【映画】「聖地には蜘蛛が巣を張る」感想・レビュー・解説

非常にモヤモヤする映画だった。

この「モヤモヤ」には、色んな意味がある。

まず、「なんともしっくり来ない」という感覚だ。これは決して、悪い意味ではない。物語の評価において、「分かりやすさ」を重視する人間ではないので、「分かりにくい」「なんだか分からない」という内容であることは別に問題ない。

しかし、その「しっくり来なさ」が、どこからやってくるのかを上手く捉えきれないことに、なんだかモヤモヤする。

映画は、イスラム教の聖地マシュハドが舞台となる。そこで実際に起こった、16人の娼婦が殺された事件に着想を得た物語である。

つまり、このモヤモヤが「イスラム教の理解出来なさ」から生まれている、という可能性がある。その場合、イスラム教に対する知識を増やす以外に手立てはない。

しかし、本当にそうなんだろうか、と思う。そんな、「イスラム教だから」みたいな狭い捉え方をして良い作品であるように思えない。しかし、じゃあ何が自分をモヤモヤさせるのか、というのが、なんとも捉えられないのだ。

さて、こんなモヤモヤもある。それは、犯人が逮捕された後で描かれる。

この映画は、「捜査側」と「犯人側」が同時に描かれる作品であり、観客視点では犯人が誰なのかは早い段階で分かる。「犯人が誰か」は、物語のポイントではない。この映画では、色んな部分に焦点が当たるが、その1つが「犯人が逮捕された後」にある。

なんと民衆の多くが、この連続娼婦殺人犯を支持し、「無罪」にするよう運動を始めるのだ。

これは実に「モヤモヤ」させられる展開だった。

ここで最も重要になるのが、「イスラム教の聖地である」という事実だ。つまり、人々の間で、「聖地に娼婦は相応しくない」という考えがかなり多勢だということだ。

もちろん決して全員ではないのだが、少なくともこの映画では、「そのような声がかなり大きい」という描かれ方がしている。犯人自身も、「使命感でやった」「(殺す時に快感を得ていたのかと聞かれ)浄化の喜びだけだ」と答えている。映画を観るだけでは、「犯人が心の底から本当にそう考えているのか」ははっきり分かるわけではないのだが、恐らく監督はそのような意図をもってこの映画を作ったのではないかという気がする。

イスラム教の戒律(と呼ぶので合ってるのか分からないけど)について詳しいわけではないが、やはりそれらは西洋・東洋のものとはかなり異なるだろう。僕の感覚では、よほど狂気的な環境でない限り、「連続殺人犯が英雄視される」という状況は想像しにくい。しかし、「イスラム教であること」「聖地であること」という状況が、恐らくその「特異さ」を生み出しているのだろう。

その感覚の「馴染めなさ」に対しても、非常に強く「モヤモヤ」を感じてしまった。

そしてやはり、最大のモヤモヤは、主人公である女性ジャーナリストが直面する様々な現実である。

公式HP観て初めて知ったが、主人公ラヒミを演じた女優ザーラ・アミール・エブラヒミは、「第三者による私的なセックステープの流出によってスキャンダルの被害者となり、2008年、国民的女優として成功を収めていたイランからフランスへの亡命を余儀なくされた」そうだ。そして、ラヒミもまた、同じような経歴を持っている。映画の中ではほんの僅かしか語られないが、ラヒミもまた、自身に非がないスキャンダルのせいで新聞社をクビになっているのだ。

また彼女はある場面で、公権力を持つ人物から襲われそうになる。その人物が何を意図してそんな行動を取ったのか謎すぎるが、やはりこれは、ラヒミが女性であることから来るものだろう。

ラヒミは警察にも判事にも臆することなく質問を浴びせかける人物であり、知性と行動力がとても高い。一方、作中人物の言葉を借りるなら、マシュハドの娼婦は「薄汚い薬物常習者で、殺されても仕方がないロクデナシ」なのである。彼女たちには一見、共通項は無さそうだ。しかしながら、恐らくラヒミは、「自分も『娼婦』のような扱われ方をしている」という感覚を強く持っていたのではないかと思う。恐らくそのことが彼女の、この事件の取材に懸ける想いの強さに繋がっているのではないかと感じた。

日本も男女の不平等がかなり酷い国だとは思うが、映画の舞台となるイランはさらに酷いだろう。冒頭、ラヒミがホテルのチェックインをしようとすると(彼女はマシュハドとは別の地域に住んでいるっぽく、事件取材のために一時的にマシュハドに滞在するようだ)、既に予約済みであるにも拘わらず、「未婚で1人で宿泊」ということで一旦断られる。そこで彼女がジャーナリストのIDを提示すると、一転宿泊が許可されたが、それでも「(ヒジャブで)髪を隠して」とうるさく言われる。聖地ということもあるのだろうが、「道徳警察」の目が厳しいのだそうだ。

また、これはどの国でも大差はないのかもしれないが、「娼婦」ばかりを批判し、「娼婦を買う男」はまったく批判の対象にならない。少なくともこの映画では、そのように描かれている。仮に「娼婦」の存在が悪いのだとすれば、その娼婦を買う男だって同等に悪いとされてもいいはずだが、そこはやはり非対称になる。

確かに、「連続娼婦殺人事件」は、「犯人逮捕」によって「幕を閉じた」という状態にはなった。しかしそれは結局、「臭いものに蓋をした」という程度の話でしかない。本質的には何も変わっていないし、どころか、最後の映像(それが何かはここには書かないが、フィクションだと分かっていてもその異常さが際立つ驚愕の映像である)は「これで終わりではない」という現実を示唆しもするだろう。

新たな「連続娼婦殺人事件」が起こるかどうかが問題なのではない。そうではなく、「イスラム教に則った生活をしない人間は、どう扱われても仕方ない」という根本的な問題が今もずっと横たわっているということなのだ。それは、統一教会やエホバの証人などで二世信者の問題が取り沙汰されたように、決して「対岸の火事」ではない。

イスラム教に則った生活をすれば、必然的に女性は地位が低いままだ。それをどうにかしようと(まさにラヒミはそのような存在として描かれているのだと思う)奮闘すればするほど、イスラム教の教えから外れることになり、それはつまり、「娼婦的」な見られ方をされてしまうことを意味する。そうなれば、「殺されても仕方ない」という扱いになってしまうだけだ。

「ジャーナリスト」と「娼婦」という、対極とも言うべき存在を「同列」のものとして扱うような圧力が働いているという現実そのものを圧縮して閉じ込めたような作品であり、「連続娼婦殺人事件」という目立つテーマ以上の奥行きを感じさせる作品だった。

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