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「文章読本」を読み比べる(第1回)

『文章読本』は、1934年に刊行された谷崎潤一郎による文章講座の随筆集です。その後、菊池寛や川端康成、三島由紀夫、伊藤整、中村真一郎らが同じ書名で文章講座を発表しています。ここでは、いくつかの「文章読本」を読み比べて、それぞれの作家たちが文章についてどのようにアプローチしているのかを明らかにしたいと思います。その上で、文章の書き方と読み方のエッセンスを抽出できればと考えています。

まずは、谷崎潤一郎の『文章読本』を取り上げます。関東大震災(1923年)を機に関西へ移り住んだ谷崎は、次第に純日本的なものへを指向するようになり、そして伝統的な日本語による美的な文体を確立しました。『文章読本』刊行の翌年には『源氏物語』の口語訳に着手し、その年以降、小説の制作は減少しています。『文章読本』のなかで谷崎は「古典文の精神に復れ」と主張し、日本語の構造的な問題と国民性を関連づけて考察しているのですが、これらには純日本的なものへの指向が表れているといえるでしょう。実際に『文章読本』冒頭で「云わばこの書は、われわれ日本人日本語の文章を書く心得」を記したのである」(太字は引用者による)と、念を押すように述べています。

ただここでは、言語と国民性の関連性には立ち入らずに、文章講座の側面に焦点を合わせて考えたいと思います。また、『文章読本』は「一 文章とは何か」「二 文章の上達法」「三 文章の要素」から成るのですが、私たちが参照する上で特に重要だと思われる「一 文章とは何か」「二 文章の上達法」に注目し、谷崎の文章道を検討していきます。

さて、文学史としては耽美派の代表的な作家と位置づけられる谷崎ですが、興味深いことに「実用的文章=芸術的文章」と定義しています。

私は、文章に実用的と芸術的との区別はないと思います。文章の要は何かと云えば、自分の心の中にあること、自分の云いたいと思うことを、出来るだけその通りに、かつ明瞭に伝えることにあるのでありまして、手紙を書くにも小説を書くにも、別段それ以外の書きようはありません。(中略)最も実用的なものが、最もすぐれた文章であります。

『陰翳礼賛・文章読本』谷崎潤一郎 新潮文庫 2016年 129頁

小説は、文章によって表現する芸術です。ところで、芸術というものは生活を離れて存在するのではなく、むしろ生活と密接に関係するのだから、「小説に使う文章こそ最も実際に即したものでなければなりません」というわけです。さらに「最も実用的に書くと云うことが、即ち芸術的の手腕を要するところ」と言明しています。

谷崎は「今日の実用文」として「広告、宣伝、通信、報道、その他種々なるパンフレット等」を例に挙げて、「それらは多少とも芸術的であることを必要とする」としつつ、また次のように述べるのです。

裁判所の調書などは、最も芸術に縁の遠かるべき記録でありますが、犯罪の状況や時所について随分精密な筆を費し、被告や原告の心理状態にまで立ち入って述べておりまして、時には小説以上の感を催さしめることがあります。されば文章の才を備えることは、今後いかなる職業においても要求される訳でありまして、旁々心得のためにこれだけのことを弁えて置いて頂く方がよいと思います。

同上 136-137頁

「裁判所の調書」が「時には小説以上の感を催さしめる」というのは非常に面白い見解ですが、谷崎はとにかく読者に「分らせるように書く」ことが肝心だと説きます。そのためには「出来るだけ無駄を切り捨てて、不必要な言葉を省」かなければならず、「簡単な言葉で明瞭に物を描き出す技倆」(「芸術的の手腕」)を要する、というのが谷崎の理路です。

それでは、何が「無駄」であり、何が「不必要な言葉」なのかを判断する基準は何でしょうか。文章をシンプルにするといっても、同じ単語を繰り返し使ってはいけないというわけではなく、谷崎も実用文の好例として志賀直哉の「城の埼にて」に言及するくだりで次のように述べています。

但し、今の志賀氏の文章を見ると、「淋しかつた」と云う言葉が二度、「静かな」と云う形容詞が二度、繰り返し使ってありますが、この繰り返しは静かさや淋しさを出すために有効な手段でありまして、決して無駄ではないのであります。(中略)こう云う技巧こそ芸術的と云えますけれども、しかしそれとても、やはり実用の目的に背馳するものではありません。実用文においても、こう云う技巧があればあった方がよいのであります。

同上 136頁

つまり、何かしら効果がある=実用的な要素であるならば「無駄」ではなく、また「不必要な言葉」ではない、ということです。谷崎は主格の省略にも目配りしていて、「「自分は」と云うような主格を置かずただ「淋しかつた。」とあるのが、よく効いています」と評しています。こうした実用性の観点からいえば、いかにも高尚で優美な文句を並べたところで、読者の胸に響かなければ(=無益であるならば)芸術的文章にはなり得ない、ということになります。国語学者の大野晋も、ベストセラー『日本語練習帳』のなかで書いています。

なんでもかんでもむずかしい言葉をたくさん覚える必要があるといっているのではありません。そのときどきに、ピタッと合う、あるいは美しい表現ができるかどうか。それが問題です。それが言語の能力があるということです。

『日本語練習帳』大野 晋 岩波新書 1999年 22-23頁

「そのときどきに、ピタッと合う」という言葉選びについても、谷崎は「三 文章の要素」で触れているのですが、この点は後述することにします。

谷崎のいう「分らせる」は、明瞭さと併せて鮮烈さを眼目としているようです。「第一われわれの心の働きでも、生活の状態でも、外界の事物でも、昔に比べればずっと変化が多くなり、内容が豊富に、精密になっておりますから」、詩や歌といった韻文は別にして、散文(「現代の口語文」)に関しては「分らせる」「理解させる」ことに重きを置くということです。

考えてみれば、『文章読本』が出版された1934年の前後は激動の戦間期です。23年の関東大震災で日本経済は大打撃を受け、29年には世界恐慌がはじまります。31年には満州事変が勃発して軍需産業が拡大。そして32年に五・一五事件、36年に二・二六事件が起こって軍国主義への道が加速し、37年にはとうとう日中戦争が勃発しました。

当時の社会情勢において思想、感情、出来事は、それまでの言葉では表せなくなってきたため、「俗語でも、新語でも、或る場合には外国語でも、何でも使うようにしなければならない」という言説状況でした。こうした状況を踏まえて、谷崎は「分らせるように書く」ことを主張したのでした。

とはいえ、『文章読本』は特定の時代においてのみ有益な文章講座ではありません。新潮文庫の解説を書いている筒井康隆も、自著『創作の極意と掟』には『文章読本』と(期せずして)共通する部分があることを認めています。普遍的な言語観を礎としているところに『文章読本』の魅力があるように思われます。そしてその面白味は、読者に「分らせるように書く」ことが肝心といいながら、「「分らせる」ことにも限界がある」と明言しているところにもあります。谷崎は次のように述べています。

文章のコツ、即ち人に「分らせる」ように書く秘訣は、言葉や文字で表現出来ることと出来ないこととの限界を知り、その限界内に止まること

『陰翳礼賛・文章読本』谷崎潤一郎 新潮文庫 2016年 140頁

複雑な世相に言葉が追いつけないという言説状況とは別に、「言葉や文字」そのものの「限界」を指摘しているのです。次回は、この「限界」についてと、「限界内」で何をすべきと谷崎は講じているのかを見ていきたいと思います。

<続>


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