オウム25年⑤完 アクリル板越しの出遇い 鈴木君代さん(真宗大谷派)
※2020年4月18日号のインタビュー特別編を再構成しました。
真宗大谷派(東本願寺)宗務所に勤務する同派僧侶の鈴木君代さんは、元オウム真理教幹部の井上嘉浩元死刑囚と、2018年7月に死刑が執行されるまでの10年間、交流を続けてきた。同じ京都・太秦で育ち、若い頃から悩みを抱えた同世代の二人。「もしかしたら京都の道端ですれ違っていたかもしれない」「面会室のアクリル板の向こうにいたのは、私だったかもしれない」。鈴木さんは、井上元死刑囚の存在やカルトに入信する若者の存在が、ひとごととは思えなかったという。
私であるあなたへ
鈴木さんは、「『生きて罪を償う』井上嘉浩さんを死刑から守る会」の会報『悲』第4号(2008年8月発行)に、ある文章を投稿した。それを読んだ井上さんから「一度、お会いしたい」と手紙が届き、交流が始まった。
鈴木さんは、幼い頃に両親が離婚したため叔母の養女となり、二人の弟と共に叔母に育てられた。複雑な家庭環境からか、幼少期から情緒不安定な面があった。もがきながら「自分は何のために生まれてきたのか」と道を求め、人を求め、寺院を訪ねて歩いた。
『悲』には次のような内容の文章を投稿した。
《私はたまたま親鸞聖人の仏教に出遇えたことで、悩みながらも、歩ませてもらっています。どんな人に出遇ったか。人はその出遇いによって一生が決まるといっていいかと思います。誰もが、出遇おうとしても出遇うことのできない苦しさ、押し寄せてくる不安、どうしようもない孤独感とともにいます》
《もう一度、出遇えなかった人に、生きて遇ってもらいたい。どこかですれ違っていた私であるあなたに、死んでほしくないと同時に、一生背負っていかなければならない人殺しを誰にもしてもらいたくない。生きて大切な誰かと出遇ってもらいたい》
井上元死刑囚は高校2年のとき、「何のために生まれてきたのか」という深い悩みを抱え、オウム神仙の会(後のオウム真理教)の本を偶然手に取った。鈴木さんもまた、幼い頃から暗い闇の中で、どう生きればいいのか分からず、悩み続けていた。
「寺は風景でしかなかった」
日本中が震撼した1995年の地下鉄サリン事件で大きく取り上げられたのが、元信者の「寺は風景でしかなかった」という言葉だった。
長い年月で、お寺は本来の姿を見失ってしまったのではないか。真実の教えを伝えることに真摯に向き合っているのか。社会のさまざまな問題に対峙する姿勢を持たないお寺は、もはや「寺」と呼ぶことさえできないのではないか―。「今も私のこととして迫ってくる言葉です」と、鈴木さんは言う。
鈴木さんは高校生の頃から東西本願寺のお晨朝に毎朝のように参加し、さまざまな僧侶の法話を聞いた。中でも、後に師となる和田稠氏の法話に感銘を受け、「親鸞聖人の仏教に生きていきたい」と思った。
「『何のために生まれてきたのか』を、仏教の大学なら学べる」。そう考えて大谷大学文学部哲学科に入学し、アルバイトで学費を賄いながら通った。
ただ、当時はアルバイトだけで精いっぱいだった。卒業はしたものの、「親鸞聖人の仏教を勉強できなかった」との思いから、宗派の職員になれば勉強を続けられるかもしれないと、真宗大谷派の宗務所に就職した。そして仕事をしながら学びを深め、僧侶となった。
優しく純真で、16歳のまま
井上元死刑囚との初対面は2009年3月。「よく来てくれました。ありがとう」と礼儀正しくお辞儀をされた。オウム真理教の幹部という社会が作りあげたイメージには、似つかわしくなかった。
「あなたには、本当に出遇うべき人に出遇ってほしかった」。そう伝えたいがために東京拘置所に赴いたが、会話は故郷のことから始まった。
「優しく純真で、16歳のままのような人でした。近所の広沢池を愛犬と散歩していたことなど、お互いが知っている土地のことを話し、すごく近しくなりました」
その後も面会は月に1度ほどのペースで続き、週に3回は鈴木さんの元に手紙が届いた。面会室の20分という限られた時間で、井上元死刑囚は「きょうは顔色が悪いけれど、大丈夫?」と鈴木さんの体調を思いやり、励まし、自らが学んだ仏教のことや、鈴木さんが差し入れで送った和田稠氏の本のことなどについて話した。
「井上さんはオウムの本を手に取り、私は和田先生に出遇った。もし出遇った人が違っていたなら、私が拘置所にいたかもしれません」
井上元死刑囚が逮捕されて、最初に母親に差し入れを求めた本は『大蔵経』だった。拘置所で漢文の『大蔵経』を翻訳していたという。
「私への手紙には、妙好人(浄土真宗の在俗の篤信者)の言葉や『華厳経』『涅槃経』『法句経』の内容を書き示し、誕生日にはお母さんを通じて『法句経』の本をプレゼントしてくださった。これほどまで仏教を勉強している人でも、陥る闇があることを知りました」
面会室で似顔絵デッサン
2010年1月、死刑が確定してからは、限られた人しか面会に行けなくなった。鈴木さんは、面会を許された数少ない一人だった。
1995年7月に始まったオウム事件関連の刑事裁判は、2018年1月20日に終結した。いつ死刑執行があってもおかしくない状況になり、この年の3月14日、井上元死刑囚は大阪拘置所に移送された。
「井上さんは毎日、自分の犯した罪の重さに苦悩し、懺悔(さんげ)していました。『二度と救済の名の下に、同様の事件が起きませんように』と言い続けていました」
自分たちと同じように悩みを抱えた若者たちが、カルトに向かわないように。悲劇を繰り返さないために―。鈴木さんは、井上元死刑囚には人間の業についての語り部になってもらう使命がある、と信じていた。
京都に住む鈴木さんは、東京拘置所のときよりも頻繁に面会に行けるようになった。
あるとき、知り合いの記者から「井上さんは今、どのような顔をしているのですか」と尋ねられた。テレビで映し出されるのは、オウム真理教の信者だった頃の写真や映像ばかり。「似顔絵を描いてきてくれませんか」と頼まれた。
幼い頃から絵を習っていた鈴木さんは、大阪拘置所の面会室で、デッサンをした。井上元死刑囚は「笑った顔は心証が悪いから」とちゃかし、和やかな面会になった。
「東京と大阪とでは刑務官の雰囲気も違っていた。大阪の方が気さくで、私の描いたデッサンを見せると、『似ていますね』と言ってくれたり、私が部屋から出るときに、井上さんに『見送ってあげなさい』と声を掛けたりしていました」
これが5月のことだった。翌6月の面会が、最後になった。
法名「釋遇光」に込めた思い
7月6日午前、死刑が執行された。テレビのニュースで一報を知った鈴木さんは、血の気が引いてその場に座り込んだ。
井上元死刑囚の母親から電話があり、一緒に遺体を迎えに行くため、車で大阪拘置所に向かった。西日本豪雨の影響で、高速道路は通行止め。普段なら40分ほどで行けるところを、4時間以上もかかった。
刑務官から事務的な手続きの説明を受けた後、遺体と対面した。
「ついこの間まで、少年のように『次の面会はいつ?』とニコニコ私に話しかけていた人が、白木のお棺の中に目を閉じて横たわっていました。アクリル板を通してしか会ったことのなかった私は、冷たくなった頬に泣きながら触れ、涙するお母さんの傍らに、ただいることしかできませんでした」
通夜と葬儀は真宗大谷派の岡崎別院(京都市左京区)で営まれた。7日に営まれた通夜の導師は鈴木さんが務め、井上元死刑囚の法名も付けた。
「井上さんは、人との出遇いを本当に大切にしている人で、『光』や『遇う』という言葉が好きでした。それで、法名は釋遇光としました」
両親が遺影の写真を探したが、18歳までの写真しかなかった。父親が、拘置所の面会室で鈴木さんが描いた似顔絵を見て、「遺影にしよう」と提案した。鈴木さんは急いで画材店に行き、井上さんが好きだった空色を施して、額に入れた。
「人からは『井上さんは最期に鈴木さんと出遇えて、幸せだったと思うよ』と慰めの言葉を掛けていただきます。でも、それはむしろ私の方でした。面会に行くと必ず、『よく来てくれたね。ありがとう』と深く頭を下げ、世界中で誰よりも私を待っていてくれました。そのことに、私自身が支えられていたのです」
「死」から始まる出遇い
和田稠氏が「人間は死んで終わりではない。そこから始まる出遇いがある」と語っていたことを、鈴木さんは覚えている。
「井上さんの存在は亡くなって終わりではありません。彼の生きざまや死にざまを通して、カルトに走る若者を救うことができれば、恩返しになると考えています。彼も『僕が話したことは、誰に言ってもいいからね』と話していました」
もう井上元死刑囚から手紙は来ない。そう思っていたところ、未検閲で封印されていない7月5日付の手紙が、遺品の中から見つかった。執行当日に出そうとしていたものだった。
便箋4枚の最後には、こうあった。「7月7日、七夕ですね。いのちの大空に、七夕の星々が輝いています。いのちの大空の下、いつも一緒です。ありがとう ありがとう 大丈夫 大丈夫」
井上元死刑囚の手紙の末尾には、いつもカタカナで「ナム」と書かれていた。和田稠氏が手紙の最後に「ナム」と書いていたことを、鈴木さんがまねして書くようになり、それを井上さんも倣うようになった。
「井上さんは和田先生と遇ったことがないけれど、私を通して遇い、思いを返してくれた。罪を犯す人は、特別な人ではない。井上さんは普通の人以上に純真でした」
鈴木さんは井上元死刑囚の両親と交流を続け、今年の春彼岸にもお参りをした。実家にはご遺骨と、鈴木さんが贈った三つ折り本尊、そして拘置所でデッサンした似顔絵が今も飾られている。
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鈴木君代(すずき・きみよ) 京都市生まれ。真宗大谷派僧侶・シンガーソングライター。真宗大谷派宗務所勤務。10歳からギターを始め、京都市内のライブハウスや全国の寺院で演奏活動を行っている。
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