見出し画像

僕が自死を選んだ夜について

 僕が5年ほど前に、自死を選んだ夜について書こうと思う。暗くて長い話なので、できれば明るい気持ちのときに読んでほしいです。はじめに、僕を全力で助けてくれたレスキュー隊のかた、お医者さん、看護師さん達には本当に感謝と罪悪感でいっぱいです。もう2度とやりません。皆さんもできれば自死を(もし選べるものならば)選ばないでください、理由としては「一瞬で後悔する」「死ぬほど苦しい」「多くの人が苦しむ」からです。それでも死にたいほど苦しい時ってあるよね。その気持ちは決して否定しません。

 僕が学生時代から10年ほど付き合っていた彼女と結婚して、3年目位のことだった、仕事があまりにも忙しく、昔から鬱っぽい性格で、常に仕事と人生に悩んでいた。土日も働き、帰りも遅く、睡眠薬で眠る日々が続き、そのせいか妻と話す時間も減ってしまっていた。
 そしてある日、妻が実家に帰ってしまった。僕は、毎日ラインで謝罪と戻ってきてほしい旨を伝えたが、僕への誹謗中傷が返って来た(ぐうの音もでなかった)。仕事の忙しさも相まって僕はひと月ほどまともに眠ることができなくなってしまっていた(睡眠薬もあまり効かなかった)。気づけば、人生に完全に絶望し、連日自殺の方法をインターネットで入念に調べていた。
 ある眠れない夜、気分転換にあてもなく自転車をこいでいると、遠方の実家に帰ったはずの妻が、都内の公園で男性と手をつないで楽しそうに話しているのを奇跡的に見つけてしまった。ドラマのワンシーンのようにスローモーションに見えた。
 僕の頭は真っ白になった。僕を見つけた妻も驚いた表情で、そして僕はわけもわからず逃げ出そうとした。男はいそいそとどこかへ消えていき、妻は僕の後を追って、気づけば僕たちの家にいて、妻は僕に罵詈雑言(これまでの嫌だったこと、僕の嫌いな部分)を浴びせていた。正直心当たりがありすぎて、反論もできなかった。
 そして、好きな人が出来たから別れてほしいと言われた。
 その瞬間、僕は入念に準備していた、とある薬を大量に服用した。致死量の10倍を超えていた。その瞬間全身が痙攣し、マーライオンのように口から色々な物を吐き出した。地獄の苦しみだった。息がうまくできず、心臓が爆発しそうだった。僕は後悔と絶望の波にのまれた。「こんなに苦しいの!?嘘でしょ!?え!?本当に死ぬの!?なんで僕はこんなことをしたのだろう!父さん母さん、ごめんなさい!」死を覚悟していたはずの、僕の頭の中はほんの一瞬で後悔の念でいっぱいになった。
 廊下でのたうちまわったあと、ほどなくして、口から血を吐き出しながら、全身がしびれて、息ができず、意識が遠のいていった。
 そのあとはおそらく妻の呼んだレスキュー隊に運ばれ、何度も名前を呼びかけられた、
「○○さん、起きてください!辛いねえ!頑張るんだよ!」
その度に僕は目を覚まし、そして地獄の苦痛を味わって気絶する、それを何度も繰り返した。正直、「起こさないでくれ、もう疲れたんだ」と思ったが、今思うとあそこで起きないと死んでいたのかもしれない。
 そこから色々な夢をみた。いわゆる走馬灯というものかもしれない。死んだ祖母と談笑をしたあと、金色の麦畑が広がり、空には星々が輝いていた。あまりに綺麗な景色で、ここが天国なんだと思った。気持ちよい風が吹いて、サワサワと麦の穂がゆれて、そよ風の心地よさを肌に感じた。鼻に抜ける爽やかな空気を本気で感じた。(ちなみに僕は宗教とか天国を一切信じていない、無神論者です)
 グラディエーターという映画で、主人公が最後に天国に行き、金色の麦畑の中で死んだ家族と再会するシーンがあるが、まさにそれと同じ景色だった。僕の記憶にそれが天国として植え付けられているのかもしれない。
 そういう夢を見るたびに、急に痛みやら吐き気などの苦痛が消えて、すーっと気持ち良くなり、幸福感を感じた。その瞬間にけたたましい音楽が鳴り響いて、僕は目を覚ました。そしてまた苦痛で気絶した。それを何度も何度も繰り返した。(多分僕の体は限界を迎えて脳内麻薬が放出されていたのだと思う。)
 気づくと僕は病院のICUにいた。お医者さんたちが何やら騒ぎながら、僕に心臓マッサージや投薬をしていた。横にあるバイタルサインを示す機械が音楽を鳴らしていた(何故かミッキーマウスマーチのように聞こえた)。ドラマで見たことのある機械だ。僕は激しい吐き気と絶望感に再び襲われた。口には人工呼吸器と、手首と股間に管が刺さっていた。全身が痙攣し、うまく呼吸ができず、喉はカラカラに渇いていた。地獄の続きが始まった。あまりの辛さに暴れようとしたが、手足がベッドに手錠のような拘束具でつながれていて、身動きが一切とれなかった(何度も暴れて管を抜いたために、拘束されたそうだ)。
 僕は地獄の苦痛を味わって、また意識を失い、再び夢を見た。心地よい気持ちになる。そしてまた音楽が鳴り目が覚める、地獄を味わい気絶する。これを10回ほど繰り返した。医者に何度か「殺してくれ」と懇願したが、「何言ってるんだよ!」と怒鳴り返されたりした。本当に申し訳ない。
 やっと僕は少しだけ息ができるようになり、気づけば人工呼吸器が外されていた。全身の感覚がなくなっていた。そして記憶もなくしていた。僕が誰なのかいまいち思い出せなかった。意識が朦朧としていた。
 周りを見渡すと、同室に5、6人ほどの患者がいた。おそらく交通事故で体が欠損して血だらけの人や、末期がんの人が横たわっていて、次々に亡くなっては家族が駆けつけて泣いていた。次々に人が入れ替わっていった。ああ、多分次は僕の番なのだと思った。
 そして僕の両親が現れた。厳格な父が僕に「疲れたよな、ゆっくり休むんだぞ」と聞いたことのない優しい声で話かけてくれた。僕はいよいよお別れなのだと思った。申し訳なさでいっぱいになり、泣きながら「ありがとう、さようなら、ごめんなさい」と伝えた。母は泣きながら「馬鹿なことをいうんじゃないよ」と言った。
 僕はその時本当にお別れなのだと思っていた。でも実際にはお医者さんや看護師さんたちの懸命な処置によって、奇跡的に容体が安定し、死の淵からよみがえっていた。僕はそれを母とお医者さんから聞いて、ものすごく安心した。本気で死のうと思っていたのに、僕はどうやら死にたくなかったみたいだ。
 そこからしばらく記憶障害が続いた。僕が何者なのか、何が起きてここに来たのかが思い出せなかったが、カウンセラーの先生が少しずつ僕に思い出させてくれた。僕は妻のことを思い出し、また絶望した。僕は死ななかっただけなんだ、そう思った。生きる希望も何もないと思った。
 1週間ほどして、僕は退院した(記憶が戻らなかったら精神病棟に送られていたらしい)。全身の筋肉を失い、車椅子で母が外に連れ出してくれた。僕は死ななかったことに感謝しながらも、何の希望も持てなかった。ただただ、僕は生き残った。家に帰り久々にご飯を食べたが、僕は箸を持ち上げることができなかった、磁石で机にくっついているのかと思った。箸ってこんなに重かったんだ。母親がしばらく自宅で看病してくれることになった。
 僕は毎日リハビリのために母と散歩に出た。初夏の日差しが眩しすぎて、目が開けられなかった。それに謎の後遺症として、世の中が全てスローモーションに見えて、体の動かし方がいまいちわからなかった。歩くことがこんなに難しいとは思わなかった。
 近くの河原沿いの遊歩道を母親とゆっくりと歩き、アイスクリームショップに行き、そこでバニラジェラートを買ってもらった。そこで食べたジェラートは今でも忘れられないくらい美味しくて、涙が出そうになるほど感動して、久しぶりに僕は笑顔になった。ああ生きているんだ、僕は。そう実感した。
 1週間ほどリハビリを繰り返し、幸いにも後遺症もほぼなく、筋肉も多少戻り、僕は出社した。(幸いにも有給をほぼ使っていなかったので、ただの有給消化で済んだ)
 親しい同僚に事情を話し、ある先輩は涙を流して悲しんでくれた。申し訳なかった。医者や両親は働くのはまだ早い、しばらく実家か地方の施設で療養をしてみてはどうか、と言われたが溜まっていた仕事に集中することで、妻のことを忘れられたのが救いだった。
 しばらくして妻と話し合いを重ね、離婚が成立した。あっけないものだった。僕は少しのお金を手に入れて、一人の生活を続けることになり、それから5年ほど幸いにも死ぬことなく生きている。

 最初にもお話ししましたが、本当に多くの人にご迷惑をおかけしました。ただ僕は誰かに迷惑をかけたくて自死を選んだのではなく、ただただこの世界からその瞬間に消えてなくなりたいほど辛かったのです。そして奇跡的に色々な偶然が重なり、死を選びました。でも本当に生きていて良かったと思っています。
 いまだに辛いこともたくさんあるけれど、あの時の痛みと後悔が心と身体に刻まれているので、僕は決して自死を選ぼうとは思いません。ただ「死にたいほど辛い」という感情は今でもたまにあります。その気持ちは決して否定せず、「死にたいほど疲れたよね、少し休もうか」そういって大事に包んであげるようにしています。
 長文になりました、ここまで読んでくれた方がどうか自死を選ぶことなく、どんなに苦しくとも、ただただ生きていてくれることを祈ります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?