【映画】「黒い司法 0%からの奇跡」感想・レビュー・解説

日本でも、ごく僅かではあるが、確定死刑囚が獄中から救い出されたことがある。この映画は、黒人弁護士が黒人の死刑確定囚を獄中から救い出した実話を元にした物語だ。日本はアメリカ同様、先進国では珍しく「死刑存置国」である。だから、他人事とは言えない。

ユーロスペースの「第11回死刑映画週間」で上映されていた映画で、上映後にトークイベントがあった。英語のデータをスライドにした大学の講義のようなトークイベントだったが、個人的には非常に面白いと感じた。映画の中身に触れる前にまず、そちらのトークイベントの話に触れていこう。

というのも、「なぜ黒人死刑囚を支援しているのか?」「なぜアラバマ州で活動しているのか?」など、映画を観ているだけでは理解できない外側の情報についても解説してくれていたからだ。

まず、アメリカにおける「死刑」の位置づけの歴史が非常に興味深かった。個別の話はなんとなく知っているものだったが、「それとそれがそう繋がるのか」と感じさせられた。

アメリカの歴史と奴隷制度は切り離せない。しかしある時点でアメリカでは奴隷制度は廃止され、表向き「白人と黒人は同じ権利を持つ」となった。

しかし、突然そんなことを言われたところで、人々がすぐに変わるはずもない。これまで黒人を下に見ていた白人の意識はそう簡単に変わるものではない。

当初は、いわゆる「ジム・クロウ法」と呼ばれる「あからさまに白人を優遇する法律」が様々に作られた。黒人には使用できない施設があるとか、バスの前の方には黒人は乗ってはいけないなどである。

しかし、奴隷制度が撤廃されたアメリカにおいて、このような状況が容易に実現したわけではない。当然、黒人の側は不満を溜め込む。そこで白人は、暴力・恐怖による支配を敷くことに決めた。それが「リンチ」である。

日本で「リンチ」と聞くと、「集団で個人をボコボコにする」ぐらいの意味だが、アメリカでは「白人が法的根拠なく黒人を暴力的に支配する」ことを指す。アメリカの歴史上、様々な「リンチ事件」が知られており、白人の暴力によって黒人が命を落としている。

しかし、その「リンチ」があまりに酷く、問題視されるようになっていく。そこで使われるようになったのが「死刑制度」だ。リンチを行えなくなった白人が、黒人を犯罪者として逮捕、起訴し、死刑判決を下すことでリンチの代わりとするようになっていったのである。

このような背景があるために、アメリカの刑務所には黒人が多い。別の背景として、「奴隷制度が廃止されたことによる労働力不足解消のため、刑務所が囚人をプランテーションや炭鉱に貸し出していた」という歴史もあるのだが、それについてはここでは触れないでおこう。

いずれにしても、アメリカの刑務所には黒人が多い。アメリカに住む黒人男性の3人に1人は、生涯で少なくとも1度は刑務所に入る、というデータがあるほどだ。

しかしこれは、アメリカ国民全体で見ても高い。アメリカ人男性の10人に1人は生涯で少なくとも1度は刑務所に入るし、白人だけに限ってみても17人に1人の割合だそうだ。

アメリカは囚人の数がとにかく多く、全米で220万人もいるそうだ。日本は5万人弱であり、アメリカの人口が日本の3倍であることを考えても異常に高い。アメリカ人は、世界人口に占める割合はたった5%にすぎないのに、世界中の囚人の中でアメリカ人が占める割合は25%にも達する。刑務所に使われる予算は全米で870億ドル(約10兆円)だそうだ。日本の国家予算が約100兆円なので、日本の国家予算の10%に相当する規模というわけだ。

そもそもアメリカ全体として、このような問題があるのである。

さらにその中でも、映画の舞台となるアラバマ州は、人口比で死刑の執行率が最も高い州なのだ。さらに、司法による人種差別が激しいことでも知られており、刑務所や死刑制度などにおいて様々な問題を抱えるアメリカの中においても、さらに問題が凝縮されている州なのである。

アメリカでは州によって法律が違い、既に死刑を廃止している州もある。全米で23の州が死刑を廃止したそうだ。残りの27の州は死刑を存置しているが、6州は死刑執行を停止している(モラトリアム)、8州がモラトリアムの宣言はしていないが実際に死刑執行を近年行っていないので、定期的に死刑が執行されるのは13州だそうだ。

さて、このように州によって死刑存置に違いが出ることで、興味深い調査も行える。それは、「死刑制度が犯罪抑止に役立っているのか」である。

そもそも「死刑」は、「重罪を犯すと自らの命が奪われる」という抑止力としてその存在意義が認識されるはずだ。しかしアメリカでは、死刑存置州ほど殺人率が高いことが明らかになっているという。30年間における様々な研究からも、「死刑には、社会の安全に対する抑止効果はない」と結論づけられているそうだ。

そうなってくると、死刑制度に存在意義があるのかを考える必要が出てくるだろう。実際、その背景には様々な事情があるそうだが、現にアメリカでは死刑判決も死刑執行も減少しているという。陪審員も死刑判決を避けたいし、検事も死刑求刑をしたくないのだ。「仮釈放なしの終身刑」という選択肢が生まれたことで、ますます「死刑を回避する傾向」に拍車が掛かっているそうだ。

また別の面からも死刑制度への疑問が突きつけられているという。それがコストの問題だ。死刑は不可逆的なプロセスなので、間違いがないようにすべてのステップが慎重に進められるように制度設計されているそうだ(この映画で描かれる1987年時点では恐らくそうではなかったのだろうが、徐々に整えられていったということだろう)。その結果、裁判期間は通常の4倍、裁判費用は通常裁判と比べて1件当たり1億円も多く必要になるそうだ。

確かにこんな風に説明されると、貴重な税金をそんなことに使っていていいのだろうか、となるだろう。

このような、アメリカにおける死刑制度の背景や現状が、データを元に語られていた。たぶんトークイベントだけで1時間ぐらいあったが(映画終了後のものとしてはなかなか長いだろう)、知らない話を知ることができてなかなか興味深かった。

さらにトークイベントでは、映画に出てくる「EJI」についても説明される。映画の主人公であるブライアン・スティーブンソンが立ち上げた「Equal Justice Initiative」という団体だ。映画では「死刑囚を支援する団体」として描かれるのだが、実はより広範な支援をしている。死刑囚の冤罪を証明して救い出したり、刑務所から出てきた元囚人の支援などはもちろんのこと、面白いと感じたのは「死刑が求刑されるかもしれない事件を担当する弁護士のためのマニュアル作成」なども行っているそうだ。

ブライアンが、死刑囚支援に熱心な白人女性と共に2人で立ち上げた「EJI」は、現在では150名以上のスタッフを抱える大所帯であり、年間予算も3700万ドル(約400億円)と凄い規模になっている。

そんな「EJI」を立ち上げたブライアンが、いかにして無実の死刑確定囚を獄中から救い出したのか。その実話を基にした物語である。

内容に入ろうと思います。
映画開始1分で、ウォルター・マクシミリアン(通称ジョニー・D)は死刑判決を受ける。自分で木を切りパルプの仕事を行っている黒人のジョニー・Dは、クリーニング店で18歳の少女ロンダが殺害された事件の容疑者として逮捕されてしまう。彼にはまったく身に覚えのない事件だったが、彼は流れ作業のように刑務所に送られてしまう。

この事件は、アラバマ州のモンロー郡史上最も凶悪な事件の1つとして住民を恐怖させていたのだが、州警察は1年もの間犯人を検挙することができなかった。恐らくそんな焦りもあったのだろう、白人の重罪犯に無理やり証言をでっち上げさせて、無実のジョニー・Dを逮捕したのだ。

それほど人々の記憶に残る事件だからこそ、この事件の扱いは困難を極める。住民はジョニー・Dが犯人だと思い込んで安心したいのであり、誰も蒸し返したくないのだ。

そんな火中の栗を拾ったのがブライアンだ。彼はハーバード大学を卒業した秀才なのだが、「困っている人の役に立ちたい」という思いから、わざわざ別の州からアラバマ州に引っ越してまで、無償で死刑囚の支援を行うことに決めた。学生時代に、囚人弁護委員会の使いとして同い年の死刑囚に会ったことも関係していた。自分と同じような境遇で生まれ育った人間が理不尽に囚われの身となっている現実をなんとかしたいと考えたのだ。

しかし彼の活動はのっけから躓く。協力者である白人女性が2年間の賃貸契約をしたはずの物件が一転拒否されたのだ。「死刑囚の相談のためなんかに使われちゃたまらない」というわけだ。その後も、「ジョニー・Dの件から手を引け」と脅迫を受けるなど困難は多い。

しかし最大の困難はジョニー・D本人だった。これまでも弁護人が面会に来ては力になると言ってきたが、どいつもこいつも何もしない。そいつらとお前は何が違うんだ? とブライアンを不審の目で見るのだ。

そんな、まさに「孤軍奮闘」としか言いようのない状況で、ブライアンは活動を始める。なんにせよまずは「再審請求」を通さなければならないが、その鍵を握るある黒人の証言者を警察が「偽証罪」で逮捕するなど妨害が続き……。

というような話です。

良い映画でした。「ブライアンがジョニー・Dの無罪を勝ち取る」という展開はもちろん容易に想像がつくわけで、後はそれをどう成し遂げるのかという話なのだが、モンロー郡での「あからさまな妨害・脅迫・非協力」に驚かされる形になった。

こういう話に触れる度に僕が不思議に思うことは、「人間はそんなにあっさりと良心を手放せるものなのか」ということだ。モンロー郡の住民は、まあある程度仕方ないと思う。「裁判は正しく行われているはずだ」と考えるのがまあ一般的な市民としては普通の感覚だろうし、「遺族のためなら協力するが、死刑囚のためには何もしたくない」という感覚も分からないではない。

ただ、保安官や警察、検事などはどうなんだろうと思う。彼らは「明らかな不正」を行い、ジョニー・Dを刑務所にぶち込み、死刑囚に仕立て上げた。そのことに、一切良心が傷まないものだろうか? もちろん、悪虐な人間はどこにでもいるものだが、すべてそういう人間なわけではないはずだ。自分が直接的にその悪虐さを発揮しているのでなくても、その気配を周囲で感じたら、何も動かないことに良心が咎めないものだろうか?

映画の中ではほんの一瞬しか映し出されないが、良心に沿った行動を取った人物も出てくる。ロンダの事件現場に最初に駆けつけた警官は、後に「死体の状態について虚偽の証言をしろ」と言われたそうだが拒否、すると警察を止めさせられたそうだ。ここでも、あからさまに恐怖で支配しているわけで、それを知って行動に移せなかったというものももちろんいるだろう。

しかし、やはり人間の命が掛かった問題だ。明らかな不正に対して、沈黙し続けられるものだろうかと感じさせられてしまう。

いや、やはりそんなレベルの問題ではない。ブライアンがアラバマ州刑務所で死刑囚たちと面会した際、彼らは驚くべき証言をするのだ。

【裁判はたった45分で終わった】
【「犯罪者は死刑でいい」と判事は笑っていた】
【証言する機会も与えられなかった】
【有罪かどうかは顔で分かる】

中でも凄いと感じたのはこの話だ。

【犯人はニガーだ。だから、お前が無実でも、ダチのために犠牲になれ】

もちろんこれは、黒人に対する人種差別と関わる問題であり、だから余計に難しい。権力を持つ者がその権力を不当に行使すれば、なんだってできてしまう。

この映画の原題は『JUST MERSY』であり、トークイベントの中で「公正な慈悲」と直訳していた。たとえ犯罪を犯した者であったとしても、この「公正な慈悲」は与えられるべきだし、その実現に向けてブライアンは闘ったのだ。

【それは法ではない。
そして、正義でもない。】

ブライアンは、理想を実現するために社会の中でできることをしたいと思ってハーバード大学を出てきたが、理想だけではダメだとジョニー・Dの件で実感した。そこには、強い信念と希望も必要なのだ。

そんな、信念と希望の物語である。

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