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「文章読本」を読み比べる(第3回)

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今回は、谷崎が「現代の口語文に最も欠けている」と指摘する「音調の美」から考えていきましょう。

なぜ「現代の口語文に最も欠けている」のかといえば、朗読の習慣が廃れて、黙読が一般化したことからだと谷崎はいいます。しかしながら「今日においても、全然声と云うものを想像しないで読むことは出来ない」と述べ、心のなかで声を出し、聴きながら読んでいるのだから、文章の音楽的要素をなおざりにしてはいけないと主張しています。

されば皆さんは、文章を綴る場合に、まずその文句を実際に声に出して暗誦し、それがすらすらと云えるかどうかを試してみることが必要でありまして、もしすらすらと云えないようなら、読者の頭に這入りにくい悪文であると極めてしまっても、間違いはありません。

『陰翳礼賛・文章読本』谷崎潤一郎 新潮文庫 2016年 150-151頁

ここで谷崎が標的としているのは、「多量の漢字を濫用し過ぎる弊」であり、「「何々的何々的」と云う風に無数に漢字を積み上げて行く」書き方なのですが、文意の掴みやすさではなく、「読者の頭に這入り」やすいかどうかを問題としているところが興味深いです。理解よりも記憶に軸足を置いているといってよいかもしれません。文章の勘所は「長く記憶させる」ように書くこと、と谷崎が明言していたことを思い出しましょう。

そして谷崎は、少年期の学習法の素読(講義をしないでただ音読すること)を思い返して、次のように述べます。

先生は机の上に本を開き、棒を持って文字の上を指しながら、朗々と読んで聴かせます。生徒はそれを熱心に聴いていて、先生が一段読み終わると、今度は自分が声を張り上げて読む。満足に読めれば次へ進む。そう云う風にして外史や論語を教わったのでありまして、意味の解釈は、尋ねれば答えてくれますが、普通は説明してくれません。ですが、古典の文章は大体音調が快く出来ていますから、わけが分らないながらも文句が耳に残り、自然とそれが唇に上って来、少年が青年になり老年になるまでの間には、折に触れ機に臨んで繰り返し思い出されますので、そのうちには意味が分って来るようになります。

同上 151-152頁

意味が後から、遅れて到来すること。「少年が青年になり老年になるまで」の時間経過にうちに培った経験、養った感覚、身につけた教養などが、意味を会得させるということでしょう。

「記憶されている限りはいつかその意味を悟る日が来る」。だからこそ、「長く記憶させる」ように書くことが重要であり、感覚的要素(字面と音調)は文章を読者の脳裏に刻む上で有用だ、ということになります。

野坂昭如は「なじかは知らねど長々し」で次のように書いていますが、これは谷崎のいう意味会得のメカニズムの文脈で読まれるべきだと思います。

「ぼく自身が、目指すものは、義太夫、春本、落語であって、七・五調にこだわるわけではないが、そのリズムを内に秘めた、眼で読んでいて身内にこころよい、内容などしごく月並みでいいから、小説を書いてみたい」

『文章読本』吉行淳之介・選 ランダムハウス講談社 2007年 224頁

谷崎は、和歌も俳句も感覚的要素を多分に備えているといいます。たとえば、非常に有名な「古池や 蛙飛び込む 水の音」という松尾芭蕉の句。蕉風開眼の句といわれ、俳句の代名詞として広く知られている句です。 

飛び込んだ蛙は何匹か、と問われたとしたら、大概の人が一匹と答えることでしょう。また、水音は小さく、ぽちゃんとどこか間の抜けたような響きを想像するかと思いますし、その様子に物さびしさを覚えるのではないでしょうか。

ところが、物さびしさとは何かを説明するのは難しい。辞書を引けば意味を答えることはできますが、それをもって芭蕉の句から感受される意味の厚み、量感を説明することはできないと思います。私たちは「古池や 蛙飛び込む 水の音」から立ちのぼる物さびしさを漠然と理解しています。そして、谷崎にいわせれば、この漠然とした理解(蛙の数や、水が跳ねる音の響きのイメージを含め)は、私たちが句を記憶している長い時間のなかで醸成される、ということでしょう。

五・七・五のわずか十七文字によって生み出されるイリュージョン的な世界。ここに「古典文の精神」を見て取る谷崎は次のように記します。

僅かな言葉が暗示となって読者の想像力が働き出し、足りないところを読者自らが補うようにさせる。作者の筆は、ただその読者の想像を誘い出すようにするだけである。

『陰翳礼賛・文章読本』谷崎潤一郎 新潮文庫 2016年 173頁

谷崎は前段で、日本語の欠点の一つとして言葉の数の少なさを指摘しているのですが、上記の主張はその欠点を逆手に取った戦略的言語観といえるかと思います。この「足りないところ」(=間隙)こそが、余情を生む要素となり、西洋の文章とは対照的な美しい日本文(あるいは、日本的な奥ゆかしさや慎み深さ)の基盤となる、というのが谷崎の見解です。

ここに至って、谷崎の考える「名文」の輪郭が明確になってきましたが、次回は「名文」と「文章の上達法」について言及することにします。

〈続〉

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