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想像力の死角とギミック的フィクション——フィクションを「ケア」することは可能か(2)

フィクションの感触を求めて(第三回) 勝田悠紀

1. 『ドライブ・マイ・カー』と異化

  濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』を観た。村上春樹の短編小説集『女のいない男たち』を原作とし、その中心にチェーホフの戯曲を据えるこの作品は、小説と演劇という二つの文学ジャンルをふんだんに取り込んだ映画だった。
 原作を踏まえて見ると、そもそも登場人物も内容もまったく異なる六つの短編を組み合わせてひとつの物語に仕立てた構成力に感心する。しかし村上とチェーホフは、単にプロットの素材を提供しているだけではない。村上をオリジナルとするエピソードが登場人物の過去や現在に様々なかたちで織りこまれ、広島で開催される国際演劇祭に招聘された演出家と役者が、稽古を経て『ワーニャおじさん』を上演するまでの過程を三時間にわたって描き出すこの作品では、かれらのテキストそのものが、登場人物の口から大量に発せられるのだ。
 印象的だったのは、芝居の台本や小説の台詞、さらには地の文までもがスクリーン上の俳優の口から発せられるときに感じられる、幾重もの違和感(のようなもの)だ。たとえば西島秀俊演じる主人公の演出家・俳優家福悠介は、自分が参加する芝居の台詞を妻に録音してもらい、それを車の中で復唱して記憶することを習慣にしているのだが、テープに吹き込まれた妻の声、それを反復する家福の声は、ときに不気味に響くほど抑揚がない。これは稽古の本読みの段階での特殊な方法に繋がっている。というのも家福の稽古法は、徹底的に感情を排して台詞を読んでいくというものなのだ(これは濱口監督自身が映画を作る際の手法でもあるらしい)。四角く配置されたテーブルを囲んで役者たちが棒読みするチェーホフの言葉は、奇妙な不自然さの印象をわれわれの耳に残す。
 とはいえ相応の起伏をつけて読めば自然に聞こえるかというと、必ずしもそうとも言えない。「芝居がかった」という表現が誇張的な不自然さを意味するように、演劇の台詞はいくら上手に読もうが日常的な場面やリアリスティックな映画の世界にぴったり収まることはない。ことに弁論術や対話劇の伝統を持たない日本語にとって、西洋演劇的な対話の言葉はどこまでいっても自然のものになり得ないようにも思える。演劇と映画というジャンルの差は、この映画では何よりもまず言葉が聞き取られるときに生じる違和感という形で受けとられる。
 同じことが小説の言葉にも言える。ストーリー上は問題なく(むしろパズルのピースをはめるように的確に)配置された台詞であっても、村上によって小説の一部として書かれた言葉は、俳優によって口にされるとどこか作り物めいた、わざとらしい声として響く(極端な例としてはトランス状態で発せられる冒頭の妻の台詞)。おそらくこれは村上春樹という作家の個性とも関わるだろう。この連載の初回では村上春樹の「文章」観を取り上げたが、村上の愛読者に対する「ハルキスト」という呼称が含意するもの——その文章への偏愛と羞恥とは、黙読を離れて声にされたときより一層増幅する。たんに台詞の量が多いというだけでなく、ジャンル、本番と稽古、口語と書き言葉、さまざまなレジスターをまたぎながら役者の口から発せられるこの言葉の振れ幅が、本作を観る体験の主要な部分をなすという意味で、この映画は「言葉の映画」であると感じられる。
 映画批評家の渡邉大輔は『新映画論』で、「ワークショップによる舞台の上演プロセスをドラマの中核に組み込み、作中の主人公によって行われる演技指導と濱口自身のそれが二重写しになって見える」この作品を「ワークショップ映画」に分類し、その特徴を「プロセスの可視化」だと論じている。「作品や演技の生成するプロセスそのものを作品のなかに繰りこんでしまうこと」と定義されるこの手法を渡邉は、従来のフェイクドキュメンタリーの隘路を打破する可能性を秘めた手法として評価する(注1)。
 プロセスの可視化、(作品制作の)手法自体のコンテンツ化——突飛に思われるかもしれないが、こうした要素を指す古典的な概念に「異化」がある。その提唱者として知られるロシア・フォルマリズムの批評家ヴィクトル・シクロフスキーは、記念碑的論文「手法としての芸術」において次のように述べている。 

そこで生の感覚を戻し、事物を感じ取るために、石を石らしくせんがために、芸術と呼ばれるものが存在しているのだ。(......)芸術においては知覚のプロセスが目的そのものであり、長引かされねばならないからである。芸術は、事物=作品の制作を体験するための手段であり、芸術において、完成しているものは重要でないのだ。(注2)

自動化した物の見方を「異化」することは、単に事物の感覚(「石の石らし」さ)を回復するだけではない。そこでは「プロセス」そのものが目的であり、「作品の制作」(『ドライブ・マイ・カー』に当てはめれば『ワーニャ伯父さん』の稽古や準備)の過程が「体験」されねばならないのである。その後「異化」はドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトに引き継がれ、演劇との親和性を高められることにもなった。
 いまではシクロフスキーやブレヒトの文脈を超えて広く表現一般の理想と捉えられることも多い「異化」なのだが、しかし、昨今この前提を問い直したいと思わせる状況に出くわすことも増えている。渡邉大輔によれば「プロセスの可視化」は、従来の映画において重視される作品の完結性(シネマ)を切り崩す方向に作用する(ポストシネマ)ものだが、同時にこれは、大資本による映画制作のプラットフォーム化というもう一つの傾向とも結びついているのだという(注3)。たしかに「youtubeで稼ぐ方法」で大量に再生されるyoutube動画や、「モノではなく体験を」といった類の標語を思い浮かべてみれば分かるように、「プロセスの可視化」や「体験の回復」は現在の資本が好んで注力する領域でもあり、その意味では手放しでありがたがるわけにいかないようにも思える。あるいは、隠されたプロセスにアクセスしたという感覚こそを原動力とする陰謀論のようなものを考えてみてもいいかもしれない。
 その上で改めて『ドライブ・マイ・カー』に目を戻してみると、興味深いのは、この映画が一方で「プロセスの可視化」とジャンル横断的な「違和感」による「異化」的な方法を取りながら、他方でそれがドラマの没入的な効果を抑制する方向には作用していないことだ。ブレヒト的にいえば、異化的演劇は観客の没入を妨げ、批判的反省を促してこそ真価を発揮するが、家福とドライバーのみさきが妻や母との過去と向き合い壁を乗り越えていくこの物語自体はチェーホフ的というよりもイプセン的で、ドラマティックかつ感動的である。
 本作にあってジャンル横断的な言葉の「違和感」は、この「ドラマ」に対する「異化」としては機能せず、物語からなかば独立して聴かれるように思われる。確かにそれは家福の、そして濱口監督自身の「手法」を可視化しはするのだが、同時にそれは発せられる台詞やその時々の登場人物の状況のヴィヴィッドな質感を回復するという方向(シクロフスキー)にも、登場人物から積極的に距離を取りそれを相対化して見るような態度を促すという方向(ブレヒト)にもむかっていかない。
 つまり『ドライブ・マイ・カー』の言葉は、映画世界でのリアリズムのレベルを非自然化しはするのだが、質感や認識を目的とするのではなく、ただ言葉の「自然さ–不自然さ」の振れ幅として存在しているように思える。ここでぼくは、シクロフスキー・ブレヒト的な異化を「質的異化」、濱口的な方法を「量的異化」と呼んで区別することを提案してみたい。異化を「自然さ–不自然さ」の程度の揺れにとどめ、ドラマとは別の軸を作り、それを観客の認識の質的な更新へと即座に向かわせないことが、『ドライブ・マイ・カー』という「ワークショップ映画」の「プロセスの可視化」のなかでもっともラディカルな部分ではないか。
 作品の終盤、家福とみさきが北海道出身のみさきの故郷に到着する重要な場面で、車の内部からはいささか耳障りだった雑音が、視点が車の外に切り替わることで急に静かになる。普段車に乗っている分には気にならないはずのありふれた音が、映画という技術を通過させることで「煩い/静か」という違和感を生じさせることになるのだが、ここではそれはより端的に音の大小によっている。この映画の言葉は、自動車のエンジンやタイヤが発する雑音のように、ただ煩かったり静かだったりするような仕方で観客の耳に違和感を与えつづける。

 2. ギミックの理論

  こうした論点と突き合わせてみたい本がある。前回最後に触れた北米の批評家シアン・ンガイの近刊『ギミックの理論』である。
 「ギミック」とは何か。一言でいえば、「胡散臭いオブジェクト」だ。世界恐慌前夜の1926年に初出、1973年の石油危機の時期に使用が増加したという、「いかさま」や「仕掛け」、「注意を引くための工夫」を意味するこの英単語を、「美的判断および資本主義的形式」と捉えることでンガイは、後期資本主義下における芸術のあり方、経済の構造と日常生活の接地面としての商品/作品の体験を論じようとする。問題となるのは、「労働、価値、時間」の三者のつねに不釣り合いな関係だ。

ギミックは(......)過大評価された装置であり、あまりに働かない(労力節約技術)が、それでいて働きすぎでもある(われわれの注意を引こうとする必死の努力)という印象をわれわれに与える。いずれの場合においてもわれわれは、この美学的に疑わしい対象を「仕掛け」(contrivance)——観念、手法、物のいずれにも使える曖昧な語——と考える。(注4)

 「人目をひくフック、陳腐なジョーク、変わった省力装置」などをわかりやすい具体例とするギミックにおいては、その価値が性能や労働と合致しないことがポイントである。ギミックの胡散臭さを労働と価値の関係という観点からながめたとき、労働はつねに過少か過多かのどちらかとして受けとられるというのである。
 「ギミック」はそれゆえ、胡散臭い(労働)、チープだ(価値)、古臭い(時間)といった否定的な判断を引き寄せるが、同時にそれは「魔法」のようなものでもある(本当に効率よく「労力を節約」できたり「人目をひけ」たりするならばそれは夢のような装置だから)。大切なのは、ギミックに対するネガティヴな反応が、魅惑的だ、驚異的だといった肯定的な判断とセットで生じるということだ。ギミックの「詐欺」を見抜いてやろうという欲求は、肯定的な反応をしめす人がいなければそもそも生じえない。没頭している人を横目に見ながら、あれは本当は大したことがないものなのにという看破の判断を下すという状況。ここからンガイは、ギミックのコミュニケーション的な次元、その現代的なレビュー文化との親和性を導きもする(第三章)。
 「労働」は生産そのもの、生産のプロセスや技法にかかわり、ギミックはこの生産プロセスの積極的な開示を売りにする。これは芸術史的にも重要な論点だ。ンガイによれば、「モダニズム以降、すべての芸術は本質的にギミック的になる」(49)。なぜなら二十世紀初頭のモダニズム期は、芸術制作においてまさにプロセスや方法が自覚的に工夫され語られるようになった時代だったからだ。お気づきの通り、シクロフスキーの「手法としての芸術」(1917年)はその意味ですぐれてモダニズム的な発想だった。ここで前節の議論とギミック論のつながりも見えてくるだろう。異化は芸術制作の方法、プロセスを問題にすることで自動化された知覚を刷新する力を芸術に与えようと試みたが、方法を自覚的に語ること自体がそれはイカサマなのではないかという意識を育んでしまう。「異化」の機能不全と「異化」の発見は、その意味で同一の現象であり、これは「異化」の「ギミック」化という表現で言い換えることができる。
 そして、これは「質」から「量」への転換とも重なってくる。価値や労働の過多・過少によって規定されるギミックの経験は、質的というよりも量的な側面が強く、ポジティヴな反応とネガティヴな反応の共起で人をひきつけるギミックの論理は、とりあえず炎上を起こして情動の絶対値を上げるような今日的な現象ともおそらく関連している。これが直接『ドライブ・マイ・カー』の方法を説明すると言いたいわけではないが、そうだとすると「量的異化」は、従来の「質的異化」の失効としてのギミックの論理を引き受けたうえで、そのなかから可能な別の異化のかたちを導き出してきたものだと考えることができる。
 ここまでが『ギミックの理論』の骨子だが、あとの話に関係してくるトピックをいくつかピックアップしておこう。ンガイは文学におけるギミック的なものの代表例として「思想小説」(novel of ideas)を挙げている。ドストエフスキーやトマス・マンを代表的な書き手とする思想小説は、観念(ideas)と生を時間性によって結びつけるという一般的な小説の要件を満たしていない。『魔の山』のプロットに寄与しない長々しい議論を思い浮かべてもらえばいい。そこで展開される「思想」は一方で目を引くが、リアリズム小説的規範からすれば明らかに不恰好である。また、ここからでてくる帰結として、ギミック的芸術はジャンル逸脱的な傾向を持つ。ギミックはメディア固有性とは逆の方向にむかう傾向があり、たとえばギミック的な小説は、しばしばエッセイや戯曲などとの混交になる。 

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