【映画】「ミャンマー・ダイアリーズ」感想・レビュー・解説

ちょっと悪い聞こえ方になるかもしれないが、こういう作品は「存在するだけで価値がある」と僕は思う。「その内容をどう評価し、どう批評するか」みたいなレベルとは違うステージに存在しているはずで、だからなんにせよ、その「存在」を感知するために観た方がいいと思う。

ちなみに、鑑賞のための後押しをもう少ししておくと、映画の収益(つまり、通常であれば監督が受け取るだろう金額)は全額、ミャンマーの支援団体に寄付されるのだそうだ。

10人の匿名監督による、軍事政権によるクーデター後のミャンマーの「リアル」を描き出す作品だ。映画を観る前は知らなかったが、この作品はベルリン国際映画祭でドキュメンタリー賞を受賞しているそうだ。まあ、そんなことを知っていようがいまいが、「ドキュメンタリー映画」だと思って観に行った。

しかし、全編が「ドキュメンタリー」なのかというとそうではない。そして、その点にこそ「軍事政権下のミャンマーでの『映画製作』の困難さ」がにじみ出ているのだと、上映後に配給で関わった映画監督のトークイベントで理解できた。まずはその辺りの話から触れていこう。

映画の冒頭は、SNSをほぼ見ない僕でも知っているくらい有名な、「いつも通りダンス動画を撮影していたら、その背後で実はクーデターの準備が進行していた」という動画から始まる。そしてその後も、デモ活動や、軍・警察に対する市民の抵抗などをスマホで撮影した映像が多く使われていく。

しかし、映画の後半になればなるほど、そうした「ミャンマーからSNSを通じて発信された映像」は少なくなる。そこには、「軍事政権が『デモの様子などを撮影した映像』を持っているだけで逮捕する」という方針に変えたからだそうだ。検問の際、スマホにそのような映像が残っているだけでアウトなのだそうだ。だからクーデターからかなり早い段階で、ミャンマー市民は、撮影した映像をSNSに上げることさえ困難な状況になっていくことになる。

そもそもミャンマーは、クーデターが起こる以前から、映画撮影における検閲が厳しい国だったそうだ(2016年頃から変わっていったらしいが、今回のクーデターで逆戻りした)。だから、トークイベントで登壇した監督は、「ベルリン国際映画祭でミャンマーの映画が上映されたこと自体」に驚愕したという。クーデター後は、「映画を撮影すること」は文字通り「死に直結する行為」となった。発覚したら、逮捕だけでは済まず、恐らく拷問された上で処刑されてしまうのだそうだ。

そういう中で、一体どんな「映画製作」が可能なのか。その答えの1つとしてこの映画が存在する。映画は、SNSで知られるようになった動画から始まり、徐々に「本来的な意味においては『ドキュメンタリー』とは言えない映像」になっていく。主に「室内」を舞台とした、「個人の演技」によって成り立っている映像へとシフトしていくのである。

ただ、それが「フィクション」なのかと言えば恐らくそうではない。これも、トークイベントに登壇した監督の推測ではあるのだが、撮り方こそフィクショナルだが、ストーリーそのものは監督自身、あるいは身近な人間に起こった実際の出来事ではないか、と言っていた。

「ドキュメンタリー作品」として打ち出されながら、フィクショナルな映像がかなり占めるという作品は、逆説的に「ドキュメンタリー映画を撮ることが出来ないぐらいの深刻さ」であることを示しているとも言えると思う。アフガニスタンやシリアなども、内戦などで酷い状況にあるだろうが、国外の戦場記者みたいな人たちが中に入ったり、あるいは、そこに留まる市民たちが映像を撮るなどして、世界に向けて発信が出来たりもするだろう。しかしミャンマーは恐らく、そういう状況にさえない。だからこそ、「『映画を撮影している』ということが露見しないように『室内』を舞台にし、フィクショナルな手法によって映画を撮る以外に、この現実を伝える方法はない」という判断になったのではないかと思うし、そしてそういう描き方をしているからこそ、フィクショナルな映像の多いこの作品が「ドキュメンタリー映画」として評価されているのだ、と僕は感じた。

全編を通じて、「私たちの声は届いていますか」という問いかけがなされる。多くの日本人は、ニュースやSNSなどで、香港デモの映像を結構目にしたことがあるんじゃないかと思う。デモが起こらないことが望ましいが、起こさざるを得ないのであればやはり、それを世界中の人に訴え、賛同・共感を集められるに越したことはない。

しかし、ミャンマーに住む人々にはきっと、今その選択肢はない。SNS全盛のこの時代においてさえ、自分たちの声を届ける手段を封じられてしまっているのだ。だからこそ、命がけで映像を撮り、それを世界に発信した。紛れもなく、これは私たちに向けられた「SOS」である。

放たれたすべてのメッセージが受け手を得られるとは思っていないし、情報が過剰に存在するこの現代においてはそれは奇跡的なことだと思うが、しかし、この映画が伝えようとする「SOS」のメッセージは、「受け手を得られるべき」だと僕は思う。放たれっ放しではいけないメッセージだ。

クーデター以降、ミャンマーでは、1万人以上が拘束され、150万人以上が避難民となっているそうだ。映画では、2021年2月のクーデター以降1年間ぐらいの間に撮られたものが多く、2023年の情報は含まれていない。しかし、トークイベントで登壇した監督は、今も状況にほとんど変わりはない、と言っていた。

こういう作品に触れる度にいつも感じることではあるが、世界の様々な問題に対して「何も出来ない」と感じるとしても、唯一「知ること」ぐらいは誰にでも出来る。だから僕たちは、「知ること」を止めてはいけないと思うし、「受け手を得られるべきメッセージ」の「受け手」にならなければならないと思う。

この記事が参加している募集

映画感想文

サポートいただけると励みになります!