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ざつぼくりん 52「次郎Ⅴ」

ふいに木枯らしの音が押し寄せ、吹き続ける風の音はダイニングに満ちる。志津は膝に目を落として、ずっと風の音を聞いているようにみえる。  

「……こんな息づかいだったの、ずっと」

うつむいたまま志津は低い声で話し始めた。次郎はだまって聴く。

「……木枯らしみたいに、ひゅうひゅうって重たい息だった。孝蔵さん、肺がだめになってたからいつも苦しそうで……来る日も来る日もこの家にはこんな風が吹いてた……この音を聞いているのもつらかったわ……」

「うん」

次郎は小さくうなづく。いとでんわが志津とつながった。そう感じた。

「……毎日毎日この音を聞きながら寝入って、目が覚めるとこの音が耳に飛び込んできた。……ひとりで買い物に出ても耳の中で孝蔵さんが息をしてた」

うつむいたまま話す志津の声がだんだん大きくなっていく。

「……あまりにつらそうで、時々耳をふさぎたくなることもあった。でもその苦しい息が孝蔵さんの生きてる証拠だった……それが聞こえなくなることは、孝蔵さんがいなくなるってことだった……」

志津が口ごもると部屋には時計の音と風の音が戻ってくる。

「孝蔵さんには生きていてほしかった。でも苦しいのはかわいそうだった……楽にしてあげたかったけど、でも生きていてほしかった……ずっとわたしといっしょにいてほしかった……ひとりになるのがこわかった」

「そうだよね……ひとりになるのは……置いてかれるのは……こわいよねえ」

次郎の途切れがちな声を聞くと志津は顔あげ、次郎のほうを向いて話はじめた。

「そう、わたしひとり、置いていかれるのがこわかったの。ものすごくこわかった……」

次郎は志津の目を見て、だまってうなづく。

「体が弱りきってて、お医者さんに最悪のことも考えておいてくださいって言われて、覚悟しなくちゃって思って、覚悟したはずなのに……なのに……」

「うん……志津さん、それはほんとに……ほんとに、つらい覚悟だものねえ」

次郎の言葉に志津の頬を涙が伝う。あとからあとからあふれて流れる。それを拭おうともせず志津は話し続ける

「わたし……純一がトラックにはねられて死んだときは、あまりに突然でなにがなんだかわからなかった。暑かったあの夏の日に、突然純一がいなくなってしまって……うそみたいに消えてしまって……大事な大事な純一が、いくらさがしてもこの世のどこにもいなくて……他の子はみんな元気で毎日学校へ行ってるのに、純一だけがいなくて……自分のこころに穴があいたみたいな気持ちになった……」

志津の声が震える。肩も震え、嗚咽がもれる。

「そうかあ……それは……つらかったねえ、志津さん……ほんとに……つらかったねえ」

次郎はそんな言葉を何度も繰り返す。志津は唇に力をいれて息を整える。

「ええ……でもそれは、だんだんに純一はどこかに出かけているだけで、きっといつかわたしのところへ帰ってきてくれるんだって思うようになって、気持ちが楽になった。……だから孝蔵さんとふたりでずっと待ってようって思った」

「うん」

由布が亭主を船の事故で亡くしたとき、同じことを言った。

――あのひとはまだ太平洋の波の上にいるのよ。きっと、ちゃんと、帰ってくるから、わたし、待ってる。

難病で長く患った娘を亡くした老婦人もこう言った。

――娘は今も自分のそばにいてくれてます。わたしが困ったり悩んだりして、どうしたらいい?って聞くと、ママ、大丈夫よ、って励ましてくれるますの。

たとえそれが自分をも偽るつくりばなしであっても、それが生きる支えになるのならどこかで真実なのだと、いつしか次郎は思うようになった。

「でもその孝蔵さんは病気で……あんなに大きくて逞しかった孝蔵さんがどんどん小さくなっていって……目の前で孝蔵さんがすこしづつ死んでいくような毎日だった……」

志津は次郎の顔を見つめる。が、志津が見ているのは次郎の顔ではないように思えた。

「孝蔵さんと純一とわたし、あんなに仲良く家族三人で暮らしていたのに……純一がいなくなって、孝蔵さんもいなくなって……わたしだけがこの家にのこされて、たったひとりになってしまうって考えたら、どうしても覚悟なんかできなくて、孝蔵さんが死んじゃいやだってことしか思えなくて……ひとりになることを考えただけで体の真ん中から凍っていくみたいに自分が冷たくなってって、震えがくるくらいだった」

「そうかあ……」

「……孝蔵さんが息をしなくなって、死んじゃって……ああ孝蔵さんはこれで楽になったのねって、これでよかったのねって思わなくちゃいけないのかもしれないけど……わたし、思えない。どうしても思えないの」

「うん……思えるわけないよ、志津さん、思えっこない」

「……ほんとに神様なんていないのよ、わたし、そう思う。わたしのだいじなものみんな取り上げていく神様なんてひどすぎるもの……なんでこんなことになるんだろう……わたし、悪いことなんかなにもしてないと思うのよ。まっとうに生きてきたって思うのよ。なのにわたしのとうさんも純一も孝蔵さんも死神にさらわれていったのよ。……わたし……もう……わたしも……早くさらってもらいたい」

十五年前、妻の亡骸のそばで次郎もそう思った。そしてその後、幾度も思った。が、その時の次郎には由布がいた。自分を見上げる幼い由布の目がそれをおしとどめたのだが、その目を感じるまでには時間がかかった。

「そうかあ……そんなふうに……思うんだねえ」

「だってだれのために生きるの? 孝蔵さんが向こうへいってしまったから、もう純一もこっちには帰ってきてくれないもの。わたしも向こうへ行きたい……この世の中でこんなおばあさんひとりが消えたってなんもかわりゃしないわ……」

消えてしまいたいと強く思うその想いを、こんなことは口にしてはいけないことだと、こころのそこに押し込めてしまってはならない。外にでない想いは、皮膚の中の異物のように、こころのなかで化膿していく。その激しさのまま、そっくり吐き出したほうがいい。それでいい。

そろそろいとでんわを置く潮時だ。この部屋にきて二時間近くがたっている。

「でも、僕がこまる。僕はもっと志津さんとお話しがしたい。死神になんかさらわれたら僕、こまります」

「あなたが?」

「ええ。僕は、純一さんのこともそうですが、孝蔵さんとのことをもっともっと聴きたい。あ、むろん、無理にではなくて、それは志津さんのお心のままですが……」

「……孝蔵さんとのこと?」

「はい。孝蔵さんてほんとにすごい人だったんだなって思うし、志津さんの気持ちももっと聴きたい……あの、それを僕に話すの、おつらいですか?」

「わたし……わからないわ。でも涙が出るから……はずかしい」

「いや、僕も泣きますよ。自然でいいんだと思います。どうぞ、気にしないで。でも、あの、僕と話すこと、いやですか?」

「いやじゃないの。不思議なんだけど、涙は出るのに、孝蔵さんのこと、もっともっと話したいような気もするの」

「そう、よかった。あの、来週、同じ時間にまた僕、来てもいいですか?」

志津は冷めた茶をひとくち含み、湯のみに目を落として思案する。次郎は待つ。

ごくりと音をたてて茶を飲み込んで、顔をあげた志津は「ええ」と答えた。涙で洗われた目が次郎を見つめていた。

帰り道、坂の途中で、吹き上げてくる冷たい風に身を縮めながら振り返ると、木戸まで送りに来た志津がこちらを見ていた。

次郎は右手をまるめて耳に当てた。すると志津も同じようにしてその手を口に当てた。その目がちょっと光ったように見えた。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️