批判的な考えや意見はスラスラ出てくる!
批判は簡単に出てくるぜ
noteやtwitterに文章を投稿するとき、否定的なことはできるだけ言うまい、という信念を持っている(あるいは持っていた(いや、元々別にnoteでもtwitterでも発信する頻度は高くないのだが……))。
なぜそんな信念を抱いているかというと、それを目にした他人を傷つけたり不快な思いをさせたりする可能性が高いからだ。
もちろん、肯定的な意見も誰かを不快にさせることはある。例えば、その人が大嫌いな人を僕が褒める文章を書いているのを目にしたら、「なんだよこいつ!あんな奴を褒めやがって!」みたいに思ったりする。
とはいえ、否定的なことを言って誰かを傷つける可能性の方が遥かに高いと思うので、言わないほうが社会的に良いことだろうなと思っている。
そう思っているにも関わらず、批判のなんと簡単に思いつくことか。
本を読めばこれがダメ!映画を観ればここがダメ!酒を飲めばあの同僚のここが悪い会社のここが悪い社会のここが悪い!SNSをひらけば、……もはや言うまでもないだろう。
人間とは批判を生むのがなんとまあ得意な動物なのだろうか。普通、アウトプットには一定の負荷(あるいはエネルギー、カロリーみたいなもの)が必要になる。「産みの苦しみ」とまでは言わないまでも、自分の考えや意見を創り出すのは本来容易なことでは無いはずなのに、これは一体どうしたことか。
批判は簡単で褒めるのは難しい?
僕が思うに、思考には傾斜のようなものがあって、ある方向への意見に対してはより負荷が少なく進んでいく。また一方で、ある方向への意見に対しては思考するだけでも負荷が高く、エネルギー消費が多くなる。
批判というのはすり鉢の底にホールのあるゴルフ場でパターをしているようなもので、ごくごく簡単なものだ。
なので気を抜くとすぐにそっちへ向かってしまう。なにしろあっという間に綺麗にホールに収まってカランコローン!気持ちがいい。
その上、思考が批判傾向にある人々は、批判自体を好むので割と安易に同意し、賛同してくれる。自分に無関係の批判さえも「全くその通り!」と頷いてくれる。こうして無い傷を舐め合う心地のいいサイクルが簡単に出来上がってしまう。
そもそも批判という言葉は良し悪しを判断するという意味であって、必ずしも否定的なことを述べることではないのだが、辞書を引いても今では一般的に否定を意味していると書いてある。ヒハンという音が悪いのかもしれない「否」とか「反」とかとか連想してしまいそうだ。それはそれとして、いつの間にか否定の意味が主になってしまうという言葉の意味の変化自体が人々の批判傾向の強さを裏付けている気がしてならない。人々が肯定を好むなら、批判という言葉の意味も「絶賛」みたいな意味になっていたかもしれない。流石にこれは妄想が逞しすぎるが。
批判=立場表明
「批判」という行為はどのように批判するかというその内容よりも、その立場を取ることのほうが重視されがちであり、「批判」=「批判的立場をとっていることを表明する」以上の意味を見出さない人がいっぱいいる気がする。
ここで僕が言いたいのは、「いやいや、立場の表明なんかよりも内容が大事でしょ!」という一般論ではなく、批判などというものは本来その程度のものかもしれないということだ。
僕の個人的な話になってしまうが、自分が何かを批判する時、その批判の発生の根元にあるのは、全く論理的ではない感情の動きだったりする。そしてそれを正当化するために後付けであーだこーだと理屈をつけ、批判をこねくりあげる。
「この映画はこんなところが悪く、その理由はこれこれで、監督はそのようなことにも気がつかないとは才能がない。また、こんな映画をありがたがるのは鑑賞中にろくすっぽ脳みそを使わないアホだけであろう」
と考える根本には、「俺この映画嫌い!」というプリミティブな感情がある。
思うに、世の中の批判の大半はもっと幼稚でどうしようもない個人的で反射的な感情の働きがあって、その後に理性的なフリをしてあーだこーだ言ってるだけなのだ。だからコネコネした長文の論理的批判なんかわざわざ受け取る必要はあんまりなくて、要は「俺これ嫌い!」「俺これ好き!」という鳴き声が飛び交っているだけなのかもしれない。
昨日は嫌いと鳴いていた鳥が、明日は好きと鳴いていて、周りが嫌いと鳴いているのを聞くと一緒に嫌いと鳴きたくなる猿がいる。
ここまでの文章で、僕はまだこの動物たちの鳴き声を否定も肯定もしていない。元々の意味での批判をしているだけだ。
あえて言えば否定的批判と肯定的批判なら、僕は否定的批判の方が好きだ。
なぜなら肯定は停滞であり、否定は前進につながるからだ。
何でもかんでも非難し合う言論空間には辟易するが、多分何でもかんでも肯定する言論空間よりはマシであろうと思う。
否定は現状の改変を生み出す原動力になる。我々人間が否定的批判を容易に思いつき、平気で口にするのは、現状に満足せず次へ次へと進もうとする本能的に備わった優れた機能の一端なのかもしれない。
最後に
映画や小説の感想文って、面白くなかった時の方が長くなりがちだ。そしてそういう文章を書いている時って妙な快感がある。まるで面白くなかった部分、欠損した部分を補うように、どんどん「自分」が出てくる。
一方面白かった映画を見終わった後は、自分の中から何も湧き上がってこない。「面白かった」の一言に尽きるというか、何も言いたくない……みたいな気持ちになることが多い気がする。
本当は面白かった映画や小説について語りたいのだが……。
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