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ざつぼくりん 57「永遠のかくれんぼⅠ」

古書店「雑木林(ざつぼくりん)」の木戸には今日も木札がかかっている。そこに書かれた店主カンさん自筆のにょろにょろとした筆文字は「永遠のかくれんぼをしています」と読める。

年が明けてから、絹子は何度か「雑木林」に立ち寄ったが、いつもこの木札が下がっていた。拳で木戸を叩き幾度もカンさんの名を呼んだが木戸が開くことはなかった。

気になりつつも致し方なく、連絡がつかないまま日が過ぎた。しかし、今日はもうお彼岸である。時生が大きな声でカンさんを呼ぶ。

「カ・ン・さーん、孝蔵さんのお墓参りにいきましょう」
そのとなりで絹子も「カンさーん」と呼びかける。

その声をカンさんに届ける伝言ゲームのように、松や竹、枇杷の木など野放図に伸びた庭の木々が、おっとりとした春の風になびいて、漣に似た葉音をたて続ける。木戸のむこうではしょぼしょぼと生え始めた下草が気持ちだけでもなびいているにちがいない。

皆は耳をすまして返事を待ってみるが、葉音ばかりが聞こえて、肝心のカンさんの気配がしない。いつもならそろそろ木戸へ向ってくる下駄の音がきこえてくるはずなのに。

「カンさんたら、聞こえないのかしら。」

春休みになって、ひさしぶりにこの町にやってきた高校生の華子も案じ顔だ。肩に垂らしたまっすぐな髪が風になびいている。ふたごと手を繋いでいると、背が伸びてずいぶん大人びてきたなと感じる。

「ほんとにカンさん、どうかしたのかしら」

絹子の後ろで、おはぎの入った風呂敷包みを抱えた志津が思案顔になって気を揉む。

「お出かけなんでしょうかね」

志津の傍らの次郎はそう言うと、珍しそうに「雑木林」の古びた佇まいに目をやる。板塀から溢れるように枝を伸ばす木々を見てから、目を空に転じる。春の空はこころもとなげに淡い。

去年の夏、孝蔵の一周忌が過ぎたころから、カンさんの様子がおかしくなった。誰かが声を掛けると、はっと我に帰るのだけれど、しばらくするとまたぼんやりとしてしまう。視線はだれと交差することもなく、なにを見るでもなくただ目の前のものを網膜に映しているだけのようだった。

「雑木林」の縁側に腰掛け、掌に載せた蝉の抜け殻や茶色く色を変えた落ち葉を、日がな一日眺めていることもあった。それはたましいのありどころをなくしたひとのようだった。いや、以前のカンさんを知るひとなら、そのうつろさを不思議とはおもわないだろう。絶えず自分はどこで果ててもいいのだというような危うさを漂わせていたのだから。

が、誰もが認めるように、華子とふたごがやってきてからカンさんは変わった。傷ついた華子をいたわることで、カンさんの奥底で固く閉じられていた木戸が開いた。ふたごは生まれてきたことで、その庭にふりそそぐ陽射しのようにカンさんを明るく照らし、過ぎた日の薄闇を忘れさせた。孝蔵とともに添え木のようにふたごを支える日々は、同時にカンさんをも支えてきた。

その孝蔵がいなくなって、時が巻きもどってしまったのかもしれない。砂で作った像がすこしずつ風にさらわれてその輪郭を失っていくように、ここにいるカンさんの存在が徐々に希薄になっていく感じを、カンさんを知るだれもが胸騒ぎのように抱いていた。

やつれが目立った志津もこのところようやく回復してきている。頬がこころもち丸くなった。気持ちの余裕も生まれてきたらしく、そんなカンさんを案じて、次郎に傾聴を依頼した。「いとでんわ」の仕事だ。

話すひとに笑顔が戻ってくれば「いとでんわ」の仕事は終わり、その糸はいったん切れてしまうのだけれど、またいつか、笑顔が消えたところへと繋げられる。次郎の仕事はしりとりのように口コミで次の依頼へと繋がっていく。

しかし、今回は志津からカンさんへの連絡がうまくいかない。その事情を聞いて、カンさんのところへ行くのならわたしが案内する、と絹子が名乗りを上げた。次郎ひとりでは木札のかかってる「雑木林」に入ることはできないだろうし、今のカンさんがすんなり次郎の出現を受け入れるとも思えなかったからだ。

それじゃ、お彼岸でもあるし、みんなで孝蔵さんのお墓参りに行くことにして、カンさんをさそってみたらどうでしょうね、そこで次郎さんを紹介すればうまくいくかもしれないから、と時生が提案した。そうしましょうとうなづいて、ふたごを含めた総勢七人が「雑木林」へやってきて、天照大神の出現を待つ民のような気分で木戸の前に立っている。


読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️