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変形のもの

無農薬で育った大根が並んでいた。てんでに個性的な姿をしている。

不揃いな大根たち

どこか人体に似た意味ありげな造形に見えたりもして、笑みを誘うが、市場には出ないそれらは、廃棄されるか、売られるにしても価格は安価だ。

こういうのを変形野菜というらしい。なぜそんな風になるのかを調べると、こんな文章に出会う。


変形野菜ができるのには、いくつかの原因があります。たとえば、根菜が二股以上に分かれて変形することを股根といいますが、その原因は成長する途中で先端にある「生長点」に障害が起こったためだと考えられます。この生長点に異物があると、二股以上に分かれて成長してしまいます。これを避けるには、土づくりの際、深いところまでしっかりと掘り起こし、石や土のかたまりを取り除いておく必要があります。また、完熟していない堆肥も障害になるので、しっかりと分解させてから植えることが大切です。その際、肥料が多すぎると完熟しないものが残る可能性があり、少なくても栄養不足になってしまうので、量にも注意が必要になります。

https://agri.mynavi.jp/2018_05_15_25296/

「成長点に障害」という言葉が心に残る。

この大根たちは真っ直ぐ伸びようとして伸びられなかったんだな。

伸び伸び好き勝手にその形になったのではなく、その形にならざるを得なかったのだと知る。

先がいくつもに別れた大根の形は、容易ではなかった生育歴のそれなのだと。

市場は普通の大根を求めている。白くて丸くて真っ直ぐで先が自然に窄まっている大根。同じ大きさに揃って、みずみずしくはりきった大根。

その生育環境に成長点を妨げる何の障害もなく、ストレスなく、ひたすらに下は下へ伸びた大根。

それが売れる大根、多くの人に求められる大根。変な形じゃない大根。

同じ種を同じ土で育てても、それぞれ個性的になるのが面白いところ。
こういう面白い形の野菜は、子どもたちのいるお客さんには特に喜ばれます。
だけど、一般的な農業(規格品を作る)だと、形が個性的になるのはマイナス。
等級が下がるか、最悪商品に出来ず捨てられる。
だから、決まった作り方をして同じタイミングで同じ形質のものが安定的に作れる種や栽培方法が求められる。
それが悪いというわけじゃなく、今の社会の仕組みや価値観では必要だからあるわけです。

https://piece-for-you.org/blog/340

この文にあるように、人間の都合で作物の価値が決まる。それは多数決のようなもので、みんながこれがいいというから、ということだ。

そんな環境だったからそんな形になった。そしたらその形が気に食わないという。

そのことは、幸田文さんの「木」というエッセイに出てくるアテという言葉を思い起こさせる。

こぶを抱えたもの、ねじれのきたもの、曲ったもの等々変形の箇所をもつ木は珍しくない。
それをアテと呼んで、使いものにならぬ役立たずの、やっかい物なのだという
アテはよくないもの、悪いものとして、なにか最低の等級にも入れられない、それ以下のものとされているようにきこえた。
「なぜなんでしょうだってその曲りやゆがみは、いわば力ではないんですか。それあったが故に、木は折れも倒れもせずに生きてきたんじゃないんですか」
「そうです、木が生きていた時はね。しかし材とするとき、アテはどう救いたくても救えない、最も悪い欠点です」
「そんなに けなしつけるとは、あんまりひどい。さんざ辛い目を我慢して頑張ってきたというのに、やっかい者だの役立たずだのと、なぜそんな冷淡なことをいうんでしょう。木の身になってごらんなさい、恨めしくて、くやし涙がこぼれます」
心の中がアテの悲しさでいっぱいになりながら、林の道を進んだ。アテの木ばかりが目につく
気楽にのんびりして見えるアテは、一本もなかった
アテはどれも醜さをさらしたまま、苛酷な重量に堪えているかのようだった

(「木」については感想文をあげている。
https://note.com/bunbukuro/n/n94f8d8548c5a?magazine_key=m994686425533)

その傷や障害物は避けようなく襲いかかってくる外からの攻撃のようなものだ。

そこで傷つきながらもなんとか生き抜き、育ってきたが、それでも真っ直ぐ伸びることのできなかったものたちの姿を、変形とひとは呼び、価値のないもののように扱う。それが当たり前のこと、という顔をして。

幸田文さんがそうしたように、そこに、ひとのいきざまに重ねた時、その意味の深さにはっとさせられる。

傷を抱えて蹲るひとの姿を思い浮かべてみる。そこには先天的な欠損や体質、病いがあり、生きていくなかでのさまざまな摩擦や災厄がもたらす痛みがある。真っ直ぐに立ち真っ直ぐに歩き、真っ直ぐに進んで行けない現実。

うちの家族はみなこれまでのどこかでそんなふうに蹲ってきた。

幼稚園や進学校や職場などの環境、生い立ちや病気は幾度となくわれらの成長点を阻害してきた。圧をかけられたこころは静かに変形していく。もうそこには居られない、と思わされることも少なくなかった。

あたしは悪性の腫瘍で顎の関節を取った変形の人間だ。再生手術をしていないから、へこんだ頬は異形と言えば異形だ。そしてかみあわせが不自由な口の中はまさにバラリンピックだ。

ひとがひととして生きるかたちの多様性は認められてきているが、それは理想としての理念であり、やはり、欠けているもの、過剰すぎるもの、機能を失っているもの、水準に満たないもの、平均値から遠く離れたものは、異端視されるのも現実だ。

ひとは自分より下のものを見つけると、自分が高いところにいけたような錯覚に陥る場合がある。マウントを取る快感を知ってしまう。こころない視線や言葉でそれを確かなものにする。そうやって階層の中での自身の満たされない思いを埋めようとしたりもする。ひとのなかにはそういう部分がある。

普通じゃないから。みんなとおなじじゃないから。変わったかたちだから、とか、そういう生きづらさを抱えて、マウントを取られてその風下に立つものは可哀想なのかもしれない。残念ながら、そういう視点もある。

それでも、と変形のものは負け惜しみを考える。

一戦を交えようもいうわけではない。ただ、無神経で傲慢なひとたちの風下で、小さくなって震えてばかりではいられないのだ。負けてばかりはいられない。

そのマウントを払いのけ、ここに生きている自分の今を肯定しなければ、生まれてきた甲斐がないから。

言っておくが、どんな順風満帆に見える人生にも、それなりの生きづらさはふりかかってくる。変形への道は落とし穴のように突然で予測不能だ。

なんの前触れもなく理不尽な出来事で、真っ直ぐな道が閉ざされ、打ちのめされる可能性は、どこにでも、だれにでもある。マウントの階層のどのエリアに居ようとも、だ。

変形のものが重ねてきたたくさんのつらい経験値は、どう生きても、そういうことは起こりうるのだと教える。

なんでやねん!と腹を立てても悲しみに暮れても、起こったことは覆らない。いやおうなく変形したものは元には戻らない。現実とはそういうものだ。

だとしたらどうする?と思案する。これが大事だ。これができるがどうかが、分かれ道だ、と実感している。

愚策であろうが、馬鹿げたかんがえであろうが、行って戻って、後退してまた進む、そんな思案を巡らす。

逃げるか?闘うか?誤魔化すか?忘れるか?納得の行くラインまで巡り続ける。

その時点でなにか最良のことなのか、なんてわかりようがないが、とりあえず、今の最良を選ぶ。最良だと信じて、重い足取りでも少しづつ自分を前に運ぶ。

その積み重ねがまたあらたな変形を生むことになるかもしれない。それでも、その時の精一杯は自分を支える。

伸びた先に障害物があった大根は、自分のさだめを引き受けて、その先が幾つに分かれようとも、育っていこうとする。

つまり、それが変形のちからだ。あらがえない現実にそうやって立ち向かって行く。それはたくましさのあかし。

不思議なことに、ある時ふっと視点が変わることがある。これ、反対から見たらどうやろ?と。

同じ形の大根のなかにユーモラスな変形大根がある。人を和ませる、こんなん見たことないなという、唯一無二という視点。これ、ええやん、となる。

外科手術を受けたがん患者は少なからず身体の一部を切り取られ、欠けたひとになる。が、そこで視点を変えれば、それは生きるための戦いに勇敢に立ち向かったひとの勲章なのだ。がんばったひとやもんな。

勝つことが心苦しくて負けることを選び、だれかを傷つけるより、自分が傷つくほうを選ぶこころの優しさは、えらくしんどい生き方だけど、それに触れて理解できるひとにとっては、このうえない励ましだ。

作文を書いていると、変形のものの境遇は、下世話な言葉でいえば、ネタになる。書くべきものの核がそこにある。ありきたりの日々を超えるものを内包している。

ある意味、変形を生きるもののすごさは、それに耐えて生き続けているちからであり、また、そのうえで、そういう痛みをかかえたひとのことを慮ることができることではないだろうか。

それならば、変形のものは、ちがう土俵で行司の勝ち名乗りをうけているかもしれないとにやりとする。

先にそうなった、変形のもののひとりごと。















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