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#連作短編小説
ざつぼくりん 57「永遠のかくれんぼⅠ」
古書店「雑木林(ざつぼくりん)」の木戸には今日も木札がかかっている。そこに書かれた店主カンさん自筆のにょろにょろとした筆文字は「永遠のかくれんぼをしています」と読める。
年が明けてから、絹子は何度か「雑木林」に立ち寄ったが、いつもこの木札が下がっていた。拳で木戸を叩き幾度もカンさんの名を呼んだが木戸が開くことはなかった。
気になりつつも致し方なく、連絡がつかないまま日が過ぎた。しかし、今日はも
ざつぼくりん 56「わたこⅣ」
「こうじぃー」
人気のない夜の公園に吹く風に混じって、多樹の声が響く。絹子はその近くの暗がりにまぎれて、いささか息を切らしながら、耳をすましている。
多樹は絹子がトイレに行っている隙に家を出た。十時を少し過ぎていた。気がつくと「わたこ」もいないし懐中電灯もなかった。見事に姿を消した。
絹子は前もって事情を説明しておいたカンさんに電話で沙樹の番をお願いした。電話口で「してやられました」という絹
ざつぼくりん 55「わたこⅢ」
「今の多樹ちゃんの気持ち、わかるような気がしますよ。……大切なひとがいなくなったら、そう思うしかないって時がありますから……わたし自身の経験もありますが、たくさんのかたのお話をうかがってきて、そう感じています」
「ああ、そうなんですか。そういうかたのお話を聞いてらっしゃるんですか?」
「ええ、まあ……十五年ほどやってます。病気とか事故とか、情況はいろいろですが、家族を亡くしたかたのお話を聞く機
ざつぼくりん 54「わたこⅡ」
翌朝、玄関で時生を見送る沙樹が訊いた。
「とうさんは春休みもお仕事なの?」
「ああ、新しく入学してくる一年生のための準備しに行くんだよ」
「ふーん。つまらないなあ。……いってらっしゃい」
父親っ子の沙樹はすこし残念そうな顔になる。その傍らで眠そうな顔の多樹は「とうさん、今日は早く帰ってくるの?」と訊ねる。
「いや、残念ながらご用があってちょっと遅くなるかもしれない。いっしょにご飯食べられな
ざつぼくりん 53「わたこⅠ」
寝静まったはずのふたごの子供部屋でなにやら気配がした。時計を見ると十時半だ。絹子が子供部屋のドアをあけると、抱き人形といっしょに寝ている沙樹の寝顔が浮かぶ。時生譲りのくせ毛が枕の上で跳ねている。飛び出した手を布団に入れて二段ベッドの上の段を見ると、多樹の布団がこんもりと盛り上がっていた。
――ねえ、わたこ。いっしょにいこうね。いつって、あしたの夜だよ。やくそくしたじゃない。だめだめ、沙樹ちゃんに
ざつぼくりん 52「次郎Ⅴ」
ふいに木枯らしの音が押し寄せ、吹き続ける風の音はダイニングに満ちる。志津は膝に目を落として、ずっと風の音を聞いているようにみえる。
「……こんな息づかいだったの、ずっと」
うつむいたまま志津は低い声で話し始めた。次郎はだまって聴く。
「……木枯らしみたいに、ひゅうひゅうって重たい息だった。孝蔵さん、肺がだめになってたからいつも苦しそうで……来る日も来る日もこの家にはこんな風が吹いてた……
ざつぼくりん 51「次郎Ⅳ」
「孝蔵さんは自分のだいじなひと、たくさん亡くしてるの。わたしもそうだけど、早く親亡くして身寄りがなくてね。安心して寄りかかる人のいない暮らしのつらさは若いときから身にしみてるひとだったから、若い子のことが心配だったんでしょうね。……だから勉ちゃんが事故起こしたときは孝蔵さん、ほんとにものすごく怒ったのよ」
「はー、そうでしたか」
後にひとりむすこの純一もバイクに乗っているときに事故にあい、いの
ざつぼくりん 50「次郎Ⅲ」
坂の途中にその家はあった。二回乗り換えして一時間余りかかった。所番地を確かめ手になじんだ地図帳を閉じる。板塀からのぞく植木の細枝が木枯らしに吹かれ、しなっている。さぶいな、と次郎は首をすくめる。木戸の脇に木の表札がある。沢村孝蔵。かっちりとした筆文字だ。何事もおこらなかったかのようにかつてのあるじの名がそこにある。男名前の表札がいらぬトラブルを未然に防いでくれることもある。今はもうここにはいないひ
もっとみるざつぼくりん 49「次郎Ⅱ」
「さてと……仕事の話をしようかね。勉ちゃん、うちの『いとでんわ』をいったいどこへつなげたいんだい?」
「あ、それそれ。品川の手前まで行ってもらいたいんだよ」
「品川かあ。ちょっとまってくれ」
次郎は美術本の並ぶ隅の本棚から小さな赤い地図帳を取ってページをめくる。東京二十三区という背表紙の文字がかろうじて読めるが、角が擦り切れどこも傷んでいる。
「東京行くときはいっつもそれだね。そいつ、ほんと
ざつぼくりん 48「次郎Ⅰ」
「ごめんよー。ジロさん、いるかい?」
母屋から聞こえてくるあの割れた声の持ち主は勉だ。わが町の消防団の班長さんの声はやたらでかい。
「あ、勉さんいらっしゃい。今日はなんだか急に寒いですねえ」
由布が迎える。
「べんちゃーん、いらっちゃーい」
藤太の声も聞こえる。藤太はどうもサ行の発音がうまくない。
「おう、暖冬とはいえ、さすがに大寒だもんな。おい、藤太、おまえは風邪もひかねえで元気そう
ざつぼくりん 47「虫食いⅢ」
気がつくとベンチに座る志津の足元に黒猫が寄ってきていた。植え込みの低木から出てきたのだろう。飼い主を持たない猫たちは、ここで猫好きの老婦人たちにえさをもらっている。黒猫は「にゃあ」と鳴いて志津の足に体をこすり付けるようにしてまとわりつく。人懐っこい様子だ。どこかの家でそんな風に甘えた記憶を持つのだろうか。こうやって、今も、失ったぬくもりを探しているのだろうか。黒猫の毛の感触が足に残り、互いの体温が
もっとみるざつぼくりん 46「虫食いⅡ」
そういえば早いもので、絹子の姪の華子も来年は高校生だ。うまく食事がとれなくてうつむくちいさなやせっぽっちの十歳の華子。欠けることない家族に囲まれながら、居心地の悪い日々を送っていたのだと時生から聞いていた。
孝蔵夫婦の家に華子がやってきて、いっしょに台所にたった日のことをうれしく思い出す。おんなのこを持たなかったから、というばかりではない。料理の手順を教えていると、家のなかで自分の為してきた細か
ざつぼくりん 45「虫食いⅠ」
厳冬だった去年の記憶がそう思わせるのかもしれないが、十二月も下旬だというのに、今年はなんだかあたたかい。今日は日差しこそないが風はなく冷え込みもしない。季節が身動きを止めたような一日だ。
曇天の昼下がり、志津はひとり「引き込み運河」沿いの遊歩道を行く。群れたゆりかもめが運河の水面をかすめて飛んでいくのが見える。飛んでいったかと思うと、短く鳴き声をあげながら、繋留された船のそばのほそいコンクリート