【映画】「死刑にいたる病」感想・レビュー・解説

映画『死刑に至る病』の感想としては、本来は、「連続殺人鬼・榛村大和のサイコパスっぷりがヤバい」という感じであるべきなんだと思う。判明しているだけで24名もの高校生を残虐に殺害し、まったく反省の様子も見せずに死刑判決が下った異常者に恐怖するのが正解なのだろう。

ただどうしても僕は、そういう感覚にはならない。

それは、「榛村大和に共感できる」みたいな意味ではない。いや、広い意味ではそうなるのかもしれないが、別に僕は「連続殺人鬼としての榛村大和の行為」を正当化するような意見は持っていない。彼の行為は間違いなく「悪」だし、彼が死刑判決を受け、社会から抹殺されることは、当然のことだと思う。

僕が映画を観ながら感じていたことは、コロナ禍になってから改めて強く実感させられたことと重なる。それは、「『生きていくのに必要不可欠なもの』は人によって違う」ということだ。

コロナ禍になってから、「不要不急」という言葉で様々なモノ・コトが切り捨てられていった。「感染症から人類・社会を守る」という目的のために、それは仕方ない判断だと思うし、そのこと自体を否定したいわけではない。

ただ、一般的に「不要不急」とされたモノ・コトが、どこかの誰かにとっては「生きていくのに必要不可欠なもの」かもしれない、という想像力だけは忘れたくない、と感じている。

幸い、コロナ禍において、僕はそのような「生きていくのに必要不可欠なもの」が制約されたことはほとんどない。「人と会うこと」が制約されたことで、「興味深いと感じる人と話す機会」が減ってしまったことは残念だったが、ただ、コロナ前だってそこまで頻繁に人と会っていたわけではないのに、大したダメージではない。

コロナ禍では、「大人数の飲み会」「ライブそのものの開催や、ライブでの声出し」「旅行」など、様々なものが制限された。それらは確かに、「生物の機能を維持する」という意味では「不要」だと言える。しかし人間は、ただ単に身体が正常に動いてさえいれば「生きている」と言えるような生き物ではない。身体が生存のための機能を果たした上で、さらに「生きている実感」を得られるような「何か」がどうしても必要だ。

その「何か」が、「大人数の飲み会」「ライブそのものの開催や、ライブでの声出し」「旅行」であった人たちにとっては、コロナ禍は本当に「心の死」を意味するような時間でしかないだろう。「身体が正常なんだから随分マシだ。贅沢を言うな。コロナ禍では、身体をちゃんと生き延びさせるのも精一杯の人だっているんだ」という反論は当然想定されるし、実際にその通りだとも思う。ただだからといって、「生きている実感を得られるような『何か』」がない現実を嘆いたり、苦しみを表現することが制約されるべきではないと思う。

さて、ここで榛村大和の話に戻す。彼は裁判の中で、「もし逮捕されていないとしたら、今でも(殺人を)続けたいと思いますか?」と聞かれて、こう答えている。

【はい。僕にとっては必要なので】

同一視するなと怒られるかもしれないが、それでも僕は思う。「生きている実感を得られるような『何か』」が「殺人」なのだとすれば、榛村大和のように生きる以外に選択肢はないだろうな、と。

このような意味で僕は、榛村大和に「共感」できる。そして、「生きている実感を得られるような『何か』を求める気持ち」を持つすべての人が共感すべきではないかとも思う。

もちろん、「生きている実感を得られるような『何か』」が「殺人」だからといって、当然「殺人」が許容されるはずもない。「そういう気持ちを持つこと」と「実際に行うこと」はまったく別の話だ。実際の行為に移した点には、一切の「共感」はできないし、断罪は当然だと思う。ただし、「生きている実感を得られるような『何か』を求める気持ち」の部分については、むしろ「共感すべき」なのではないかと感じるのだ。

コロナ前の世界においては、ほとんどの人が「生きている実感を得られるような『何か』」を得ることに困難さを感じなかったはずだ。もちろん、その「生きている実感を得られるような『何か』」が「薬物」や「小児性愛」のような人もいるだろうし、そういう人はコロナ前でも「生きている実感を得られるような『何か』」を得ることに苦労していただろうが、大体の人はそんなことはなかったはずだと思う。

しかしコロナ禍になったことで、多くの人が「生きている実感を得られるような『何か』」を得ることを制約されたはずだ。そしてそれは、ある意味で、「榛村大和が感じていた困難さ」と相似形を成すはずである。

彼はとにかく、「彼なりのやり方で殺人を行うことでしか『生きている実感』を得られない」と感じていたのだろう。それが先天的なものか後天的なものか分からないし、どうでもいいが、その人生はなかなか想像しがたい。しかし、コロナ禍の今であれば、「毎月海外に旅行に行くことが唯一の生きがいだった人」が感じている困難さに近いものがある、と言えるのではないかと思うのだ。

繰り返すが、「そういう気持ちを持つこと」と「実際に行うこと」はまったく違うし、「殺人という行為」に及んだという事実に情状酌量の余地はない。ただ、「榛村大和はサイコパスだ」という捉え方は、僕は正しくないと感じているのである。

僕たちはたまたま、「生きている実感を得られるような『何か』」が「犯罪」ではなかっただけだ。そういう捉え方をしなければ、「榛村大和はサイコパスだから理解できない」と「自分には関係ないBOX」に仕分けして終わらせてしまうだけだ。

それは、想像力に欠けるのではないかと僕は感じる。

内容に入ろうと思います。

「これどうしたらいい?お母さん、決められないから」が口癖の母を持つ雅也は、父親の期待に添えず偏差値の低い大学に通っている。家では母親が「家政婦」のような扱いをされており、母もそんな立場に甘んじてしまっているように見える。強権的な父親の元で、暴力に怯えながら育った雅也も自己肯定感が低く、普段から小声でおどおどしたような振る舞いをしている。
そんなある日、榛村大和から手紙が届いた。一度拘置所まで会いに来てほしい、と。
榛村大和は、分かっているだけでも24件の殺人を犯し、その内の9件で起訴され死刑判決を受けた。真面目な高校生の男女と長い時間を掛けて信頼関係を築いてから、爪を剥ぐなど残虐な拷問を行い、殺した。”処刑部屋”から被害者の1人が逃げ出したことから事件が発覚し、逮捕されるに至った。
雅也は、榛村大和が経営していたパン屋の常連で、父親の暴力に怯える日々の中で唯一安らげる場所だった。そんな雅也のことを覚えていた榛村大和が、手紙を送ったのだ。
面会室で榛村大和が語った話は驚くべきものだった。彼は、起訴された事件の内、9件目の殺人事件だけは自分の犯行ではないと主張したのだ。裁判では榛村大和の犯行と認定されたのだが、その事件の被害者は唯一26歳と他と年齢が合わず、殺害の方法も他とまったく異なっていた。榛村大和は、自分が死刑になるのは当然だが、この1件が自分の犯行だとされている状況は納得がいかないと主張、雅也に調査してもらえないかと依頼してきたのだ。
雅也は、彼の話を信じたわけではないが、単なる興味から調べてみることにするのだが……。

というような話です。

僕は、この映画の原作を読んでいたのですが、基本的な設定以外はまったく何も覚えていませんでした。ストーリーが原作と同じなのかも判断できません。

映画はとにかく、阿部サダヲの存在感が圧倒的でした。完全に阿部サダヲで成立している映画です。ポスターの写真の「目に光がない感じ」が、榛村大和を演じる上で絶妙だと感じますが、全体的にも、「榛村大和という不可解な人物を、まさにそれ以外にはないという完璧さで演じている」と感じさせられるのです。

「こいつは連続殺人鬼だ」と理解した上で観ても、パン屋で働いているシーンの榛村大和は「とても優しい」人物に見えるし、一方で拘置所で雅也と話している場面では、「口にしている言葉は非常にまともなのに、そこはかとなく狂気を滲ませる感じ」が見事です。

拘置所のシーンでは、薄暗くて閉塞感のある環境もその印象を後押ししているとは思いますが、やはり阿部サダヲの演技が、「こいつは何をしでかすか分からない」という雰囲気を強く滲ませるのが凄いと思います。しかもそういう雰囲気を、「雅也を気遣ったり心配するような言動」から感じさせるわけです。かなり難しいはずですが、それをごく自然にやっているような感じがちょっと凄かったなと思いました。

ストーリー的に興味深かったのは、「雅也と榛村大和には思ってもみなかった関係があるかもしれない」と示唆されて以降の雅也の変化です。僕は、雅也に起こったような変化に対して共感できるわけではなく、というかむしろ「そんな変化が起こるんだ」と感じたが、雅也のそのような受け止め方は自分の中にはないものだったので非常に興味深いと感じました。これは、「自己肯定感が低い」という設定があるからこその面白さでもあって、なかなか上手くできているなと。

また、共感できた話で言えば、雅也がかつての榛村大和の家に入ろうとした時の場面です。そこで近隣住民に声を掛けられるのですが、その住民がこんなことを言っていました。

【ただ、もし彼が警察署から抜け出して「匿ってくれ」って言われたら、匿っちゃうかもしれねぇなぁ。俺、嫌いじゃないんだよなぁ、あの人のこと】

そしてこれに、雅也も「分かります」と返すのです。

この近隣住民は、当然「榛村大和が連続殺人鬼である」ことを知っているし、孫たちから「どうして隣に住んでたのに、あいつが殺人鬼だって気づかなかったんだ」と散々責められたと語っています。しかしそれでも、「隣に住んでたって人殺しだなんて気づかねーよ」と言うし、人殺しだと知った上で「匿う」と言っているわけです。

榛村大和の凄さはここにあって、相手が誰であっても「操ってしまう」「好きにさせてしまう」ような力があるわけです。

その理由の一端は、榛村大和の「自身がどう見られているかという感覚」の鋭さにあると感じました。榛村大和は言動の端々から、「相手から自分がどう見られているか」を的確に察知し、それに合わせて自らの「言動」を調整する能力がメチャクチャ高いのだということが伝わってくるのです。

そしてその雰囲気を、阿部サダヲが絶妙に醸し出すんですよね。ホントに上手い。榛村大和(阿部サダヲ)が口にすると、「口にしていることが全部本当であるように聞こえる」みたいな魔力があるのです。それはまさに、「相手との現状の関係性の把握」「その関係性において最も適切な言動のセレクト」が絶妙だからだと感じました。

阿部サダヲ、凄いなぁ。

あとはラストもぞっとさせる感じがあって見事だと思います。これは確か、原作のラストと同じだった気がします。榛村大和の狂気がいかに「伝染」していくのかを想像させる終わらせ方で、塀の内側にいながら、塀の外側にその「ヤバさ」を存分に染み出させる存在感が素晴らしいと思います。

あと、エンドロールに「岩田剛典」「赤ペン瀧川」って表示されて、「どこに出てきた?」と思って調べました。ってかマジで、岩田剛典、全然気づかなかった。映画見終わって、エンドロールに名前が表示されても、「あぁ、あの役が岩田剛典だったんだ」って気づかなかったんだから自分でもビックリでした。赤ペン瀧川も、「あれがそうか!」と調べて分かって、こちらもちょっとビックリですね。

榛村大和ほどではないでしょうが、彼のような「狂気」を内包した人物は世の中にそれなりにいると思います。気をつけようがありませんが、この映画のような可能性が僕らの日常にも存在し得るのだと知っておくことは大事だろうと思います。

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