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いま虚構や批評にとって陰謀論とは何か(後編)——信用できない語り手と陰謀論的リアリズム

フィクションの感触を求めて(第五回) 勝田悠紀

0.はじめに

 「陰謀論」は今日、抽象的、理論的思考のひな型と化す。前編(https://note.com/bungakuplus/n/nb271de2e7a68)ではまずこの見取り図を提示し、陰謀論がそうしてわれわれのコミュニケーション空間に入り込み環境化した世界を「陰謀論化した世界」と呼んだ。フィクション性のありかたも当然それと無縁ではいない。フィクション受容の観点から、それは、不可視の探求の形態の「解釈」から「考察」への移行と捉えられる。
 今回はそれを作品の側から、小説論として展開してみる。陰謀論が啓蒙思想以来、近代を通じて発展してきたとするのなら、それと物語作品との関係を問うのに最適の対象は小説であるはずだ。そして小説こそ、「不可視の探求」とフィクション性の結びつきをさまざまに試みてきた領域である。前半ではそうした観点から小説史をふりかえってみよう。ジェイムソンの『地政学的美学』が映画による二〇世紀の陰謀論の分析だとすると、ここで見るのはその前史である。そのあと、今度は現代に目をむけて、陰謀論化した世界の表現と見なしうるある小説装置を論じる。 

1.リアリズムとしての陰謀論

  小説と陰謀論という組み合わせでまず思い浮かぶのは、一群のジャンルフィクションだろう。十八世紀末のゴシック小説、十九世紀中頃から登場した探偵小説、あるいは現代ミステリー、スパイ小説、陰謀スリラーなど、何らかの形で「陰謀」そのものを描く小説ジャンルが存在する。しかし、これらとは別の仕方で、陰謀論化した世界を描く小説ジャンルがある。それはリアリズムだ、といったら、おかしな感じがするだろうか。
 神や英雄、超能力者や幽霊ではなく、どこにでもいそうな普通の人を描く。これを基本方針とする近代リアリズムが荒唐無稽で空想的な陰謀論と親和的だというのは、奇妙な話に聞こえるかもしれない。しかし、両者には意外な共通性がある。
 西洋において十九世紀は、資本主義や帝国主義が急速に進展した時代だった。それはつまり、社会の「全体」が拡張され複雑さを増すことで、その全体像が見えにくくなっていくということを意味する。この変化に呼応して、見かけ上のさまざまな事象を、その裏にある体系立ったシステムによって説明しようとする知——例えば史的唯物論や進化論——が現れたのもまた、十九世紀であった。十八世紀に誕生したとされるリアリズム小説は、十九世紀に大きく発展を遂げた形式である。小説の十九世紀における進化の特徴とは、まさにこの社会や知の変化と共振するかたちで、隠された「深さ」を中心に、いかにして社会なり共同体なりの全体性を描くかが問われるようになっていったということだ。その意味で十九世紀リアリズムは、作品世界にはたらく諸力に統べられた必然性を描く(簡単に言えば「ご都合主義」的なプロットは低評価になるという話)。多彩な登場人物なり状況なりを動かし配置しながら、そこにはたらく大いなる力を読者に垣間見せるのである。
 批評家のベン・カーヴァーは、こうしたリアリズム小説の展開を、より直接的に陰謀論と結びつけている。「バルザックとディケンズにおけるリアリズムと陰謀」(注1)を副題とする論文でカーヴァーは、英仏を代表するこの二人のリアリズム作家の作品(『ゴプセック』、『われらが共通の友』)を取り上げ、流動的で越境的な貨幣やクレジットの成す捉えがたいネットワークが、リアリズム的「全知全能」性の条件であり、かつ「陰謀」的な位置を占めるさまを論じている。都市を超え、さらには国家をも超えて広がっていくこのネットワークは、全体性の「認知地図」をもたらすが、同時に見かけと真実の不一致、詐欺や不信を発生させるのである。ここでカーヴァーが面白いのは、ディケンズにしてもバルザックにしても、彼らの経済への洞察が、陰謀論の定番、ユダヤ陰謀論と結びついていると指摘していることだ。つまり彼らによる経済システム批判は、ユダヤ人が世界経済を牛耳っているというおなじみの陰謀論にひそかに頼っている。カーヴァーはそこから一気に踏み込んで、エンゲルスやマルクスがディケンズやバルザックを発想源として理論を組み立てたことを考えるとき、究極的にはユダヤ陰謀論の痕跡を一切とどめない資本主義批判はありえないのではないか、とまで言っている。
 加えて言えば、十九世紀の都市小説には、大いに「拡張現実」的な側面がある。実在する建物や通りを舞台としそのあちこちに登場人物を配置する彼らの小説は、当時のロンドンやパリの住人にとって、さしずめ自宅の周辺にポケモンを登場させるスマートフォンのような機能を持ったのではないだろうか(これはヨーロッパの通りにやたらと名前がついていることも大きい。自分もかつて卒業論文を書いていた頃、ロンドンで『荒涼館』ツアーを敢行してすこぶる楽しかった記憶がある)。それとの比較で言えば、ゴシック小説系列のジャンルは「いま・ここ」ならざる世界への没入を誘うという意味で、どちらかというと「仮想現実」的だと言えるだろう。
 こうした前史を踏まえた上で、次節では現代の小説に目を向ける。この陰謀論とリアリズムの組み合わせの延長線上で、現代の陰謀論化した世界を描く小説ジャンル——というより語りの装置——がある。それは何か。

2.信用できない語り手と陰謀論——カズオ・イシグロ『日の名残り』、今村夏子『星の子』 

2.1 「信用できない語り」の構造

 ホフスタッターが陰謀論の「印象的」な特徴として、「空想的な結論」と「事実性への関心」のコントラストを挙げていることは先に触れた。しかしこの指摘には、実のところちょっとした詐術がはたらいている。ある説を「空想的」だとするのはあくまでひとつの判断であり、その判断を下すためには疑いの眼差しが必要である一方で、その説を信じる人にとっては、結論も含めすべてが「事実」的だからだ。つまりホフスタッターの指摘においては、信じる人と疑う人という二つの異なるポジションが、こっそり前提されている。しかしそもそもこの二つの乖離したポジションの存在は、陰謀論の特徴のひとつというより、陰謀論という現象を成立させる要件そのものだったはずである(陰謀論者が自分ひとりでみずからを陰謀論者だと判断することはない)。
 陰謀論が話題になるとき、僕がいつも気になるのはこの点だ。前回第一節で陰謀論をめぐる「記述」と「評価」の混乱について述べたが、ここではそれをさらに「視点」の観点から捉え直すことができる。陰謀論という概念が視点のずれを考慮せずに用いられるとき(単一の客観的視点の措定)、それは記述的にふるまいだす。そこでは評価性の前提となっていた信じるポジションと疑うポジションの分離は、顧みられなくなっているといえる。
 こうした視点の交錯を小説において構造的なレベルで展開する、比較的新しい語りの装置がある。「信用できない語り手」だ。信用できない語り手とは、その名の通り、現実を歪曲して読者を騙してしまう語り手のことである。一人称で語り、登場人物でもあるその語り手は、読者に開示する情報を過剰に制限したり、偽ったり、遅らせたりする。出し惜しみされる情報は、語り手としては完全に把握しているが意図的に隠している場合もあるし、語り手の中で抑圧され本人にも把握されていない場合もある。いずれにせよ「信用できない語り」の読者は、表層と真実の間にギャップがあることを想定し、隠されているものは何なのか探りつつ読み進めることを求められる。
 西洋文学史のなかで、自由間接話法という話法(意識の流れ)がモダニズム文学を代表する技法のようによく語られる。実は僕は数年前から、「信用できない語り手」が現代文学にとってそのポジションにあるという説をぶち上げようと画策して密かに同志を探していたのだが、不勉強のせいかそもそも妥当な説でないからなのか、いまのところ二人しか見つけられていない(それでもやるが……)。一人はポストクリティーク論のリタ・フェルスキ。彼女は『批判の限界』のある箇所で、「信用できない語り手は、単なる形式的装置であるだけでなく文化的触媒でもある。それは読者に訓練を施し、読者が尋問者の役目を引き受け、他人の言葉を、そして究極的には自分たちの言葉すら、信用すべきかどうか吟味するよう促す」(注2)と述べ、読者を「懐疑の解釈学」者に調教する機能に、「信用できない語り手」の今日性を見出している。七十年代以降の英語圏の批評はこの「懐疑の解釈学」一辺倒に陥っているというのがフェルスキの診断なのだが、「懐疑の解釈学」と「陰謀論」に共通するテクスト解釈の快楽(前回第一節参照)の暴走は、両者の無視できない重なりを示している。フェルスキの洞察をわれわれの文脈に置き換えるなら、信用できない語りは、表層への不信とその背後に潜む真実の存在への確信に読者を慣れさせ、われわれを陰謀論者に仕立て上げると言えるだろう。
 もう一人は、『らせん状想像力』の福嶋亮大。福嶋にとっては、「「自分の物語」を語る快楽が「他人の物語」を読む快楽を上回」り、SNSで日々自分の姿をすこしずつ加工する私たち自身が、信用できない語り手である。大抵は「嘘をつこうとする悪意もない、いたってふつうの」「正常な人間こそが、自らの尊厳やプライドを保つために、事実を隠蔽して「信用できない語り手」とな」るわけだ(注3)。これを陰謀論の文脈に引きつける場合、どちらかというとここでは信用できない語り手のほうが陰謀論者(と周囲が判断する人)のポジションに近い。本人の意図はともかく、「事実」関係よりも自分にとっての望ましさを優先して今日も「物語」をツイートするあの人は、インターネットのあちこちにいる陰謀論者と重なるだろう。
 じっさい信用できない語り手の実例には、しばしばこれに留まらない陰謀論者めいた特徴がある。以下では、この技法の記念碑的作品であるカズオ・イシグロの『日の名残り』(一九八九年)(注4)、そして二〇一〇年代から今村夏子の『星の子』(二〇一七年)(注5)の読解を通じて、話を進めていこう。ごく簡略に両作の内容を紹介すると、『日の名残り』の語り手はプロ意識の強い初老の執事スティーヴンス。一九五六年にイギリスの田園地帯を車で一週間旅しながら、大貴族ダーリントン卿に仕えた第二次大戦前夜を回想する話である。一方『星の子』の語り手は「あやしい宗教」の信者一家の次女、林ちひろで、基本的には両親に育てられたまま「信じている」中学生の視点から、家庭や学校、教団での出来事を語る。読者はその一見無邪気な語りから、次第に「二世信者」の生活の不穏さが立ち上るのを感じ取ることになるだろう。
 福嶋から引き出した「信用できない語り手」=「陰謀論者」という観点を補強する点として、スティーヴンスやちひろの視線の先には、彼ら自身が見通せずにいる(したがって読者に対しても「隠蔽」されざるをえない)組織的、集団的な作意があることが重要である。スティーヴンスの場合、それは主人のダーリントン卿が国内外の有力者と結んでいたネットワーク(それは車輪の中心(ハブ)に喩えられる)、そこで国王をも巻き込んで展開されていたナチスへの宥和政策のプロジェクトである。スティーヴンスは執事という立場上、主人らの行動や意図を断片的にしか知ることができず、そこにひとつスティーヴンスの「信用できなさ」の所在があるのだが、一九五六年の語りの現在から(そして歴史を知るわれわれから)見れば悲惨な失敗に終わっているという意味でも、ダーリントン卿らの策謀はすぐれて「陰謀」めいた企みである。また、ちひろの認識の先にもやはり、親戚も含めた家族、何より「あやしい宗教」団体という集団性がある。語り手によるこれらの「事実の隠蔽」は、構造的にいえば、彼らが「陰謀」を垣間見るばかりでその全体性を把握できないことに起因しており、こうして「陰謀論者」としての「信用できない語り手」像は強化される(前回論じた通り、全体性からの疎外と、荒唐無稽な全体性の盲信とは、同じ陰謀論という現象の二つの側面である)。
 陰謀でありつつ陰謀論者でもある語り手、陰謀論者でありつつ陰謀論者を見る人にもなる読者——フェルスキと福嶋が論じてみせる信用できない語り手とその読者のポジションは、合わせて見ると、陰謀論をめぐる視点の交錯をきれいに体現している。ところで僕は以前、今村夏子の第一作『こちらあみ子』について、『星の子』と同種の信用できない語りが、「深さ」を中心に世界を形造る十九世紀リアリズムの延長線上にあると論じたことがある(注6)。前節で示した通り十九世紀リアリズムのそうした世界観は、陰謀論とも通底するものなのだった。「信用できない語り手」小説は、陰謀論そのものを描いた小説ではない(たとえば「あやしい宗教」の驚くべき実態を読ませるようなものではない)。しかしリアリズム的な世界像を、視点の交錯において構造化するそれは、本論でいう「陰謀論化した世界」での体験、潜在的にはだれもが陰謀論者であり、みなが陰謀論を語る世界の表現として読まれうる。以下でそのありかたをさらに具体的にしていこう。 

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