【映画】「名付けようのない踊り」感想・レビュー・解説
少し前にこんなことがあった。テレビで「衝撃映像」を見て、スタジオでゲストがコメントを言う番組を見ている時のことだ。
外国で、水没した道路で立ち往生している車を見つけたトラクターの運転手が、水没した車までトラクターで近づいていって、子どもを含む4人家族を救助する、という一部始終が映像で流れた。その映像を見た誰か(確かバカリズムだったと思う)が、「これを自撮りしてるっていうのが、なんかちょっと嫌だよね」とコメントしていた。
あぁ、分かるなぁ、と思った。
そう、その救助の映像は、トラクターの運転手が片手でスマホを持って撮影しているのだ。トラクターの運転手以外にも何人か人手はいて、だからスマホで撮影しながらでも救助ができたのだ。
映画を見ながら、このことを思い出した。
ダンサーの田中泯は、フランスで大ブレイクを果たす以前、モダンバレエの教室に通っていたそうだ。そして、その稽古場で踊っている時、鏡が凄く嫌だったと言っていた。
【向こうに映っている自分に支配され、囚われているように感じてしまった】
同じ頃、田中泯は、「”私”を表現しろ」「個性を出せ」とも言われていたそうだ。しかし、
【「私を表現する」ということに、どうにもピンとこなかった】
とも言っていた。
その後彼は、土方巽という人物と出会い、「これまで数多くの人間が生きてきた。『私』や『個性』なんてものは、過去のどこかに必ず存在する」と言われ、気が楽になったそうだ。
それから田中泯は、「野良仕事で身体を作り、その身体で踊る」と決めた。40歳のことだった。
【ダンサーは、ダンスを目的に身体を作ってしまう。私は、その身体で踊ることは違うと思った】
この辺りから、非常になんとなくではあるが、「田中泯の踊り」がなんとなく理解できてきたような気がする。その後で、
【芸術になる以前の踊りを探したかった】
とも語っており、自分の中で少しずつ焦点が当たっていく印象が強まっていく。
田中泯の踊りを見て、分かるのかどうかと言われれば分からない。凄いかどうかも分からない。ただ、田中泯がやろうとしていることは、なんとなく分かるような気がする。
それを、「ダンス」と「踊り」と言葉を分けて説明してみたいと思う。バレエやヒップホップなどなんらかのジャンルに収まるものを「ダンス」、そしてなんのジャンルにも収まらない田中泯のものを「踊り」と呼ぶことにしよう。
「ダンス」にも「踊り」にも「正解がない」ことは共通している。しかしそれは、「身体を動かす以前」の話だ。身体を動かした後、両者には差が出る。
「ダンス」をした後には、それが「正解かどうか」は判定される。もちろん「正解」とは呼ばれない。しかし「カッコいい」「決まってる」などの表現でダンスは評価されるはずだ。それはつまり、「カッコ悪い」「決まってない」という評価もあるということであり、「カッコいい」「決まってる」と評価されることを便宜上「正解」と呼ぶことができるだろう。
しかし、「踊り」は違う。田中泯の「踊り」は、どんなジャンルにも分類されないし、踊った後でさえ、正解も不正解もない。田中泯の「踊り」を見て、「あそこが違う」「あれは間違いだよ」ということはできない。「踊り」を囲い込むような「枠組み」が存在しないのだから、「何かの内側にあるか外側にあるか」によって正解・不正解を判定するようなものではない。
もちろん、「イケてないよね」という評価はあり得るだろう。しかし田中泯の「踊り」の前では、それは「個人の感想」になってしまう。絶対的な評価基準の存在し得ないものなのだから、それを見て誰が何を感じようが、それはすべて「個人の感想」でしかない。
そしてだからこそ、なんとなく、田中泯の「踊り」は安心して見ていられる。正解でも不正解でもないということは、「評価することによって自分が評価される」という状況を回避できる。「分からないことが正解」という存在として受け止めることができる。
田中泯の「踊り」を見て「分からない」と感じることに劣等感みたいなものを感じずに済むのは、そういう理由があるからではないかと感じた。
そしてこの違いは結局、「何のためにダンスする/踊るのか?」の違いなのだとも思う。
以前観た『蜜蜂と遠雷』という映画の中で、こんな感じのセリフがあった。
【野原にピアノが置いてあれば、世界中に僕一人しかいなくたって、僕はきっとピアノを弾くよ。】
この言葉を発した人物は、「観客のためとか、コンクールのためとかではなく、自分が弾きたいからピアノを弾く」というスタンスを明確に持っている。
田中泯にも、似たようなものを感じる。彼は、世界中に誰一人いなくなっても、踊るのではないかと思わされる。
「ダンス」の場合はどうだろう? もちろん、世界に自分しかいなくてもダンスする、という人もいるかもしれない。しかしやはりそこには、「誰かに見せる」「誰かに評価してもらう」という「他者」の存在を感じさせられる。そしてそれが、「救助シーンを自撮りしている運転手」のような違和感になってしまう。
もちろん、こんな風に映画の感想を書いている僕にしても、「誰かに読んでもらうこと」を想定しているだろうし、世の中に存在するありとあらゆる表現が「他者」の存在をある種前提にしていると思う。全員でそういう「違和感」の中にいるから普段は気づかないでいられる。しかし田中泯のように、「他者の存在を必要としないと感じさせる表現者」の存在に触れたことで、自分が生きている世界の違和感に気付かされることになるのだ。
映画を観ながら、連想した人物がいる。世界的数学者の岡潔だ。
彼は「多変数函数論」という分野における3つの超難問をたった1人で解決した。そのあまりの偉業に、ヨーロッパでは1人の数学者によるものとは当初信じられず、「岡潔」という数学者集団が存在すると考えられていたほどだ。
この岡潔、数学研究と畑仕事しかしなかったことで知られている。彼が「多変数函数論」の研究成果を発表した際、日本国内でもまったく無名の数学者だった。それもそのはず、30代後半から故郷の和歌山県紀見村に籠もり、畑仕事の合間に数学研究をするという生活を続けていたのだ。そして、その紀見村での研究中に、世界中の数学者がまったくお手上げ状態だった難問を次々に解決していき、世界的にその名が知られることになった。
なんとなく、田中泯に通じる部分があるように感じた。
踊りと数学という違いはあるが、田中泯も岡潔も、「本質を突き詰めるために、どのように生きるべきか」を考えている。
田中泯のこんな言葉が印象に残っている。
【私がやっていることが、一応踊りだということになっています。ただ私は、見ている人と私との間に踊りが生まれることが理想です】
別の場面でも、
【踊りは間に生まれていく】
と言っていた。彼にとって「踊り」とは、「身体を動かしている人物に属するもの」ではなく、「その周辺のものとの関係性」として捉えられているということだ。
岡潔の有名な言葉に、こんなものがある。
【数学の本質は、「計算」や「論理」ではなく「情緒の働き」だ】
「情緒」とは、「何かの対象に向けられる感情」ぐらいの捉え方でいいでしょう。つまり岡潔も、「周辺のものとの関係性」を重視していたというわけだ。
そして両者とも、その実現のために「野良仕事」「畑仕事」に従事していた、というのが興味深い。やはり、「自然から何かを感じ取る」ということの重要性を肌感覚として理解していたのではないかと感じさせられる。
映画のタイトルにもなっている「名付けようのない踊り」という言葉は、哲学者ロジェ・カイヨワからのものだそうだ。
1978年にパリで踊りを披露したことで一躍有名になった田中泯には、様々な「甘い誘惑」が舞い込んだそうだ。「完成品としての踊りを持てば、20年は生きられる」「パリに踊りの学校を作れば、流派が生まれる」などだ。それらを田中泯は、
【嫌悪の極み】
と表現していた。
そんな彼が、「この人には踊りを見てもらいたい」と希望した人物がいる。それがロジェ・カイヨワだ。田中泯はロジェ・カイヨワの『遊びと人間』という著作に惚れ込んだのだという。正確には覚えていないが、『遊びと人間』の中でロジェ・カイヨワは、「遊びとは本質的には無駄なものでしかない」みたいなことを書いているらしい。
ロジェ・カイヨワと連絡を取り、「窓からエッフェル塔が突っ込んでくる」ような部屋で踊りを披露した後で、彼が、
【永遠に、名付けようのない踊りを続けて下さい】
と評したそうだ。これは、「完成した踊りを持つ」「学校を作って流派を生む」などとは対極にある提言だろう。この言葉を受け取った田中泯の感想については触れられなかったが、恐らく、この言葉こそが彼を現在まで進ませる原動力となったのではないかと思う。
あとこれは、田中泯に限らず、何かを表現する人すべてに対して感じることだが、「彼らにしか見えていない、感じられないものがあるはず」という感覚に羨ましさを感じることがある。
【世界にあるたくさんの速度が、一斉に押し寄せてくる】
僕は芸術的なもの全般に素養はないが、「自分とはまったく違う世界の中で生きている人なのだろう」とはいつも思っている。ゴッホやピカソは、もしかしたら本当に世界があんな風に見えているのかもしれない。「場踊り」をする田中泯には本当に、僕らには感じ取れない「土地の感情」みたいなものが届いているのかもしれない。表現方法は人それぞれだが、「見えない人、感じられない人にも、それが伝わるように可視化してくれる人」が「芸術家・表現者」だと思っているし、自分がそっち側にいられないことを残念に感じることもある。
【脳みそが深海に沈んでいきそうな感じ……幸せだ】
懇親の踊りを披露した74歳の田中泯は、ポルトガル・サンタクルスの街角でそう呟く。
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