【映画】「クリーチャー・デザイナーズ ハリウッド特殊効果の魔術師たち」感想・レビュー・解説

あまり賛同してもらえないが、どんな場合でも僕は「ある程度制約がある状況」の方が好きだ。「便利さ」にあまり飛びつくことはない。考え方が古いから新しいものに手を出さない、というわけではないつもりだ。そうではなく、「多少の不自由さはある」という状況の方が全体としてプラスに働くと考えているのだ。

僕が思う「プラス」は、「『制約』を乗り越えようとする過程で『新しい何か』が生まれるはずだ」という期待にある。

もし、「作業時間を節約し、浮いた時間を使って別の『新しいもの』を生み出す」つもりでいるならば、制約を突破するための便利さに手を出すのもいいだろう。しかし、「単に便利だから」という理由で、制約のない状況に足を踏み出すことは、結局「新しいもの」を生み出すことを難しくしてしまうと考えている。

「目の前にあるこの障害をどう乗り越えるべきか」というスタート地点に立つからこそ、創造性が刺激されると考えているのだ。

書店員時代、よく考えていたことがある。「本」が持つ制約が、「売り方」のアイデアを引き出してくれる、と。

「本」は「電子書籍」と比べると、「受け渡しや保管の問題」などの制約がある。また日本の場合、「本の値段」は基本的に下げられない。法律でそう決まっているのだ。だから「値下げ」という手段も取れないことになる。

だからこそ、このような制約を突き破って本を読者に届けるためにはどうしたらいいかという発想になるし、そういう風に考えたことで、僕は割と面白いアイデアを考えられたと思っている。

値下げの制約がなければ、「そんなアイデアよりとりあえず値下げしよう」という短絡的な意見が強くなってしまいそうだし、「物質という制約」が無ければ思いつかなかったアイデアもある。

また、読者としても「電子書籍」に対する興味は薄い。これは、「選択肢」の制約が存在しないからだ。

書店に行けば、「その書店に在庫されている本」から何かを選ぶしかない。もちろん取り寄せなども出来るわけだが、探しているものをただ買うだけなら別に「電子書籍」でもいいだろう。

僕は、「在庫されている本しか買えない」という制約に価値があると考えている。何か本を探している場合、既にその本に関する情報や評価も知った状態のはずだ。「夢の中で本のタイトルだけがパッと浮かんだ」なんて人はなかなかいないだろう。ネットでレビューを読んだり、誰かからオススメされたりしているはずだ。

つまり、探している本を買うという行為は、まっさらな状態で本と出会うことを不可能にしているわけだ。

一方、書店に行くと、その存在知らなかった本が山ほど存在する。もちろん、書店にも様々な情報が存在するし、「完全にまっさらな状態で本と出会う」ことは不可能なわけだが、それでも、あらかじめ情報や評価を知った上で出会うのとは全然違う。

こんな風に僕は、「制約がある状況」の方にこそ価値を感じているのだ。

どうしてこんな話をしているのか。それは、「古くからの特撮技術」と「CG」のある種の「対立」が映画の後半で描かれることに関係している。

【アナログとデジタルは対立関係ではない】

映画の中でそう語る人物もいるし、実際、今でもすべてがCGに置き換わっているわけではない。しかしそれでも、アナログ技術はどんどん使われなくなっているし、スタジオを閉鎖する人も多くなったそうだ。

映画に登場する、アナログ技術のプロフェッショナルたちが口々に語っていたのは、「制約があるからこそリアルさが際立つ」という類の主張だった。その一例として語られていたのが、『スター・ウォーズ』のヨーダだ。

僕は『スター・ウォーズ』をちゃんと観たことがないので、言及されているのがどのシーンだったのか分からないが、ヨーダが素早い動きで身軽に動く場面があるという。『スター・ウォーズ』の最初の2作では、ヨーダは人形を制作し、人が動かして撮影が行われたが、素早い動きのヨーダはすべてCGになったそうだ。

そしてその素早い動きのヨーダは、非常に不自然に見えると皆が語っていた。実際にそのCG制作に携わった人も、内部では賛否両論が出たと語っていた。

ある人物は、

【人形の表情には限界があるからこそ、キャラクターとしてのリアルさが生まれる】

と言っていた。それが本当なのかどうか僕には判断できないが、なるほどと感じた意見である。CGの場合、どんな表情でも作れる。もちろん、ある程度は人間や動物の動きの制約は取り入れるのだろうが、実際には無数の選択肢が存在する。観ている側が「これはCGだ」と判断すれば、「CGなんだから何でもできる」と考えるだろうし、そうなればなるほど、「何が正解か」は観る人の数だけ存在し得ることになってしまうだろう。

しかし、CGではない場合、様々な制約から、選択肢の数は絞られる。観ている側が「これはCGではない」と判断するなら、前提として何らかの「制約」が存在することは感知するはずだし、その範囲内でリアルを追求すれば、存在感が際立つのではないか。

この映画を観るまでこのような視点を持ったことはなかったが、確かに「制約が存在する」という状況がプラスの効果をもたらしうる現場だと思う。

また、CG制作になったことで魅力的なキャラクターを生み出すことが困難になったという指摘もなされていた。その理由は、CGの方が「大勢の人間が関わる」からだと言っていた。

この点に関してはあまり詳しく触れられなかったが、恐らくこういうことではないかと思う。人形での撮影の場合、その人形の造型や動きを考えるのは、基本的に1人の人間だ。映画の中で、「◯◯の映画の人形制作は△△に頼んだ」みたいな言い方が結構出てくるが、このように、キャラクター造型は個人の創造力に託されていたのだ。今はどうか知らないが、かつては脚本には怪物などの具体的な造型は書かれておらず、造型を担当するものがその想像力をフル活用して、新たなキャラクターを生み出していたのだ。

しかしCG制作では、基本となるデザインは誰かが描くのだろうが、動きなどは様々な人間が分担して制作していくのだと思う。また映画では、「顔と身体は別々に制作される」とも語られていた。このように分業制が採られることで、「個性」が生まれにくくなっている、と指摘されていた。

そのような問題を解決するために、役者の顔などにセンサーをつけて演じてもらう「モーションキャプチャー」の技術が使われるようになっていったのだそうだ。

CGは、それまで不可能だったことをどんどん可能にしてしまうほど見事な技術だが、しかし「CGで創作を行うこと」による特殊な障害が生まれてしまうということでもある。映画の中で誰かが、

【最近の人はみんな何に対しても無感動だ。娘なんかも映画を観て「これはCGだ」などと言う】

と語っていた。しかし、娘がCGだと言っていた映画では、実際に人形が制作されたそうだ。CGが存在しない時代であれば、見たらぶったまげるほどの完成度だ。しかし、CGが存在する世の中であるが故に、その凄さが正しく評価されない。

【問題なのは時間やお金ではなく、尊敬だ】

と言っている人物もいた。CGが使われるようになったことで、映画制作に掛ける時間がどんどん削られ、また、以前からだがなかなか予算も人形の方には回ってこなかったという。しかしそういうことよりも、「アナログ技術の使い手」が尊敬されなくなっていると嘆くのだ。

『遊星からの物体X』で観客の度肝を抜く特撮技術を示した、業界の大スターであるボッティンが、今では特撮業界を去り、ただの謎の人物になってしまっている現状を、ボッティンの仕事に魅せられた人物は残念がっていた。時代の変遷は宿命ではあるが、僕はこの映画を観て、アナログ技術の凄まじさを改めて実感させられたので、どうにか廃れずに生き延びてほしいと願ってしまう。

驚かされたのは『ターミネーター2』の話。内容をちゃんと覚えているわけではないが、ほとんどCGでなければ不可能と思えるような凄い映像だった記憶がある。しかし『ターミネーター2』は、半分は実写なのだそうだ。

【T-1000が凍って砕け散る場面は、CGにしか見えないかもしれないが、CGは使っていない】

と言っていた。再生する場面はCGだが、砕けるのは実写なのだそうだ。

また、『ジュラシック・パーク』のエピソードも興味深かった。『ジュラシック・パーク』は、映画でCGが本格的に使われた最初の作品だそうだが、その使われ方が面白かった。今はパソコンの画面上ですべて完結するのだろうが、『ジュラシック・パーク』では、人形にセンサーをつけ、人形の動きに合わせてパソコン内のCGが連動して動くように設計されていたのだ。

どうしてそのようにしたのかというと、ティペットという人形作家のコマ撮りの技術を活かしたかったからだそうだ。恐らくだが、現在のようなCG制作環境がない時代だったからこそ、リアルなコマ撮りの動きをそのまま取り込むやり方の方が自然な描写になったのだろう。

ちなみに、『ジュラシック・パーク』は元々CGとアナログ技術(コマ撮り撮影)を両方使う予定であり、人形制作はティペットが依頼を受けていた。しかしCG制作のチームがこっそりと『ジュラシック・パーク』のCGを作り始めており、それを見た監督が絶賛、すべてをCGで行うことにしたという。この決定にティペットは酷く落ち込み、立ち直れないほどのショックを受けたという。しかしその後、妻の助言もあって制作チームと関係改善をし、コマ撮りをCGに落とし込むという手法の開発に至ったのである。

さて、『ジュラシック・パーク』は公開されるや否や、そのCG技術の高さが評判を呼んだ。そんな状況を忸怩たる思いで見ていたのがスタン・ウィンストンだ。彼は、アニマトロニクスという、機械制御されたリアルなロボットを作る人物として非常に有名であり、『ジュラシック・パーク』でも、全長11メートル、高さ5メートルという巨大なティラノサウルスのアニマトロニクスを制作した。

アニマトロニクスを制作した理由は、「役者がリアルな演技ができるように」である。CGの場合、役者は「何もいないのに驚いたり泣いたりする」ことが求められる。もちろんそれがダメなわけではないが、実物が存在すれば役者もよりリアルな演技ができるはずだ。ウィンストンは非常に高い完成度のアニマトロニクスを制作し、ある人物は、『ジュラシック・パーク』を高い水準の作品に引き上げた功労者はウィンストンだ、とさえ語っていた。

しかし公開後、称賛されるのはCG制作チームばかり。これをきっかけにウィンストンは、CG制作のために多額の資金を費やし、ジェームズ・キャメロンと組んでCG制作の会社を作ったそうだ。時代に従う決断をしたのだと、息子が語っていた。

映画では、ハリウッドの特撮技術の変遷が語られていく。最初は人間に特殊メイクを施し、それから着ぐるみとコマ撮りが生まれた。映画では、『ゴジラ』についても語られる。ゴジラは、明らかに人が入っていると分かるし、明らかに作り物だが、それでも実在を実感させる造型になっていたと絶賛されていた。「日本は着ぐるみの見せ方が上手い」とも語られる。

その後、アニマトロニクスが生まれる。アニマトロニクスを使った映画としては、『遊星からの物体X』と『グレムリン』が最高峰だそうで、誰もがそれら2作品を超える映画を作りたいと考えていると語っていた。

ジェームズ・キャメロン監督の『アビス』では、「あり得ないアニマトロニクス」の制作が依頼される。それは、「透明で、美しく、儚く優雅で、水中で発行し変色もする」というものだ。制作チームは様々な手段を試し、最終的に非常に見事なアニマトロニクスを完成させた。

そしてこの映画でジェームズ・キャメロンは、CGを使ったシーンを組み込んだ。透明な蛇のような生き物が出てくる場面だ。当初はアナログ技術で撮る案も検討されたが、最終的にはCGに決まった。しかし当時はやはりかなり難しい作業だったようで、18シーン、72秒の映像を作るのになんと1年もの歳月が掛かったそうだ。

この『アビス』の成功を受けて、『ターミネーター2』でもCGを組み込み、その後『ジュラシック・パーク』で本格的にCGが使われるようになっていったそうだ。

このような変遷が語られる中で、様々な人物が特撮技術の歴史や背景について語る映画である。

個人的には、もう少し実際の映画の映像が組み込まれるといいと思った。権利の関係で色々難しいのかもしれないが、着ぐるみ・コマ撮り・アニマトロニクスなどで撮影された実際の映画の場面があまり使用されない。僕は、『スター・ウォーズ』も観ていないほど作品そのものを知らないので、実際の映像がもっとあると良かったなと感じた。

映画の冒頭では、アナログ技術に携わる面々が、「この世に存在しない生き物をゼロから生み出すこと」の面白さを様々に語っていた。

【創作の楽しさは唯一無二だ】

【創作は子育てに似ている。作っていく過程で、自分でも予想もしなかったものになっていく】

【自分の作品に感動を覚えるのは、動いているのを見た時だ】

【男である自分が、命を吹き込めるのは、この瞬間だと感じている】

彼らは「生き物の誕生に携わっている」という感覚を持って仕事をしているのだ。それは、「感情」に関する様々な意見からも感じ取れる。

【人々の感情を掻き立てるキャラクターこそ理想だ】

【どんな感情を込めたいのかに合わせて動きを決める】

【怪物にも二面性が必要だ。単なる「恐ろしい生物」としては描かない】

【怪物を映画に当てはめるのではなく、その怪物に合った環境を作るんだ】

愛情溢れる職人たちによる、愛情の詰まった仕事ぶりが垣間見える作品だった。

この記事が参加している募集

映画感想文

サポートいただけると励みになります!