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ざつぼくりん 51「次郎Ⅳ」

「孝蔵さんは自分のだいじなひと、たくさん亡くしてるの。わたしもそうだけど、早く親亡くして身寄りがなくてね。安心して寄りかかる人のいない暮らしのつらさは若いときから身にしみてるひとだったから、若い子のことが心配だったんでしょうね。……だから勉ちゃんが事故起こしたときは孝蔵さん、ほんとにものすごく怒ったのよ」

「はー、そうでしたか」

後にひとりむすこの純一もバイクに乗っているときに事故にあい、いのちを落としていることを次郎は知っている。

「そうよ。その声でわたしのほうが飛び上がっちゃったくらい。勉ちゃん、いのちが助かっただけでもありがたいんだけど、それでも足がああなっちゃって鳶の仕事できなくなっちゃったでしょう? つらかったと思うわ」

「はい、僕もそう思います」

「ここにきて、いつもはみせたことのないような緊張した顔つきで、極楽寺へ帰って百姓になって野菜を作るって言い出したときは、胸が痛かったわ。孝蔵さん、勉ちゃんの気持ちを思ってこっそり泣いてたもん。ほんとにかわいそうでね」

志津の声が震える。眸もうるみはじめる。それを隠すように志津はすっと視線をずらして庭を見る。志津の高ぶる思いを静めるかのように、木の葉は繰り返す波に似た動きで揺れ続けている。油断をしていると不意打ちを食らわすようにぬっと姿をあらわす哀しみがある。過ぎた時間は笑顔も涙も抱え込んで帰ってくる。

次郎は出された茶を啜って一息つく。丁寧に淹れた日本茶のとろりとした甘みが舌の上にひろがる。想い出はそのあまやかさの代償にたいせつなひとの不在を突きつけてくる。

ありのままの今があまりにつらいと、ひとは本能的に目をつぶってしまう。そうやってこころから締め出してしまう。欠けたものなど何もないのだと思いたい。目をつぶったまま、感情がほとばしらないようにこころの元栓をしっかり締めてしまう。息を殺すように、なににたいしてもこころをうごかさないようにする。そうしないと暮らしていけない。

母親を亡くした由布のそばで、どのくらいそんな暮らしを送っただろうと次郎は振り返る。生きている人間の死んだような時間だった。長い長いトンネルだった。死んでしまった妻の思い出と対峙して、ほんとうにいなくなってしまったと認めること、そこにいたるまでの道筋が長かった。

そのトンネルを抜け出すには、堰きとめられている感情を一旦はあふれさせなければならなかった。傷み、怒り、嘆き、謗り、僻み、妬み、うつろさ、つめたさ、こころもとなさ、さびしさ、かなしさ。次々に湧きおこる感情の奔流に押し流され、もみくちゃになってあがいてもうどうしていいかわからないという時期があった。そのさなかにいながら、ふっと、そんな自分だから出来ることがあるはずだと思えたとき、次郎はトンネルの出口に立っていた。

志津も湯呑みに手を伸ばし、手のひらにのせる。その普段づかいの湯呑みのなかに楽しかった過去へむかう入り口があるかのように、愛しげに見つめたまま動かない。物が孕むものがたりは余人にはうかがいしれない。

「あの、勉ちゃんはしばらくこっちにいて、リハビリに通いながら、木工のことをこちらのご主人にいろいろ教わったって聞きました」

姿をあらわした時間の尻尾を掴んでぐいっと引き出してみる。

「ああ、そうだったわね……」

志津は我に帰ったように、湯呑みを置いて話し始める。

「便利屋って呼ばれたっていいから、こまかい家の修理がひととおりきちんとできるようになってから、極楽寺へ帰れっていってね、しばらくうちに通わせてたの。生活のための手間賃のこともあるけど、そういうことで地域のひとの役にたてるからな、そうやってみなさんに可愛がってもらえって、孝蔵さん、くり返し言ってた」

「可愛がってもらえ……ですか」

「そう、怪我して出戻る身の立て方を教えてたのよね。そういうひとなの……それと、それだけじゃおまえ自身がさびしいから、自分のために木の細工ものも作れるようになっとけって言ってたわ」

「自分のために?」
「ええ、頼まれ仕事ばっかりしてると気持ちが窮屈になってくるからなって」

その言葉は次郎を突き刺す、次郎自身が今痛いほど身にしみて感じていることだ。話を聞けば聞くほど孝蔵というおとこの遺した足跡の深さに驚く。

「勉ちゃん、この庭先で大きな背中曲げて鉋かけてた。」

志津が縁側のガラス戸を指差す。

「孝蔵さん、現場で出すみたいな大声で、ばかやろう、どこに目つけてんだー、やりなおし!って何回言ったかしらね。……そりゃあもう、スパルタだったわね……見てるほうがつらいくらいだった……足がいけねえことにあまえんな、おめえの一生のことだからちゃんと身につけろ、半端仕事は俺がゆるさねえって……孝蔵さん……休みの日にはつきっきりでね。勉ちゃんもほんとにがんばったのよ。えらかったわ。あ、そうそう……」

急に立ち上がった志津は小引き出しから何か持ってきて、テーブルに置いた。木製のひまわりのブローチだった。時を経たニスが鈍く光っている。

「これ、勉ちゃんが初めてつくったものよ。わたしにくれたの。わたしの生まれが夏だからひまわりなんだって。ちょっとごつごつしてるけど、かわいいでしょ?」

次郎は大小三輪のひまわりが配置されたブローチを手にとってみる。裏返してみると、ちいさくBENと彫ってある。

「勉ちゃんはけっこう繊細だし、センスありますよね」

「そうなのよ。体が大きいから誤解されるけど、けっこう細かい心遣いのできる子なのよね。城島さんみたいにわかってくれるひとがご近所にいてよかったわ」

いや、勉がいてくれてたすかったのは次郎のほうだ。

「勉ちゃんがこれを作ってくれた直ぐ後だったかしらね、もう俺が教えるこたあなんもないよ、あとはやりながら工夫していけって孝蔵さんが言ったの。そのときの勉ちゃんの顔、迷子になったこどもみたいだった。きっと不安だったのよね……でも帰っていく勉ちゃんを見送った孝蔵さんの顔もつらそうだった……孝蔵さんもそういうときはほんとにこどもみたいな顔になるの……おとこのひとはみんなそうなのかしらね」

また志津が視線をそらし、まげた指の背を鼻に当てうつむく。おんなのひとだってそうです、という言葉を次郎は飲み込む。勉の足音が次郎の耳の奥でくりかえし響く。気がつくと次郎の視界も曇っていた。想いが遠くさすらうと言葉が消える。しかし次郎はあえて口を開かない。

柱時計が沈黙の時間を刻む。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️