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ページを繰りながら、残り少ないことをさびしく思う本がある。

あたしはよき読み手ではないので、そんな幸福なめぐり合いはあまり多くはないのだが、今、手の中にある幸田文さんの「木」という文庫本は、わたしにとってはまさにそういう本だ。

不遜なことなんだけれど、同じことを自分が書くとして、こういう言葉を選べるだろうか、そんな思いでページをめくってみると、言葉の研ぎ方というのか、鍛え方というのか、そういうものの精進がうかがわれて、くらくらしてくる。文章の進む道筋のいたるところでほころんでいるそれらの言葉の瑞々しい咲きようにこころを奪われている。

川上弘美さんの擬態語に感じたような新鮮さが
1904年生まれの幸田文さんの筆の流れのなかに煌いていて、たまらなくわくわくしてくる。

「伐りそろえられた大木が、ずくんずくんとならべてある」
「1本ずつの木が、ひよひよと生きている」
「あぶなあぶなでやっとあえた屋久杉」
「だいぶウジャジャケていた」

ああ、肩肘はらない、あたりまえのようなこの言葉にはこんな使い方があったのか、それはこんなにこころをこめられる言葉であったのか、こんなにもあたたかく響くのか、こんなにも切なく染まるのか・・・、そうかあそうかあとサイドラインを引いていると、ページの色がペンの色に変わってしまう。

そんな言葉を摘み取って道草を食いながら進んでも、残りのページがだんだんうすっぺらくなっていく。もっともっととせがんでいる。

人生の老境にある作者が見つめる木には、人生の投影がある。それは、作者自身の命のありようでもあるし、同じ地球に生れ落ち、生き、死に行く定めをともに持つものとしての心の通い合いでもある。

倒木の上に落ちた種だけが発芽し育っていくというえぞ松の更新。朽ち果てた木の養分で、新しい木が育つ。だからその松は一列に並んではえる。それは倒木の死の形だ。受け継がれていく命のうれしさ、きびしさ。

天に向かってまっすぐ育つヒノキにも、材として使い物にならない役立たずの厄介ものがある。それをアテという。成長過程にまっすぐ伸びられない障害があった木である。


それは過酷な環境で忍耐強く生きてきた木であるのだが、材としては「どうしようもないたちの悪さ」と言われる。

幸田文さんはこんな風に書く。

「アテの木というものが、よそにはすぐに察しのつかないような、
微妙にいり組んだ苦労を重ねながら、生きてきたということだろうか。
ということは、木というものが、
外側をさりげなく繕っていくことのできるものだということであり、
同時に、木は一度傷をうけると、終生その傷のいたみを、
体内に抱えて暮らすものだということになるだろうか。
木は中心から肥え育つものではなく、
つねに外へ外へと、新しく年輪をふやすことによって育つ・・・
外へ外へと申請するから、傷も、傷に連鎖して生じた狂いも、
年月とともに内へ内へとくるむのだろう。
くるむ、とはやさしい情をふくむことである。
中身をいたわり、庇い、外からの災いの防ぎ役もかねるのが、くるみということ。
生きているものは人も鳥もけものもみな、
傷にはくるみを要する・・・」

だからよけいにアテの癖は固くなってもいくのだが、そういう切なさを人にひきつけて、しみじみと感じさせてくれる文章だ。

そんなふうに木を見つめながら、幸田文さんは人間の業のようなもの、生き死にのことわりのありのままを感じ取って、これしかないという言葉にして伝えてくれている。

荒地にさきがけとして根を下ろす柳やグミは後続が繁茂すれば姿を消す。たおやかに艶やかにそよぐ柳の逞しさ。

絶壁のもみじのはなし、西岡さんとの交流
、桜の木肌のこと、こぶこぶのはなし。

どれもこれも、木について語りながら、生きることの不可思議さに思いを馳せている。わずかになった残りを読み残したまま、また、最初のページを開いている。

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