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仕事をする意味についてサン=テグジュペリ「人間の土地」を読んで考えた

「星の王子さま」の作者として有名なフランス人作家サン=テグジュペリ(1900-1944)が、飛行機乗りの仕事を始めたのは26歳のときだった。第一次世界大戦後、大陸間で郵便物を送る郵便飛行サービスが誕生し、そのパイロットとして採用されたのだ。

当時、飛行機乗りは死と隣り合わせの職業だった。今と違ってGPSもないため、自分がいまどこを飛んでいるのかは勘と経験を頼りに推測するしかなかった。飛行機乗りたちは自分たちの操縦を惑わす雲や風や、不意に現れてくる高い山々を征服しようと戦っていた。

「人間の土地」は、サン=テグジュペリが飛行機乗りの職務を全うするなかで得た経験をもとに、「人間を人間たらしめるものとは何か」を語った本である。それは一言で言えば、「意味」だ。

「人間の土地」を読んで、私たちの仕事の意味について考えた。

人間は、自らの役割を認識して初めて「人間」となる

「人間を人間たらしめるものは何か」について、サン=テグジュペリは「自分たちの役割」という言葉で語る。それが、次の箇所だ。

たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは、幸福になりうる、そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことができる、なぜかというに、生命に意味を与えるものは、また死にも意味を与えるはずだから。
(『人間の土地』p202、堀口大學=訳)

自分の「役割」を自覚することによって、はじめて周囲と重厚な関係を築くことができる。そして、求められたその役割を果たすことによって、自分が重厚なつながりの一員となり、幸福を感じられる。

そして、サン=テグジュペリがこの本を通じて言いたかったことは、この本の一番最後の一文にあらわれている。

精神の風が粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる
(『人間の土地』p261、堀口大學=訳)

人間はもともとただの粘土である。意味を認識するという「精神の風」が吹いてこそ、「人間」は生まれる。

飛行機乗りたちが愛した仕事とその責任

飛行機乗りたちは自らの仕事を愛した。おそらく、未知の大空を飛ぶ自由があったからかもしれない。ただしその自由は、死と隣り合わせだった。

雲はいまと違い、飛行士の目をくらます罠だった。その下には突き出た巨大なアンデス山脈の連峰があるかもしれなく、方角を間違えて海の上に落ちるかもしれなかった。自然との争いが、あるいは対話が常に行われていた。それが彼らの喜びであり、誇りだった。

彼らは自らの仕事を愛したがゆえに、郵便物を運ぶ仕事に強い責任を持った。その仕事とは、見知らぬだれかのメッセージを、だれかに必ず届けること。待っている人が彼らにはいた。だから、必ず帰らなくてはならなかった。

彼らの役割は明確だった。メッセンジャーであること。それゆえ、彼らはこの上なく幸福だったのではないだろうか。

サン=テグジュペリは本書のなかで、彼がサハラ砂漠に不時着したときのエピソードを書いている。そのとき彼は水をほとんど持っていなかった。それはつまり、発見されなければ干からびて死ぬことを意味していた。

サン=テグジュペリはいくつもの蜃気楼を見たという。あの丘を超えれば、オアシスがあるかもしれない。そして実際に丘を超えると、本当にそこにオアシスがあるのだ。揺らめきの向こうに水が湧いており、木々が茂っているのが見える。本当に見える。それが蜃気楼なのだという。

彼は何度も何度も蜃気楼を見た。砂の土地では、自分の見たいものが浮かび上がってくる。何度も騙されて半信半疑になりながら、それでも彼は蜃気楼を見続けた。

一度、彼は死に近づく喜びを感じる。夜、砂漠のなかに埋もれて眠るとき、彼にとって死はとても安らかなものに思える。このまま起き上がらければ、もう戦う必要もないのだ。蜃気楼に騙され続けながら歩く必要もなくなる。すべてが無になり、彼は砂と一体になる。

しかし、彼はそれでも歩く。妻の顔を思い浮かべる。自分が戻るのを待っている同僚のことを思う。郵便物を待つ人々のことを思う。だから彼は起き上がる。

彼はほとんど水を飲まず砂漠を3日間歩き続け、最終的に遊牧民に発見されて命を拾った。

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「意味」を求める若者たち

「人間の土地」には、宮崎駿氏が1998年に書いた解説が載っている。そこにはこう書かれている。

人類のやることは凶暴すぎる。20世紀の初頭に生まれたばかりの飛行機械に、才能と野心と労力と資材を注ぎ込み、失敗につぐ失敗にめげず、堕ち、死に、破産し、時に讃えられ、時に嘲られながら、わずか10年ばかりの間に大量殺戮兵器の主役にしてしまったのである。
(『人間の土地』(新潮文庫)、p266)

2つの大戦を通じて、多くの飛行機乗りたちが空を飛んだ。しかし、第一次世界大戦だけで16万機あまりの飛行機が壊れ、燃え尽き、捨てられたという。そこに乗っていた飛行士たちはみな死んでいった。

それでも多くの若者たちがパイロットに志願した。彼らは意味を求めていたのかもしれない。自らの役割を認識し、責任を果たすという仕方で、人々と、社会との重厚なつながりを持ちたかったのかもしれない。彼らは誇りを持っていた。そして、きっと孤独ではなかっただろう。

そのことは、戦争という側面から見れば礼賛すべきことではない。しかし、生の意味を求める人間の精神という観点から見れば、全面的に否定できるものでは決してない。ここに矛盾がある。だから、宮崎駿氏は解説で言う。

飛行機好きのひ弱な少年だった自分にとって、その動機に、未分化な強さと速さへの欲求があった事を思うと、空のロマンとか、大空の制服などという言葉では胡麻化したくない人間のやり切れなさも、飛行機の歴史のなかに見てしまうのだ。
(『人間の土地』(新潮文庫)、p269)

「人間の土地」は、人間を人間足らしめるもの、つまり人間を育む「土地」とはなにかを語った本だ。それが「意味を自覚すること」だとすれば、簡単には割り切ることのできない、人間の難しさが現れる。

筆者は学生時代の一時期、ベンチャー系の企業でインターンしていた。仕事はたくさんあり、夜2時とか3時くらいまで働いてオフィスに泊まった日もあった。企業の理念に共感していて、自分の仕事が認められている感覚もあった。重厚な関係のなかにいて、自分の役割を信じられた。ただし、今思えば給料はめちゃくちゃに安かった。そしてのちに辞めてしまった。

ベンチャーとかスタートアップには、何者かになりたいという若者たちの希望を活用し、安い労働者として搾取する構図がある。それと戦時下の飛行機乗りたちの間には似たようなイメージがある。

でも、だからと言って何ができるだろう。若者たちは飛行機で大空を飛べて幸せだったのかもしれない。夢を見られるということは、「人間」であるということは、幸福なことなのだ。

(終)

▼過去に書いた「正しいとはどういうことか」を考えた記事は、今回の内容とちょっと関連がありそうです。興味を持たれた方はぜひ。


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