「親子の関わり」ではなく、「アンヌがいかに家族に隠し通すのか」という、アンヌ個人の姿だと言っていいだろう。

そして、そのような描写からきりっと浮かび上がるのが「男の不在」だ。『あのころ』では、父親との関わりが描かれることはなかったと思うので、そういう意味でも「男の不在」が描かれているように思う。

物語は、ひたすらに「アンヌの中絶」を描き出す。しかし、「アンヌの中絶」を描けば描くほど、くっきりと浮かび上がってくるのは「男の不在」の方なのだ。そのことが、僕には最も印象的だった。そして、だからこそ、男が観るべき映画なのだと思う。

「中絶」がテーマになる物語に触れる度、「何が正解なのか」と考える。僕は、「中絶禁止」なんていう法律はおかしいと思うし、まったく許容しない。ただ、「生まれてくる命に罪はない」みたいな意見には、なかなか反論が難しい。一方で、アンヌのこんなセリフも、また真っ当だと感じる。

【いつか子どもはほしいけど、人生と引き換えはイヤ】

アンヌは、貧しい労働者階級に生まれながら、飛び抜けて秀才であり、家族からも教授からも期待されている。本人も、学問の道を究めたいという希望を何よりも強く持っている。しかし、「妊娠し、中絶が禁止されている」という世界であり得る選択肢は、「大学を辞め、結婚する」か「大学を辞め、シングルマザーとして子どもを育てる」しかない。いずれにせよ、大学に通い続けるのは不可能なのだ。

そのことが、「人生と引き換えはイヤ」という言葉に詰め込まれている。

だから僕は、とりあえずこんな風に考えている。「中絶禁止」をルールにするのはおかしいし、間違っている。しかし、どうしても「中絶禁止」をルールにしたいのであれば、「人生と引き換え」にならない別の制度を用意すべきだろう、と。「特別養子縁組」や「妊娠・出産時の休学制度」みたいなものをきちんと用意することで、「中絶は許さない。ただ、あなたが大学を辞める必要もない」が実現できるならば、「中絶禁止」を許容する余地は生まれるだろうと思う。

だから、許せないのは、映画の中で「『予期せぬ妊娠』に付随するすべての不利益を女性が被らなければならない」という状況を、男が「当たり前」と考えている状況である。

「中絶」の手伝いはできないものの、アンヌの気持ちを理解してくれる医師が、「医師の大半は中絶に反対している」と口にする場面がある。1960年代の産婦人科医の男女比は知らないが、大方男性だろう。つまり、男は何もしないのに、強制力だけ押し付けてくるのである。その状況には、やはり苛立ちを覚えてしまう。今とはジェンダー的な考え方が根本的に異なっていただろうし、キリスト教の影響なんかもきっとあるのだと思うが、それにしても、「ろくでもねぇな」と思ってしまった。

映画を観ながら、「中絶禁止に違反した場合の罪はどのぐらいなんだろう?」と考えていた。人々の反応を見る限り、相当な罪になるように感じた。医師が拒否するのは当然としても(そりゃあ、仕事を失うわけにはいかない)、アンヌの一番の親友である女子2人も、アンヌが妊娠していると知るや、「好きにして。でも巻き込まないで」と、メチャクチャ冷たい反応をするのだ。よほどの罪に問われるのだろうと思うが、ざっくり調べてみてもよく分からなかった。ただ、「中絶」だけでなく、「避妊」もダメらしく、さらに「中絶や避妊の情報を提供する」だけでも罪になったそうだ。ってか「避妊もダメ」ってヤバくないか?

ネタバレかもしれないが、映画の展開から明らかに分かるだろうことなので、「アンヌは最終的に中絶に成功する」ぐらいは書いてもいいだろう。その過程で「闇医者」みたいな人にアプローチする。しかしこの闇医者は、決して「中絶」をしてくれるわけではない。「赤ちゃんが流産しやすいような状態」にするのが仕事のようである。

その闇医者は、友人の友人が紹介してくれるのだが、その際、「くじ引きみたいなものよ。カルテに『流産』って書くか『中絶』って書くか。後者なら刑務所行き」とアンヌに伝える場面がある。正直、このセリフを聞いた時には意味が分からなかった。この時点ではまだ、「闇医者が中絶を行う」と思っていたからだ。

しかし、「闇医者が中絶を行うのではない」と分かって、ようやく意味が理解できた。アンヌの置かれた状況はこうだ。「闇医者の処置によって、流産が起こる状態になっている。そのまま流産し、医者に見せずに済めば終了。しかし、医者に診てもらう状況になった場合は、カルテに『流産』『中絶』のどちらの文字が書かれるかで運命が決まる」。闇医者まで辿り着くのにも相当苦労したというのに、さらにその上で「運任せ」も含めた高いハードルが待ち構えているというわけだ。

ハード過ぎるだろ。

アンヌの気持ちに寄り添う医師が、「受け入れよう」と口にする場面がある。大学は諦めて、子どもを育てよう、という意味だ。まあ確かに、そう出来るなら、それが「母子ともに最高の結末」だろう。しかし、そうは出来ないからアンヌは困っているわけだ。医師としては精一杯の優しさのつもりだろうが、そんな言葉が響くはずもない。

公式HPを読んで「確かに」と思ったのがカメラワーク。映画では、大体の場面においてカメラは「アンヌを映す」のではなく「アンヌの目になる」ことが多い。すべての場面でそうなのではなく、「アンヌを映す」場面もあるのだが、概ね「アンヌ視点」のカメラワークで映画が進んでいく。だからだろう、「自分の経験」であるような異様な感覚のまま映画を観る感じになる。

そういう意味でも、なかなか凄い映画だった。

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