【映画】「アンダーカレント」感想・レビュー・解説

僕がこれまで観た今泉力哉作品を観た順に書くと、『窓辺にて』『ちひろさん』『街の上で』、そして『アンダーカレント』となる。そして本作『アンダーカレント』は、僕が観た4本の中で、最も「何かが起こる物語」だったと言っていいだろう。今泉力哉作品はとにかく「何も起こらない」ことが多いので、そういう意味では他の作品と少し違いはある。

ただ、あくまでも他と比べればというだけであって、『アンダーカレント』も特別何か起こるような物語というわけではない。ただ、「夫が慰安旅行中に蒸発したまま戻ってこない」という設定が、他の今泉力哉作品と比べれば「何か起こっている」という感じがするし、まあその程度の意味合いである。

他の今泉力哉作品との比較をもう少しするなら、これまでの3作を観た時僕は、「メインの登場人物に異様に共感する」という経験をしてきた。『窓辺にて』だったら稲垣吾郎の役、『ちひろさん』なら有村架純の役、『街の上で』の場合は若葉竜也の役が女子大生と話続けるシーンに、それぞれメチャクチャ共感できてしまった。

しかし『アンダーカレント』で僕は、恐らく一般的な感覚とは大きく異なると思うが、決してメインとは言えない人物にメチャクチャ共感してしまった。ただ、あまり具体的に書きすぎると作品全体にとってあまり良くないと思うので、この記事ではセリフだけに触れ、人物や状況にはあまり触れないことにする。

僕が一番共感してしまったセリフは、次のようなものだ。

『他人がなんて言ってもらいたいか分かるんだ。で、それを与えることが出来る』

映画を観たほとんどの人が、このセリフに共感することは恐らくないだろうが、僕は「分かるな―」と感じてしまった。

僕も、20代前半ぐらいまではそんな風に、つまり「誰かが望む自分で居続けるために、自分の存在を調整する」みたいな生き方をしていた。そういう生き方の方が「楽」だったからだ。

子どもの頃のことはもうほとんど覚えていないのだけど、ただ僕の感覚としては、小学生ぐらいの頃にはもう、「周りからの見られ方に対してどう振る舞うか」みたいな生き方をしていたと思う。少なくとも、親に対してはそんな感じでずっと接していたような記憶がある。親でも学校の友だちでも先生でも、「きっとこんな風にしてほしいんだろうなぁ」みたいなことは容易に理解できたし、「そんな風に求められてるならそれでいっか」ぐらいの気持ちで自分の振る舞いを決めていたと思う。

っていうか、子どもの頃は、「みんなそういうことが分かるんだろう」みたいに認識していたんじゃないかと思う。成長するに従ってだんだん、「そうか、普通の人は、周りの人が望んでいることをそんなには理解できないものなのか」ということが分かってきたような感覚もあった。女性は割と、「生存戦略」的な意味もあって、「他人からの見られ方」に敏感でなければならないという感覚を持っている人が多い気がするが、男ではあまり一般的ではないようだ(少なくとも、僕が子どもの頃はそうだったと思う。今の、いわゆるZ世代と呼ばれるような人たちはまた違うと思うけど)。

そんな風に僕は、「周りがそう望むならまあそんな感じでいいや」みたいな、主体性をほぼ持たないような生き方をしていた(と思う)のだけど、まあやっぱり、そんな風に生き続けるのは無理だったんだろう(単に、僕の能力が低かっただけかもしれないが)。大学時代ぐらいで、自分の中で「こりゃあ無理だな」と破綻を感じ、そこから自分なりに大分荒療治を施して、今では真逆、つまり、「周りからどう見られてても、まあ無視だな」みたいな生き方になった。

そういう、「周りからどう見られてても、まあ無視だな」みたいな生き方も、正直、色々面倒なことはある。ただ僕の場合、能力という意味で言えば、「周りがどうして欲しいと想っているのかを察知する力」はまだ持っているし、だからそういう能力を上手く織り交ぜてハイブリッド的にやっていくと、そこまでメチャクチャ面倒くさいことにはならずに済んでいる(と思う)。今は、自分のこのスタイルは、悪くないなと考えている。

今の自分のスタイルと重なるわけではないものの、昔の自分がまさにドンピシャだったので、『他人がなんて言ってもらいたいか分かるんだ。で、それを与えることが出来る』というセリフには、「分かるわー」と感じてしまった。

自分がそんな人間だったこともあるのだろう、僕は「他人のホントウ」を知ることに、とても関心がある。いや、もう少し正確に表記しよう。正しくは、「『他人のホントウ』を知ることが出来たという実感を得ること」に関心がある。結局のところ、僕の目の前に現れた「それ」が「ホントウ」であるかどうかなど、確信しようがない。ただ、様々な状況証拠などを組み合わせて、「これがきっと『ホントウ』なんだ」と、心の底から実感できる機会というのは度々ある。そういう瞬間が、僕はとても好きだ。

だから、映画のかなり早い段階で、主人公の関口かなえが口にするこんな実感にも、強く共感できてしまった。

『もちろん、『夫がいなくなった』っていう事実も辛かったけど、今何が一番辛いかって、彼にとって私は本当に気持ちを話せる相手じゃなかったんだってこと。ずっと一緒にいたのになぁ、って考えちゃう。』

そうだよなぁ、メチャクチャ分かるなぁ、と思う。僕も、例えばそれなりに長く関わった人が突然自分の元から離れてしまうようなことがあれば、同じように感じるだろう。「離れてしまったこと」以上に、「話し相手にはなれなかったんだなぁ」という後悔の方が強く出ると思う。

作中に登場する探偵が、かなえに対して、「人を分かるってどういうことですか?」と問いかける場面があるのだけど、確かにその通りという感じはある。誰かのことを「完全に分かった」なんていう状態に達することはあり得ないし、本当にそんな風に感じている人がいるなら、それは単なる錯覚でしかない。

しかし、さっき書いた通り、「『他人のホントウ』を知ることが出来たという実感を得ること」は出来る。確かにこれも錯覚だ。ただ、すべては無理にしても、その人のある一面だけは細部まで完全に分かってしまった、みたいな感覚は、確かに存在する。もちろん勘違いかもしれないし、というかそもそも、人間はどんどん変わるものだから、その瞬間の理解が正しかったとしても、それが永遠に続くとも限らない。

しかしそうだとしても、僕は、「他人のホントウ」をこれからも知りたいと思うし、それを知ることが出来るような存在であり続けたいと思う。もはや僕が「生きたい」と感じる動機は、ほとんどそれぐらいしか存在しないのだ。

そういう意味でいうと、今泉力哉作品はまさに、「『他人のホントウ』を知ることが出来たという実感を得ること」が出来る作品と言えるだろう。たぶん僕は、彼が作る作品のそういう点に惹かれているのだと思う。

それが映画でも小説でもなんでもいいが、「作中の登場人物」の「発言」が「ホントウ」かどうかなど判断しようがない。うろ覚えの記憶だが、以前小説家の森博嗣も同じことをエッセイに書いていたような記憶がある。「小説の読者は、登場人物の発言を『本当のことを言っている』と無条件で捉えがちだけど、別にそれが嘘だとしても全然おかしくはない」みたいな内容だったと思う。それがミステリや恋愛であれば、「登場人物は嘘をついているかもしれない」みたいに疑って掛かることもあるだろうが、そうではない作品の場合、そうは捉えない。登場人物が「好きな食べ物はリンゴです」と言えば、「リンゴが好きなんだ」と判断するだろうが、しかしそれが嘘である可能性だって十分にあるのだ。

ただそもそも、「登場人物は本当のことを口にしているはずだ」と無意識に考えるからこそ、「この登場人物は本当のことを言ってるんだ!」なんて感じることもないだろう。それは大前提として物語というのは紡がれることが多いのだから、そんな感覚を与えるように作られてはいない、と言ってもいいかもしれない。

しかし今泉力哉作品はそうではない。そもそも登場人物のセリフが少ないこともあるが、何よりも「何を考えているんだか良く分からない人物」が主人公であることが多い。昨今、「共感すること」の欲求が強いはずなので、「何を考えているんだか良く分からない人物」を主人公に据えることはリスキーなはずだが、僕が観たことのある今泉力哉作品は大体、主人公やその周辺の人物の存在が謎めいている。

そしてだからこそ、作品の展開の中で、「『他人のホントウ』を知ることが出来たという実感を得ること」が実現し得るのだと思う。そういうところが好きなんだな、きっと。

内容に入ろうと思います。
関口かなえは、家業である銭湯「月之湯」を長く閉めていた。夫である悟が、ある日突然蒸発してしまったからだ。銭湯組合の旅行でお土産屋さんに寄ったのを最後に、誰も彼の姿を見ていないという。しかし、失踪から1年ほどが経ち、いつまでもこうしてはいられないと、再開を決断する。
最初こそ、昔から番台を手伝ってくれていたパートのおばちゃんと2人で始めたものの、やはり手が足りない。そんなある日、銭湯に隣接するかなえの家に、1人の男がやってきた。銭湯組合から紹介されて来たという堀と名乗る男性は、この銭湯で働きたいとやってきたのだ。住み込みだと思って来たそうで、とりあえずかなえは彼を、アパートが見つかるまでということで部屋の一角に住まわすことにする。無口だが、仕事ぶりは熱心で、未だに薪で焚いている月之湯にとっては貴重な戦力である。
ある日かなえは、大学時代の友人とスーパーでばったり遭遇する。よう子とはそのままお茶することになったが、同じ大学のゼミだった悟の話が出たことで、かなえは蒸発の話を彼女に告げた。するとしばらくして、夫の友人に探偵がいるからと紹介してくれた。現れた探偵は実に胡散臭い人物だったが、とりあえず3ヶ月間、夫の調査をしてもらうことにした。
かなえには、時々見る夢がある。池の近くで、誰かに首を締められている夢だ。堀さんと所要で出かけることになった帰り道、その夢の話をするのだが……。

さて、他の作品と比べれば「何かが起こる作品」であるとはいえ、やはり今泉力哉作品らしく、これと言って特別なことは起こらない。なのに、やっぱり見させられてしまうという感覚がとても強い。

観ながら、「これは映画である以上避けがたい」と感じたのは、悟を演じたのが永山瑛太だったので、「悟の失踪について、何らかの展開がある」ということが、早い段階で分かってしまうこと。ホント、これはどうにもならないよなぁ。北欧とか中東など、「日本人が知っている役者が誰も出てこない物語」の場合にはこういう問題は生まれないのだけど、「日本人が邦画・ハリウッド映画・韓国映画を観る場合」にはなかなか避けがたい。これが、小説やマンガと、映画との、物語における大きな違いだなぁ、と改めて思う。

あと、メチャクチャどうでもいいことなんだけど、かなえの友人・よう子を演じたのが江口のりこだって途中で気づいてマジでビックリした。登場シーンからずっと、「どこかで見たことある顔だよなぁ」とは思っていたんだけど、全然ピンと来ていなかった。でも、中盤過ぎぐらいに、「あれ? もしかして江口のりこか?」と思い、その瞬間、「そういえば、『アンダーカレント』に真木よう子の親友の江口のりこが出るとかなんとか、そしてその『親友』っていうのを江口のりこが否定した、みたいなネット記事を読んだな」と思い出した。

いやー、それに気づいた時にはホントに驚いたなぁ。マジで途中まで、まったく認識出来ていなかった。江口のりこってなんとなく、「嫌味で厳しい役」を演じることが多い印象があるなら、メチャクチャ柔らかい雰囲気の「菅野よう子」とは繋がらなかったんだな。ホント、1人で勝手にそれに気づいて驚いてた。あー、ビックリ。

なかなか素敵な作品でした。やっぱりいいですね、今泉力哉。

この記事が参加している募集

映画感想文

サポートいただけると励みになります!