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現代アジアの華人たち vol.5 ◆ Elicia Edijanto(画家)


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 漢字、言語、食、風習――。中国ルーツの文化に生きる〝華人〟は、広くアジアの各地に暮らしています。
 80年代、90年代生まれの、社会で活躍する華人や中国研究者の言葉を通して、私たちの前に見えてくるものは何でしょうか。
 今回登場するのは、インドネシアのジャカルタを拠点に活動する画家のElicia Edijantoさん。
 インタビューと構成は、北京大学大学院で中国近代文学を専攻した河内滴かわうちしずくさんです。

☞ マガジン「現代アジアの華人たち」

Elicia Edijanto(エリシア・エディジャント)
1987年、ジャカルタ生まれ。画家。黒のグラデーションで独自の世界観を表現した水彩画が国内外から注目を集める。自身の作品を発表しつづける一方で、日本のロックバンド「スピッツ」をはじめとする海外のアーティストのCD・レコードのカバーアートも数多く手がける。インドネシア華人2世。


静謐の世界

 その人の描く水彩画の世界は静けさに満ちている。

Over The Purple Night

 たとえばこの「Over The Purple Night(紫の夜を越えて)」という作品。ぼんやりと霧がかった湖畔か岸辺のようなところに、犬と子どもがリラックスした様子で座る。その視線の先には穏やかな湖面か海面が広がり、背景にはなだらかな山脈か丘陵のような地形が連綿と続く。上空に浮かぶのは、夜中から明け方にかけて観測できる「有明月」。モノクロームで描かれているが、実際には〝紫色〟に染まる夜明け前の空が広がっているのかもしれない。

 一見、世界から孤立したような場所でありながら、ぴたりと寄り添うように座る犬と子どもの姿と、筆の柔らかいタッチもあってか、不思議と寂しさはない。むしろ荒涼とした景色のなかで、パートナーのような関係性が放つ温もりが感じられる。

 色彩に着目すると、黒のグラデーションだけで描きあげることで、陰影の表現が際立ち、かえって黒という色彩の豊かさを感じ取れる。また色彩・形ともにぎりぎりまでそぎ落としたことで、観るものに想像の余白を残し、作品に奥行きが生まれているようにも思える。

 孤独と温かさ、そぎ落としたことで生まれる豊かさと奥行き。それらの一見相反するものが、深い静謐の世界で見事に調和している。

 この作品を描いたのは、ジャカルタ在住の画家・Elicia Edijantoだ。上述の作品は日本のロックバンド・スピッツのシングル「紫の夜を越えて」のカバーアートに採用されている。

〝世界最大の華人国家〟とも言われるインドネシアに生まれたElicia。彼女も福建ふっけん省にルーツを持つインドネシア華人のひとりだ。

 1970年代、15歳だった私の父はジャカルタに移民としてやってきました。彼の父親――つまり私の祖父ですが――の親友がジャカルタでハードウェア関係のビジネスをしていて、その人を頼ってきたそうです。父はその後すぐにインドネシア国籍を取得しましたが、今でも年越しの際には、中国の年越し特番の「春晩」を見ますし、紅包(お年玉)も用意するんですよ。両親世代の華人には中国的な考え方やアイデンティティを強く持っている人が多いです。

 私たち世代の華人はインドネシアのローカルな環境やライフスタイルに親しんでいて、さまざまなものを積極的に受け入れる姿勢がよりあります。たとえば、インドネシアは多宗教の国家で、上の世代の華人はそれぞれ個別の宗教を信じています。一方で、私たちの世代は、イスラム教、仏教、道教などのさまざまな考えに柔軟に触れながら、自身の信念を模索します。

 私としては、自分がどこの国の人であるとか、どの民族であるとかという以上に、〝地球民族〟でありたいという思いが強いです。そのうえで、私にとって中国は錨のような存在なのです。自然との調和や、無為の考え方など、そこから多くの知恵や哲学を吸収しました。


不確実さを受け入れる

 物心ついた頃から絵を描くことが好きだったElicia。絵を描いている間は、不思議と自分自身が癒されていくのを感じた。

 幼い頃の記憶で今でも鮮明に残っているのは「色鉛筆とクレヨンの匂い」なのだという。両親が本屋に連れて行っても、本棚よりもステーショナリーの売り場を訪れることのほうが少女にとっては大きな楽しみだった。

 Eliciaが絵を専門的に学んだのは、インドネシアでもっとも歴史の古い私立大学の1つに数えられるタルマナガラ大学のグラフィックデザイン科に進学してからだ。自己のスタイルを確立するために、在学中はとにかく次から次へと異なるタイプの絵を描き続けた。水彩画、油絵、パステル画、鉛筆画、そして写真も含めて、写実から抽象まで、とにかく好奇心に導かれるまま試行錯誤を繰り返した。

 その末にたどり着いたのが、「Wet on Wet」という技法で黒のグラデーションをいかした現在の水彩画のスタイルだ。「Wet on Wet」とは日本語で「たらし込み」のこと。塗ったばかりの色の上に他の色をたらして、独特なにじみを生むことができる、琳派の俵屋宗達たわらやそうたつが始めたとされる日本画発の技法だ。俵屋宗達の「牛図」のように、Eliciaも黒の上に異なる濃度の黒を重ねて、あの印象的なグラデーションを表現しているのだ。

SYMPHONY
 影響を受けたアーティストは多くいますが、日本画家の東山魁夷ひがしやまかいい新井芳宗あらいよしむね(2代目歌川芳宗)などもそのなかに挙げられます。特に彼らから学んだ点は、〝簡潔さ〟と〝静謐さ〟です。極めてミニマムなディテールから、深い感情の渦と静けさをどのように表現するか。そのことについて多くの示唆を得ました。

 実は私はとても心配性な性格なんです。だから生活のなかで、ルーティンを守ることが非常に大切です。少し完璧主義の嫌いがあるのかもしれません。とはいえ、生活のなかでは私の予期せぬ困難が数多く起こります。

 日本の「わび・さび」の教えは、そんな私にとって大きなヒントとなりました。コントロールしなくてもいい、不完全でもいい、未完成でもいい。人生とはそういうものなのだと。それは水彩画にも通じます。絵の具が筆先から紙の表面に伝わるとき、それがどのように流れ出るか、わたしにコントロールする術などありません。でも、その不確実さが美しい結果をもたらすことが多々あるんです。

 私自身まだ長い旅の途上にいて、今後も多くのことを学ばなければいけませんが、「不確実さを受け入れる」というマインドセットは常に持っておきたいです。

 水彩画から、人生について多くのことを学んだと語るElicia。彼女の人間観の形成に多大な影響を与えた出来事は他にもある。それについて語るために、時計の針を少し巻き戻そう。


「人間の心には善と悪が分かちがたく存在しているのです」

 そのとき、Eliciaは10歳の少女だった。隣では不安げな表情を浮かべた母親が、キャリーケースにせわしなく荷物を詰め込んでいる。いつもはストリートフードや、ショッピングを堪能する人々で賑わうジャカルタの街だが、その日はこれまでとはちがう騒々しさに包まれていた。

 少女の瞳は、街に重く覆いかぶさる分厚い黒雲を見た。炎に包まれたビルからどす黒い煙が立ち上る。風が運ぶ灰のくすんだ臭いに、胸がぎゅっと締めつけられた。

 やがて大粒の雨が街に降り始めた。その雨の降る音にまぎれて、学生を打ち抜く銃弾の音が遠くで鳴り響く。ただ、少女がその音を聞いたのは、ずっとあとのことだった――。

 1998年5月に起きた〝ジャカルタ暴動〟は、前年に起きたアジア通貨危機と30年間にわたってしかれたスハルト独裁政権、そして華人への偏見が重なって生まれた悲劇だった。
 東南アジア全域に広がるアジア通貨危機に対応するため、政府は一連の経済政策を打ち出した。しかし、そのことで国内の物価は急激に上昇し、人々の暮らしを圧迫した。国民の間では政権に対しての不満がくすぶっていた。

 そうしたなか、ジャカルタのトリサクティ大学で抗議集会を開いていた学生に治安部隊が発砲し、4人が死亡した。これをきっかけに生じた市民の暴動の矛先が、「政権と癒着して経済を牛耳っている」とみなされたインドネシア華人にも向けられたのだった。正確な被害の実態はいまだに不明だが、一説では全土で1000人以上が死亡し、そのなかに多くの華人が含まれていたと伝えられている。

 当時、Eliciaは家族とともにいつでも避難できるように、恐怖のなかでただひたすら待機していた。結果として、Eliciaの家族や隣人も避難する必要はなく無事に過ごせたが、数日間の痛切な記憶は彼女の心に深く刻みこまれた。

 ジャカルタ暴動のさなかで実際に何が起こったのかを知ったのは、私が大きくなってからです。インターネット上や他の人たちの話を通して次第に理解しました。そこで語られた話の多くは凄惨なものでした。
 
 あの出来事は私の人間への見方に大きく影響しています。どの人間も自身の内側に等しく〝悪〟を抱えています。それは極めて暗くて、悲しい、そして破壊的な力をそなえています。
 
 それと同時に、あの暴動のなかで、互いに助け合った善良な人々の話も少なくありませんでした。それらは力強くもあり、奇跡的とも言える、人間の〝善〟を体現しています。

 人間の心には善と悪が分かちがたく存在しているのです。たとえこの世界にひとつの民族、ひとつの宗教しか存在しなかったとしても、そこにはやはり争いが存在するでしょう。悪は常に自身の居場所を見つけ出します。しかし、善もまた同様にそうするのです。
SILENCE

 大学卒業後にEliciaはインドネシアのデザイン会社に就職した。大学で習得した技能をいかせる仕事だったが、自分自身のスタイルを求める創作とは異なる作業だと認識していた。

 就職したデザイン会社では、企業理念のブランディングから、ウェブデザイン、商品プロモーションのポスターやパンフレット製作、商品のパッケージングなどデザインに関わるさまざまなスケールや媒体の仕事を経験した。

 会社員として過ごすEliciaに転機が訪れたのは2014年のこと。趣味としてネット上に公開していたEliciaの作品に、あるSNSメディア編集者の目が留まり、その媒体で紹介されたところ、連鎖反応的に多くの人の注目を集めたのだ。

「コミッションワーク(委託制作)をお願いしたい」「あなたの作品を購入したい」という連絡が日を追うごとに増えた。悩んだ末に、Eliciaは職業画家として生きる道を選択した。

 夢にまで見た画家として生きていけるなんて、どれほど貴重なことでしょう。だから、私は常に目的を持って、心から情熱を傾けられる作品を描くことを意識しています。今の状態は決して当たり前のことではないのですから。


紫の夜を越えて

 ある日、レコード会社からEliciaのもとへ1通のメールが届いた。差出人はUniversal Music Japan。メールをクリックして文面に目を落としたとき、はっと息を呑んだ。それはバンド結成30周年を記念したスピッツのシングル「紫の夜を越えて」のカバーアートの制作依頼のメールだった。

 一瞬、夢を見ているのかと疑った。昔から聴き親しんでいたバンドからこんなメールが届くなんて。しかし、何度読み返してもそれは間違いなく自分自身にあてて書かれていた。夢ではないのなら、この貴重なチャンスを絶対に逃したくはなかった。

「紫の夜を越えて」は当初は配信限定リリースの予定だったが、のちにCDと7インチアナログレコードとしても販売された。そのカバーアートに採用されたのが、冒頭で紹介したEliciaの作品だ。シンプルだが奥行きを感じさせる世界観がアナログレコードの重さとともに伝わってくる。

 配信後、初めて楽曲を聴いたとき、ほとんど泣きそうになりました。本当に美しい楽曲です。メロディも歌詞もすべてが希望と優しさに溢れていました。カバーアートを通じてこの仕事に関わることができて、恐縮するとともに心から光栄に思いました。

スピッツ「紫の夜を越えて」(spitzclips)

 CD・レコードや音楽配信のカバーアートは、Eliciaが活躍する舞台のひとつだ。これまでに、ノルウェーのプログレッシブ・ヘヴィメタルバンドのLeprousや、アメリカのシンガーソングライターのRyan O'Nealが率いる音楽プロジェクトのSleeping At Lastなどに作品を提供している。

 創作の過程で音楽はとても重要な役割を果たします。音楽は私自身を内面世界に浸らせ、カバーアートで表現したいと思うある種の感情や雰囲気を呼び起こさせてくれます。

 音楽はもっとも直接的なアートだと思うんです。それはまっすぐにあなたの感情に届きます。毎日の生活のなかでも私は常に音楽を部屋に流しています。音楽のない日常なんて想像もできません。


私たちのなかの〝仏陀〟

 Eliciaの絵のなかでは繰り返し描かれるモチーフがいくつかある。子ども、動物、樹木、月……そのなかで趣を異にしたモチーフのひとつが「仏陀」だ。

 Eliciaの描く仏陀にはひとつの特徴が見られる。それはどこまでも〝人間らしさ〟にあふれている点だ。超人的な空気を放つわけでもなければ、近寄りがたい荘厳さを醸し出すわけでもない。他の動物に寄り添ったり、対話するように向き合ったりする仏陀の姿からは、親しみやすさがにじみ出ている。

LUX AETERNA

 興味深いのは「LUX AETERNA(永遠の光)」という作品。渡り鳥が飛び交う荒野のような場所で、ひとりの少年がうな垂れた姿勢で内省の世界へ沈んでいる。その少年を包み込むように、遠くには凛としたたずまいで座る仏陀の影がうっすらと浮かぶ。

 自分以外の誰かや何かの出来事に真剣に思いめぐらせるとき、その人には仏陀と同じ人間性が宿る――そんなメッセージをこの作品を一目見たときに直感的に受け取った。ここに描かれる仏陀もまた凡人から乖離した存在ではない。何か劇的な奇跡の一場面が描かれているのでもない。日々の暮らしのなかで、自分だけではなく、誰かの幸せも心から祈ること。そして、自分だけではなく、誰かの痛みにも思いをはせること。私たちのそうした人間的な振る舞いのなかに仏陀が存在することを、この作品は示しているのかもしれない。

 私は仏教徒ではありませんが、他の宗教と同様に、仏教の教えも深く尊敬しています。普段私は絵の中で「大人」を描きません。ただ、仏陀は例外です。
 
 仏陀は私たちのもっとも近くにいると感じています。彼は創造主や神ではありません。私たちと同じ人間として生まれました。だから彼を描くときには、その〝人間らしい〟振る舞いを表現することが大切です。
 
 うまく伝えられませんが、私が仏陀に抱く気持ちは「羨望せんぼう」に近いのかもしれません。この世界や苦しみのあり方を理解したうえで、彼は安穏を体得し、それが表情にも浮かんでいる。いったいそれはどのような境地なのでしょうか。
 
 仏陀を描く行為は自分自身を癒すことでもあり、その絵のエネルギーは私の内なるエネルギーに直結します。仏陀の存在を目にすると、優しさと慈悲を私は思い起こします。
WE ARE NOT ALONE


生命のつながり

 Eliciaの1枚1枚の絵に登場する題材の数はそう多くない。そぎ落とされた題材による組み合わせは、ときにシュールとさえ感じるほど、突拍子のないものに思えることもある。しかし、それらは遠い回路をめぐった末にたしかにつながりあっているようにも思える。

 そう思える理由の1つには、その組み合わせが見せるフラットな関係性にあるのだろう。人間、動物、自然の間に垣根などは存在せず、互いに支えあって生命が成り立つことをEliciaの作品は直感的に教えてくれる。

 自然には人々を癒す力があります。自然のなかに還ると、私たちはそこから多くのことを学べます。木々は決して急がず、たとえ難しい状況にあっても、毎日静かに継続することの大切さを教えてくれます。動物たちが殺すのは食べるためにであって、互いに傷つけあうためではありません。月にも、花にも、海にも、それぞれのサイクルがあります。すべてにそれぞれの時間があるのです。
CARRY ON, CARRY ON
REMEMBER ME

 自然の大きなサイクルのなかで、人間を含めたすべての生命を見つめること――そうした視点に立つと、生命とは個別に存在するだけでなく、関係性の輪に支えられて成り立っていることが分かる。Eliciaの絵の根底には、「つながり」や「調和」を希求する生命観が貫かれているように思えてならない。

 素晴らしいこと、不快なこと、どちらもたくさん経験する勇気を持ちたいです。それらを世界や生命の本質についての知恵や洞察に転じていきたい。そして流暢に作品として表現し、世界の人々とシェアしたいです。それを目にした人が、「自分は決してひとりではないんだ」と知ってくれたら、私にとってこれ以上の喜びはありません。

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インタビュー・構成/河内滴(かわうちしずく)
1991年、大阪府生まれ。2020年1月北京大学大学院中文系修士課程(中国近代文学専攻)修了。同年2月より都内の雑誌社に勤務。2022年2月からはフリーのライター・翻訳家として活動。

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