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「文章読本」を読み比べる(第2回)

「文章読本」を読み比べる(第1回)は こちら

前回に引き続き、谷崎潤一郎の『文章講座』を取り上げます。前回で触れた谷崎の主張の要点は次のとおりでした。

・「文章に実用的と芸術的との区別はない」
・「最も実用的に書くと云うことが、即ち芸術的の手腕を要するところ」
・(散文(「現代の口語文」)は)「分らせるように書く」ことが肝心

難しい単語や言い回しなど馴染みのない(日常的ではない)語彙を駆使すれば「芸術的」となるわけではありません。華を去り実に就くというように「簡単な言葉で明瞭に物を描き出す技倆」が「芸術的の手腕」であり、描く対象の「物」がより複雑でより不透明でより深淵であるほどに、「実用的」(日常的)な言葉で書かれたならば高い芸術性が認められる、ということでしょう。そして、豊富な語彙力さえあれば「分らせるように書く」ことができるという考えは誤りだといいます。

実に口語体の大いなる欠点は、表現法の自由に釣られて長たらしくなり、放漫に陥りやすいことでありまして、徒らに言葉を積み重ねるために却って意味が酌み取りにくくなりつつある。

『陰翳礼賛・文章読本』谷崎潤一郎 新潮文庫 2016年 140頁

日常的な言葉を用いること、むやみに言葉数を費やさないことが、谷崎のいう「分らせるように書く」の本質です。

また、華を去り実に就くことは技巧の否定ではないと、志賀直哉の「城の埼にて」を引いて谷崎は付言していました。技巧はむしろ、実用の目的に適うのであり、読者に「分らせる」ことに資するということでしょう。その例として、夏目漱石の『それから』の有名なラストシーンを引用してみます。(太字は引用者による)

 飯田橋へ来て電車に乗つた。電車は真直に走り出した。代助は車のなかで、
「あゝ動く。世の中が動く」と傍の人に聞える様に云つた。彼の頭は電車の速力を以て回転し出した。回転するに従つて火の様に焙つて来きた。是で半日乗り続けたら焼き尽す事が出来るだらうと思つた。
 忽ち赤い郵便筒が眼めに付ついた。すると其赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くる/\と回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘を四つ重ねて高く釣るしてあつた。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くる/\と渦を捲いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売つてるものがあつた。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸けて来て、代助の頭に飛び付ついた。小包み郵便を載せた赤い車がはつと電車と摺れ違ふとき、又代助の頭の中なかに吸ひ込まれた。烟草屋の暖簾が赤かつた。売出しの旗も赤かつた。電柱が赤かつたペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になつた。さうして、代助の頭を中心としてくるり/\と焔の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗つて行かうと決心した。

赤いという言葉が執拗に用いられています。しかしながらこの執拗さは、谷崎が指摘する「放漫」と異なることがお分かりかと思います。代助の胸に渦巻く焦燥、不安、恐れなどを読者に鮮烈に伝えるための技巧であり、代助の鼓動と切迫感が文章リズムに乗ってひしひしと感受される場面となっています。(また「赤」が喚起する火のイメージは、作中の細部で反復的に表れる水のイメージと対照的です)

前回「谷崎のいう「分らせる」は、明瞭さと併せて鮮烈さを眼目としているようです」と書きましたが、「分らせるように書く」には技巧的な筆致も含まれる、という点を押さえておきましょう。


さて、今回は「文章のコツ、即ち人に「分らせる」ように書く秘訣は、言葉や文字で表現出来ることと出来ないこととの限界を知り、その限界内に止まること」という谷崎の提言から考えたいと思います。

谷崎は『文章読本』の「一 文章とは何か」で次のように述べていました。

返す返すも言語は万能なものではないこと、その働きは不自由であり、時には有害なものであることを、忘れてはならないのであります。

『陰翳礼賛・文章読本』谷崎潤一郎 新潮文庫 2016年 127頁

鯛を食べたことのない人に鯛の味を説明することもできないし、視覚の優れた人は「紅い」という言葉では伝えられない「複雑な美しさ」を感じているかもしれない、と谷崎はいいます。言語は何かを思考したり、伝達したりするのに必要であり、また便利なものではあるものの、何でも表現できるわけではないというパラドックスを孕む ―— この「限界」の側面を理解していないと、実用的に書くことを怠り、むやみに言葉を費やすことになってしまう、ということです。そして谷崎は、その「限界内」に留まってすべきことを主張しています。

口語文といえども、文章の音楽的効果と視覚的効果とを全然無視してよいはずはありません。なぜなら、人に「分らせる」ためには、文字の形とか音の調子とか云うことも、与って力があるからであります。(中略)既に言葉と云うものが不完全なものである以上、われわれは読者の眼と耳とに訴えるあらゆる要素を利用して、表現の不足を補って差し支えない。

同上 144-145頁

谷崎は「文章の音楽的効果と視覚的効果」に着目し、さらに次のように付言しています。

文章の第一の条件は「分らせる」ように書くことでありますが、第二の条件は「長く記憶させる」ように書くことでありまして、口でしゃべる言葉との違いは、主として後者にあるのでありますから、役目としては或いはこの方が大切かも知れません。

同上 146頁

ここにはひとつの転回があるように思います。「分らせるように書く」ことが肝心であるものの、言語の原理上、「分らせる」には限界がある。その限界を正しく認識した上で「読者の眼と耳とに訴えるあらゆる要素を利用」すべき、ということですが、そのことによって「分らせる」ことの限界を超えるという話ではありません。

そうではなく、言葉や文字の限界内で、「書く」の力点を「分らせる」から「長く記憶させる」ことにシフトすることで、文章の(あるいは日本語の)可能性を追究できると谷崎は説いている、と考えられるのですが、まずは「文章の音楽的効果と視覚的効果」について考えてみましょう。谷崎は前者を「音調の美」、後者を「字面の美」といいます。

谷崎は後者の「字面の美」として、幼年時代に弄んだ「骨牌」に書かれた和歌の「美しい字体」を例に挙げて、「骨牌」の手触り、正月の晩とともに思い出して懐かしさを覚えています。和歌は草書体や変体仮名を使って「能筆に書いてあった」とのこと。「眼で見て理解するものであるからには、眼を通して来る総べての官能的要素が、読者の心に何等かの印象をとどめないはずはありません」という確言は、谷崎自身の経験(記憶)を根拠としています。そして草書体や変体仮名を用いない活字においても、「字面の美」は考慮されるべきだといいます。

近頃はよく、漢語をわざと片仮名で書いて、たとえば「憤慨」を「フンガイ」と書いて、一種の効果を挙げることが流行りますが、あれなぞが、やはり私の云う字面を考慮することに当ります。それと云うのが、西洋では一定の言葉を綴るのには一定の文字しかない。たとえば「デスク」と云う語はdeskとしか書きようがない。(中略)われわれの国では、「机」、「つくえ」、「ツクエ」と、三通りに書けます。されば、ありふれた漢語を故意に仮名で書いて読者の注意を促し、記憶に資すると云う手段が、そこに成り立つ訳であります。

同上 148頁

英語と日本語との比較の妥当性については措いておきます。ここでは、文字の選択が「視覚的効果」を生み出し、読者の記憶に影響するという点に着目しておきましょう。谷崎はまた、漢字は「美感が備わって」いるが「文字と文字とのつながり工合が美しくない」といい、平仮名は「文字そのものに優しみがある上に、つながり工合が実に美しい」と述べます。

「字面の美」とはすなわち、文字の選択とつながりが織りなす印象であり、これを考慮することによって、文章の内容を読者に「長く記憶させる」ように書くことができるということです。

それでは文章の「音楽的効果」についてはどうでしょうか。谷崎は「現代の口語文に最も欠けている」のが「音調の美」と述べるのですが、これについては次回に見ていきます。

〈続〉


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