湊と依里の二人からみえる、自分の人生観について。
湊と依里とは、是枝裕和監督の映画「怪物」に登場するメインキャラクター
の名前だ。
ネタバレになるので、映画「怪物」を見る予定の人とは、これを読まないようにしてください。
あと、性的嗜好のことも出てきますので、そういうのが嫌いな方もご注意ください。
僕の心の声です。リアルな知人には打ち明けていないことも書いてあります。僕のことをリアルで知っている人がいないからこそ、書けるのかもしれない。
ただただの自己満足で書いています。
面白いとかそういうつもりではないですが、去年「怪物」を見た時からずっと引っかかっていることをつらつらとかいただけです。
公開しようかどうかも迷っています。
直接僕のことを知っている人が読まないから、書いてみようかな。
書きながらまだ迷っています。
そんな、単なる日記です。
湊と依里を見て思うのは、自分がこんなに人のことを想えることがかつて今まであっただろうか、ということ。
湊は二人きりの時に感情を爆発させる。依里から転校するみたいと告げられた時、縋って「いっちゃやだよ」と涙を見せる。
依里は親につかされた嘘を見抜いている湊に対して、嘘をつき続けるのが無理と感じ、「ごめん、嘘」と湊以外に理解されない本当の気持ちを、虐待してくる親の前で告白する。
LGBTQだとは理解していないかもしれないが、同性の同級生を好きになる。それがどんな「好き」なのかはわからないけど、それを抱えて、自分の気持ちに素直になり、それを表現できる。
その生き方が素晴らしく感じる映画でもある。
さて、自分の体、将来、世間体、プライド、いろんなことを度外視し自分の本音を打ち明けることができる相手が、今までかつて僕にいただろうか。
僕は心のどこかで常に孤独感を感じているのだ。
人によって見せる顔が違うということは誰にでもあるのかもしれないが、僕はその毛色が強い。
仕事を家庭に持ち込まない、とはよくいうが、それの度が過ぎている状態、というべきだろうか。
僕は今、生活上、三足の草鞋を履いている。
一つは、20年続けた企業・職場で、それなりの地位と向き合い方を続けている。
一つは、副業。これも20年近い職業で、週に2-3日、3時間くらい働く職場。
一つは、趣味から少し毛の生えた程度の、人の前に立つアーティスティックな仕事。
それとは別に、家族へ向けた顔。家族には、うまく世の中を生きているという仮面をかぶっている。
そのどれもが自分たり得るのではあるが、どれも本当の自分ではないと、思ってしまっており、生活が乖離している。
どれも交わっていないのだ。むしろ交わることを避けているといってもいいのかもしれない。
そのどれもに、どこか自信を持てずにいる。
そして、誰にいうこともできない、超プライバシーに関わる秘密も持っている。
おそらく、それがあるからなのだろう。
それを誰かに告白するということが、自分を変えるのかもしれない。
なぜ、告白することができないのか。
それは、家庭環境がそうだからだろう。
僕の父親は、公務員だった。母親も看護師、いわゆるインフラの仕事なので、公の仕事と言っても過言ではない職業。
この二人のもとで、僕は「真面目」に育ってきた。そこには常識を守り従うという、「一般的な人」を目指すように教育されたからなのではないか、とこの歳になって思う。
父は、ルールを破ることをとても嫌う人だった。学生服の下にカラーのシャツを着ることを許さない人。校則などを破ることを許さない人。一般常識を守ることに全力を尽くす人だった。
そのせいか僕の根本に、「マイノリティではありたくない自分」が形成された。
常にマジョリティでありたい、とそう願い、なるだけ真面目に生き、目立たない行動をとり、集団に隠れて生きてきた。自分を表現するということが恐れてきた。
道を外れるような、アウトローな生き方をせず、それに憧れもしない、そんな考え方で生きてきている。
マジョリティであるということは、ほどほどに勉強ができ、ほどほどに楽しむ趣味を持ち、ほどほどに恋愛し、ほどほどに仕事もできる、いわゆる一般的ないい家庭を持つことを夢に持つ、そんな人でありたいと、思っていたようだ。
一方で、やりたいことは芝居、歌、などの表現をする、ということだった。
学生の頃、声優に憧れた僕は、20歳の時に同級生の仲間に誘われ、役者を始めた。泣かずとばずな劇団を諦め、今では誘ってくれた人と人前に立つ「アーティスティックな仕事」をやらせていただいている。
でも、これに関しても、僕の意思ではなかったのかもしれない。
確かにやりたいことではあったが、僕がやったことではない。面白いことをやろーよ、との誘いに乗っただけだ。その人が作ったレールに乗っかっただけだ。僕は何もしていない。劇団に入ったのも、アーティスティックな活動を始めようと声をかけてくれて、居場所を見つけてくれたのも、全てその人だ。
だからそこには自信がない、自分がない。
それを直視することもできない。
かといって、辞めることもできない。やめたら本当に何もなくなるから、それもできない。
恋愛でもそうだった。
学生時代から、女性、というか恋愛に全く興味がなかった。付き合うこと自体になんの魅力も感じなかった。孤独が嫌いではなかった。
辛かったのは、高校の修学旅行くらいか。仲の良かった友達は、彼女と時間を作っていたし、なんとなく居場所のない僕は、自由時間もうまく過ごすことができなかった。楽しくなかったわけではないが、ホテルなどでは、なんとなく虚しい時間を過ごすこともあった。
可愛いと思う人もいたが、付き合うという一歩を踏み出すことはなかった。
19歳の時初めて女性と付き合った。当時通っていた演劇事務所の養成所で、一番の美人だった女優の卵だ。「可愛いな」と思うその心だけで、電話で告白した。
ただ、付き合うということが初めての僕と比べ、恋愛をいくつもしてきたその女性は、僕には釣り合わなかったのだろう。つまらなかったのだ。僕は人を好きになるということがわかっていないから。付き合ってすぐに、浮気をされ、それを報告され、自然消滅。
ちょうどその頃、インターネットと出会った。
ハマったのは、ゲイのサイト。
自分はゲイなのかもしれない。子供の頃から、なんとなく男性の体に興味があったこともあり、出会い系サイトで、年下のゲイの方と実際に会うことになるも、行為をする事になったときに、嫌悪感が出てきた。その子のことも好きにならなかった。
その後も付き合うということは全く無縁に生活してきた。
その後もゲイのアプリなどで出会った人と、付き合おうか、と思ったこともあった。
でもその一歩を踏み出す前に、その人とはなんとなく別れて、連絡が取れなくなった。
自分がゲイである、ということも認めたくない。マイノリティでありたくないということなのかもしれない。マジョリティでありたい。そういう生い立ちが、自分自身を認めるということを遠ざけている、そんな気もする。
人を好きになるということはどういうことなんだろうか。
それが今でも全くわからない。流石に自分の性的嗜好は少し理解はするが、それは恋愛感情とは全く違うもので、付き合いたい、結婚したいなんて思いは全くない。
そんな僕の心に、この二人の姿はとても眩しく、僕の人生をとても虚しく感じさせられたのだ。
「お前にはそんな大切な人はいないよな」と。
何もかも捨ててでも、一緒にいたい、気持ちを届けたい。この人のために何かをしたい、そう想える相手を見つけたこの二人のことが、とても眩しかった。
湊は言う。
よくわからないんだけどね、好きな人がいるの。
人に言えないから嘘ついてる。
幸せになれないってバレるから。
僕もそうだった。人に言えない。
性的嗜好も言えない。いい歳をして、人を好きになるっていうことがなんなのかもわからない。
そんな僕は、幸せになれないってバレるのが怖くて、嘘をついてる。全くなんの行動も起こせていない。
そんな僕の鼻先に鏡を突きつけられる。
そのままでいいのか?と。
「怪物」を見るたびに、心が締め付けられる。
それはなぜなのか。解ってはいるけど、それを認めない。認めたくない。
そんな自分がとても醜く、嫌いになってしまっているのだ。
去年から続く、心の虚無感は、おそらくこれなんだろう。
湊と依里のように、自分の気持ちに素直に生きることは難しい。
僕にその殻を破ることはできるだろうか。
僕は、これからどうしていこうか。
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