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遅いお歳暮を贈りに実家へ




駅前で買った「崎陽軒」のシュウマイを持って横浜の実家を家族で訪ねた。初夏まで、腰骨を折って、介護施設に入院していた義母も笑顔で迎えてくれた。一次は深刻な話まで発展した介護治療だったが、奇跡的な回復に遂げ、病院を退院した。介護といっても、要支援2段階・要介護5段階の計8段階に分けられ、段階により使えるサービスや支給限度基準額が変わって来るので、意外に医師の思惑で変わる場合もある。

母は、介護3と認定された。介護3は、基本動作だけでなく全面的な介助が必要な状態で、思考力や理解力の低下、問題行動がみられる状態だ。確かに、何度も同じことを言ったり、以前より思考力が低下しているように思えた。ところが、実家に帰って来ると、俄然、普通に戻る。「いつも通りだね。毎日、散歩していたから。身体は丈夫なはずだもんね」と義理の弟の山野敏晴も確信していたようだ。介護病棟は、五人部屋で、狭いスペースにが五人が寝起きしていた。休憩時間は、喋るわけでもなく、小さな事でテーブルに5人が並んで座っている。

病状の重い人もいるので、記憶がぶっ飛んでしまったおばあちゃんがほとんどの様に見受けられた。敦の父親も98歳で、介護施設に入りぱなしなので、大方の様子は分かっていた。「剛にいらずんは剛に従う」では無いが、母もみんなに合わせているようだった。人は、環境によって対応するので、病院にいれば、本当に病気になってしまうと確信した。

敏晴の地道な介護によって、「家に帰ったほうがいいよ。本当の病気になってしまう」と言う意見に従って、介護福祉士の話を聞き、在宅介護のための玄関や門に改造が始まった。玄関の扉を直し、段差をなくし、手すりを増設するなど敏晴がすぐに対応したお陰で、介護福祉士から承諾を得て、在宅介護は、無事完了した。初夏には、家で過ごすことになり、母も元の状態に戻ってきた。多少のボケようなことがあっても、普段と変わらない状態に戻った。

リモートワークも可能な敏晴と都内の保育園の管理栄養士で務めている妹の由美がいるので安心している瑠璃子であった。「自由にお酒を飲みに行けないのが、大変ね」と瑠璃子の心配をよそに「いや、結構出かけているよ。息抜きしないとね」と言う敏晴。就職をすると同時に会社の寮に住み、青梅の隣りの羽村市の独身寮に30歳台まで住んでいたが、流石に近くに引っ越して一人で住んでいた。そんなおり、本人も病気をしてしまい、希望退職者を募っていたこともあり、退職した。結局、義父も交通事故で亡くなり、横浜の実家に戻ってきた。そんな経緯があって、「親孝行をする機会を与えてくれたような気がする」と敏晴に対して瑠璃子は思っている。

瑠璃子と敦は、何も出来ないが、弟と妹が母の面倒を見てくれているだけでも感謝をしている。親の介護で家庭崩壊する人達が多い中、面倒を二人で見てくれるだけでも助かっている。息子を連れて、行くと母親の千代子は、「こんなに大勢で食事をするの久々だわ。やっぱり家族が多いと楽しいね」と喜んでいた。豪華な寿司がケータリングされて来た。「こんな寿司、久々に食べた。美味いよ」と息子が大喜びではしゃいだ。回転寿司で一皿一皿平らげるのと違い、大皿にいっぱい寿司が詰まったいる姿は、豪華そのものだった。色あいも綺麗で、写真映えもする。マグロ、サーモン、炙りマグロ、えび、穴子、いか、玉子、ナギトロ、ホタテ、えんがわ、タイなど豪華なラインアップだった。どれを食べても美味しかった。「崎陽軒のシュウマイを持ってきて、豪華寿司とは倍返しだね」と瑠璃子が笑いを誘った。「毎回、母が、家に来る時に崎陽軒の焼売を持ってくるので、きっとシュウマイが好きなんだと思う」と言うことで、冷凍シューマイをお歳暮にした。「真っ白なシュウマイが色鮮やかな寿司に変わってしまった。確かに、倍返だが、家族で会う喜びこそが倍返になった」と敦は思った。

母は、父親の3階建て年金と言われる遺族年金が暮らしているので、お金の心配は無い優雅な老後を送っている。電電公社からNTTという黄金のコースを歩んで来た父親のお陰で、不自由なく暮らしている珍しい親だと痛感している。それもこれも母親の単身赴任の父親との二重生活を耐え抜いた努力によって達成できたことだと敦は思う。どんな生活にも、忍耐や努力が必要だ。それによって獲得できた生活だと思う。敦も改めて、家族の大切さや妻への思いやりを考えていた。よく耐えてきたと思っている。これからは、家族にバイ返しすると決心した1日だった。


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