【映画】「わたしたちの国立西洋美術館 奇跡のコレクションの舞台裏」感想・レビュー・解説

映画としてメチャクチャ面白かったというわけでは決してないけど、普段見られない「美術館の裏側」を知れたことはなかなか興味深かった。国立西洋美術館は何度か言ったことがあるし、割と近くに住んでいるので、「改修中」のフェンスに囲まれた様子も見たことがある。映画は、2020年10月の閉館から2022年6月のリニューアルオープンまでを追ったものだが、まさにコロナ禍と被っている。美術館ほどの大規模な施設で緻密な計画を要するだろう場所で、「コロナ禍になったから改修を決めた」なんてスケジュールで改修が行える気がしないので、もっと前から改修の予定は決まっていたのだろう。そう考えると、結果として見れば「僥倖」としか言いようがないタイミングだった、と言えるかもしれない。

映画の冒頭で、今回の「改修」の主目的がざっくりと語られていた。大きく分けて2つの目的があるようだ。1つは「前庭」(「ぜんてい」と読むのが普通な気がするが、映画では「まえにわ」と言っていた。もしかしたら、美術の世界では「前提」という言葉をよく使うからそれと混同しないように、みたいな意図があったりするのかもしれない)の防水工事だ。前庭の下にも展示室(だったか収蔵庫だったか)があるわけで、防水が完璧である必要がある。最後に防水工事を行ったのが25年前なので、新たにやり直す、というわけだ。

しかし、それ以上に重要なことが、「建物全体が世界遺産に登録されたこと」である。ル・コルビュジエの建造物の1つとして世界遺産に登録された国立西洋美術館だが、ル・コルビュジエは本館のみならず前庭の設計にも携わっていたそうだ。しかし、どういう経緯があったのかは不明だが、改修前の国立西洋美術館の前庭は、ル・コルビュジエが設計したものとは少し異なっていたらしい。それを「可能な限り創建当時の状態に戻し、世界遺産としての価値をより高める」というのが、今回の改修の最大の目的である。

さて、それだけ聞くと、「外の工事を行うだけだから、収蔵物にはさして影響はない」と感じるかもしれないが、そうでもないようだ。工事の都合上、どうしても収蔵庫の一部で停電が発生してしまうという。停電になれば、保存に適した空調などが保てない。そこで工事の前に、停電が起こる収蔵庫の収蔵品をすべて別の収蔵庫に移す、という作業が発生するのだ。

映画の中では、日本通運や佐川急便の面々が、美術品を取り外したり梱包したりという作業を行っていた。学芸員の1人は、「外国の美術館も当然、美術品の梱包は丁寧に行うが、日本のそれはやはりずば抜けていると思う」と語っていた。

映画の中で、ある学芸員は、「美術館は『開いていること』こそが最大の使命だ」みたいなことを言っていた。かつて美術品は、「特定の個人」しか鑑賞できないものだった。だから「美術館」の存在意義というのは「いつでも美術品を観られること」であり、だからこそ「常に開いていること」が大事だというわけだ。

そういう「美術館」だからこそ、「長期間閉じている」という状態になることはなかなかない。そんな機会を上手く活用しようと、普段はなかなか館外に貸し出すことが出来ない美術品を地方で展示したり、あるいは、常設展示をドラスティックに入れ替えたりする。

映像としては、そのような「普段は見られない美術館の裏側」で働く人々の様子を映し出しながら、併せて、美術館で働く人たちに「西洋美術に対する想い」「コロナ禍での苦労」「企画展の難しさ」などを聞くという構成になっている。

映画の中では、「企画展をなかなか行いにくくなっている」という話が出てくる。それは、「日本独特の仕組み」によるものだ。日本の場合、美術館側があまりにも予算を持っていないため、企画展示は「新聞・テレビなどのマスコミの予算」がなければほぼ実現できない。しかし、新聞・テレビも以前ほどの力はない。確実に収益が見込めるような企画展でなければ収支が合わないため、ビッグネームばかりの企画展が並ぶことになってしまう、というわけだ。

この点については映画の中でも様々な人が語っているのだが、まず、以前読んだ『美術展の不都合な真実』(古賀太)の話から始めよう。その本には、「本来的に、美術館同士の美術品の貸し借りにはお金が掛からない」と書かれており、それに驚いたことがある。「文化」なのだから、お金でやり取りするようなものではない、みたいな感覚が国際的な常識なのだそうだ。

もちろん、「企画展」を行う際には様々な経費がかかるものだが、恐らく日本の場合、「貸し出し料」に莫大な金額を費やしているはずだ(そしてそれを新聞社・テレビ局が担っている)。では、本来的に無料のはずの貸し借りに莫大なお金を払っているのは何故なのか?

『美術展の不都合な真実』を読んだのは大分前のことなので、そこに何が書かれていたのかはっきりと覚えているわけではないので、以下はあくまでも僕の推測だ。例えば、戦後の日本はまだ「芸術」分野において西洋からかなり「下」に見られており(これについては、国立西洋美術館のある人物も、恐らくそうだっただろうと言っている)、「対等な立場」とは見られていなかったため、お金を支払う必要があったのかもしれない。特に国立西洋美術館は「西洋美術」を扱っているわけで、「アジアの国が、まともな『西洋美術展』を開けるのか?」と懐疑的な目で見られるのは仕方ないことだろう。

あるいは、マスコミ主導で企画展が計画されるような場合に、マスコミが「美術館の常識」を知らず、「貸し出しには当然お金がかかるものだ」という思い込みでお金を払っていた、みたいなこともあるかもしれない(もちろんその場合も、日本が芸術分野においては「下」に見られていたということが背景にあるだろうと思うが)。

そしてそのような流れが慣習化してしまった、ということなのだろう。

背景や歴史がどうあれ、現実として今、美術館は、「企画展」を自前で行う予算を持てないでいる。それは「国立西洋美術館」でも変わりはない。一方、かつてスポンサーになってくれていた新聞・テレビは体力を無くしている。さらに、2001年に美術館などが「独立行政法人」となり、「自力で収益を上げなさい」ということになった。もちろん税金は投入されているわけだが、映画の中では新館長(2021年を境に、定年を理由に館長が変わっている)が、「館長として再びここに戻ってきて驚いたのは、以前在籍していた時よりも予算規模が半分近くまで減っていること」と言っていた。

またそもそもだが、海外の美術館と比べると「人員」が圧倒的に足りないのだそうだ。人も少なく、金もない、そういう中で出来ることはやはり限られる。

ただ、学芸員の1人が、「開館当時は370点しか収蔵品がなかったが、今は6000点以上に増えている。だからこそ、それらをどう組み合わせるかで見せ方は色々と考えられる」とも言っていた。個人的には、芸術分野への予算は多くあってほしいが、コロナ禍もあったしそう簡単ではないだろう。学芸員さんには頑張ってほしいものだと思うのと同時に、改めて僕も、定期的に美術館に行こうと思った。

映画では、修復の様子や、他の美術館に貸し出しする前のチェック、常設展示に入れ替えの様子などが映し出されるのだが、それらすべてが全体的に「暗い照明」の中で行われていたのがちょっと不思議だった。まあ、普通に考えれば「作品保護」ということなのかもしれないが、それだけが理由なんだろうか?なんとなく気になるところではある。

「好き」を仕事にしている人たちの「楽しそうな感じ」も随所に映し出される作品で、「こんな風に働けたらいいだろうな」みたいな視点で見てしまう人もいるかもしれない。

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