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芥川龍之介『あばばばば』現代語訳


芥川龍之介

登場人物
・保吉(やすきち) …… 主人公。教師
・店主 …… 原文では主人。眇(すがめ)の主人。斜視。眇・斜視とは、黒目の方向が正面でない。若い眇の男性。
・小僧 …… 店員。
・女 …… 細君・途中から登場するメイン人物。

現代語訳: 西東 嶺(さいとう みね)
以下、本文です。


 保吉はこの店の主人をずっと前から知っている。
 ずっと以前から、――あるいは海軍学校に赴任した当日だったかもしれない。彼は、ふとこの店に寄った彼は、マッチを1つ買いに入った。店には小さい飾り窓があり、窓の中には、海軍の旗章を掲げた軍艦「三笠(みかさ)」の模型の周りにキュラソーの瓶やココアの缶、干しブドウの箱が並べてある。が、店の軒先には「たばこ」という赤い看板が出ているので、もちろんマッチも売ってないはずがない。彼は店の中を覗きこみながら、「マッチを1つください」と言った。店の前には、高い勘定台の後ろに若い斜視の男が一人、退屈そうに佇んでいる。その男が彼の顔を見ると、ソロバンを立てに構えたまま、にこりともせずに返事をした。
「これをお持ちなさい。あいにくマッチを切らしましたから。」
 お持ちなさいというのはタバコに添える一番小型のマッチである。
「いただくのは申し訳ありません。それでは、朝日を1つください」と彼は言った。
「なに、かまいません。お持ちなさい」と店員は言った。
「いや、まぁ朝日を1本ください」と彼は言った。
「持っていってください。これでよろしければ、――要らないものを買う必要はありません」と店員は言った。
斜視の店員の言葉は親切心に違いない。が、その声や顔色は不愛想を極めている。素直にもらうのは気が引ける。だからと言って、店を飛び出すのは相手に申し訳ない。保吉は仕方なく、勘定台の上に1銭の銅貨を1枚出した。
「じゃあ、そのマッチを2つください。」
「2つでも3つでもお持ちなさい。ですが、お代はいりません。」
その時、店の戸口に下げた金線サイダーという飲み物のポスターの陰から、ニキビだらけで表情が曖昧な小僧が首を出した。
「だんな、マッチはここにありますよ。」
保吉は内心で勝利を喜び、大きなマッチを1箱買った。代金はもちろん1銭だ。しかし、彼はこの時ほどマッチの美しさを感じたことはなかった。特に三角の波の上に帆を張った帆前船の商標は、額縁に入れてもいいぐらいである。彼はズボンのポケットの底へそのマッチを落としたあと、得意気にその店を後にした。……


 保吉は最近半年ほど、学校へ通う往復で度々この店へ買い物に寄ったもう今では目をつぶっても、ハッキリこの店を思い出すことが出来る。天井にぶら下がっているのは、鎌倉のハムに違いない。欄間(らんま)の色ガラスは漆喰塗りの壁に緑色の日の光を映している。板張りの床に散らかったのは、コンデンスド・ミルクの広告であろう。正面の柱には時計の下に大きな日めくりカレンダーがかかっている。その外飾り窓の中の軍艦「三笠(みかさ)」の模型も、金線サイダーのポスターも、椅子も、電話も、自転車も、スコットランドのウイスキーも、アメリカの乾燥ぶどうも、マニラの葉巻も、エジプトの紙巻も、燻製のニシンも、牛肉の大和煮も、ほとんど見覚えのないものはない。特に高い勘定台の後ろに仏頂面を晒した主人は、飽き飽きするほど見慣れている。いや、見慣れているばかりではない。彼はいかに咳をするか、いかに小僧に命令するか、ココア1缶を買うにしても「Fryよりもこちらを買いなさい。これはオランダのDrosteです」等と、いかに客を困らせるかよく知っている。――主人の一挙手一投足を全てとうに心得ている。心得ていることは悪いことではない。しかし、退屈なことは事実である。保吉は時々この店に来ると、妙に教師をしているのも久しいものだなと考へたりした。(その癖前にもいった通り、彼の教師の生活はまだ一年にもならなかったのである!)


 しかし、自然の法則である「変化」は、この店でも起こらずにはいられない。ある初夏の朝、保吉はこの店にタバコを買いに来た。店内はいつも通りで、床に散らばるコンデンスド・ミルクの広告も変わりはない。しかし、あの斜視の店主の代わりに勘定台の後ろに座っているのは、西洋風に髪を結った女性だった。年は19歳ぐらいであろう。正面から(En face)見ると、その顔は猫に似ている。日の光に瞳を細めた白猫に似ている。保吉は思わず彼女から目を離せなくなり、勘定台に近づいて言った。
「朝日を2つください」
「はい」
女の返事は、恥ずかしそうである。のみならず、渡されたのも朝日ではない。2つとも、箱の裏に旭日旗を描いた三笠である。保吉は思わずタバコから女の顔へ目を移した。同時にまた女の鼻の下に長い猫のヒゲを想像した。
「朝日を、――こりゃ朝日じゃない」
「あら、ほんとうに。――どうもすみません」
猫――いや、女は顔が赤くなった。この瞬間の感情の変化は本当に女の子らしい。しかも現代のお嬢さんではない。五六年前に絶えた硯友社の趣味の女の子である。保吉は小銭を探りながら、「たけくらべ」、乙鳥口の風呂敷包み、カキツバタ、両国、鏑木清方、――その他いろいろなものを思い出した。女はもちろんこの間も勘定台の下を覗きこんで、一生懸命に朝日を探していた。
すると奥から出てきたのは例の斜視な主人だった。主人は三笠を見ると、だいたい事情を察したようだった。今日も相変わらず苦しそうに、勘定台の下に手を入れると、朝日を二つ保吉に渡した。しかし、その目にはかすかにでも、微笑みらしいものが動いている。
「マッチは?」
女の目もまた猫のようで、喉を鳴らすように媚を帯びている。主人は返事をする代わりにちょっとだけ頷いた。女は咄嗟に(!)勘定台の上へ小型のマッチを一つ出した。それからもう一度恥ずかしそうに笑った。
「どうもすみません。」
すまないのは、朝日を出さずに三笠を出したばかりではなかった。保吉は二人を見比べながら、彼自身もいつか微笑したのを感じた。

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