半フィクション

少し早足で歩く2人の女は、日本らしい花の香りをさりげなく纏いている。シャンプーか、髪の毛のスタイリング剤か、はたまた若い身体から溢れ出る生の香りか。香水をつけるほどませてはいないし、不特定多数の男に女をアピールするほど子供じみてもいない。
突然の雨。肉眼で見えるかどうかという細かさでもそれは確かな実体をもって2人を濡らす。この頃は専ら現実と、理想や夢とが膠着状態のまま一向に判別がつかない。ふわふわと惰性的に一日一日が過ぎていくのを見送るばかりだ。その証拠に、今も梅雨だというのに2人とも傘を持ちあわせていない。現実に対する徹底的な準備の悪さ。またそれを微塵も悪と思っていないのは思春期の勇敢さ故であろう。
遠くを走る自転車を視界の端で捉えながらAが口を開く。
「梅雨。今年もナンバーガールの季節が来るね」
「チャコさんはほんとに好きね、ナンバガ」

Aは敬愛するギタリストの愛称をそのまま取ってチャコさんと呼ばれている。勿論、呼んでいるのはBだけなのだが。

「90年代はいいよね。ナンバガもアジカンもオザケンも最高だった頃じゃん」
「今でも最高だけどね」
「でもあの頃には敵わないよ」
「確かに。チャコさん知ってた?宇多田ヒカルも椎名林檎もaikoも98年デビューなんだよ。その時の日本、楽しかっただろうなぁ」
「少なくとも、地位も名誉もないのに魔法のなんちゃらだけで恋人を幸せにしようなんていう最高の曲が流行る今よりはね」
「『嫌いじゃない』も『大嫌い』も結局はもつれた痴情の果てのつまらん悪足掻きに過ぎないからね。大好きは大嫌いって方程式は常識よ」

AもBも音楽が好きだ。邦ロックは一日中黙って聴いていても飽きない。でも、最近の音楽、特にラブソングを好きになることは滅多になかった。食わず嫌いではない。試しに食っても尚好きにはなれなかったのだ。それに、彼女たちの尖った精神が女子高生に流行りの曲を大人しく受容しようとはしなかったのだろう。お笑いも、読む本も彼女たちが好むものは須く時代とズレていた。というかズラしていた。世間への反抗。2人は典型的なサブカルくそ女どもだったのだ。それは決して修辞的にではなく。

「今の音楽は陽キャのためのものだよ。ううん。音楽だけじゃない。娯楽全般。言い過ぎかな?青春という名の男女交際にしか興味がない連中のために存在してる」
「そう。陰キャ面した根明の奴らが偉大なる陰キャアーティストを模倣したとて我々陰キャリスナーには届かないっつうの。私は20代のアーティストでは小林私しか断固信じてないからね」
「最高」

否、最低だ。若気の至りなんていう万人への便利な弁解すら彼女たちに使用する権利はないかもしれない。嗚呼、哀れなサブカル厨。

「雨、強くなってきたね」
「女が2人集まって傘の1本もないなんて嫁入りは当分お預けね」
「嘘だ。チャコさん嫁入りなんて一生したくないくせに」
「バレた?どうせあんたもでしょ」
「そうだけどさ。そういえば昨日の夜もね、雨降ってたでしょ?あたし、バラード聴いたのよ」
「ええ?あんたがバラード聴くなんて雨でも降るんじゃない?」
「もう降ってるんだってば。『ほーんきで忘れるくらいーなら泣けるほど愛したりしない♪』ってやつ。題名ど忘れしちゃったけど。なんか失恋もしてないのにそういう気持ちになった」
「あんた失恋なんてしたことないのにね」
「失恋ってどうやってすんのよ」
「失恋するにはまず恋をしなきゃいけないんだよ。馬鹿みたいに手間がかかんの」
「あはは、思いがけなく深いね」
「未経験者同士の話し合いなんて何の生産性もないのにね」

こんな理屈ばかり並べるから男が寄ってこないことは2人とも分かっている。それでも減らず口を叩き続けてこの道十余年。臍は曲がっていても信念を曲げるつもりは毛頭ない。

「あたし、夏子の冒険読み始めたの。良い意味で三島っぽくなくて面白くてさ。主人公の夏子がもうとにかく可愛くて。あざとくて強くて突拍子もなくて最高」
「夏子の冒険って運転してる男の両頬を根性焼きしそうになるやつだっけ?」
「何でそこだけ知ってんのよ。本筋には全然関係ないとこじゃない」
「そうなんだ。いいなぁ、私もイカした男の両頬に根性焼き寸止めしたい」
「わ、チャコさんったらサディステックね」
「冗談冗談。そういう趣味があるわけじゃないよ」

雨は降り続く。強くなることも弱くなることもなく。それはあくまで作業的に彼女たちの前髪を濡らすのみだ。彼女たちも又、それに構うことなく喋り続ける。何も彼女たちの饒舌を止めることなんて出来ないのだ。今のところ。

「でもさ、夏子然りA然り、子がついてる名前って良いよね。あたし憧れるわ」
「そう?小さい頃は古臭いからやだったんだけど」
「それが良いんじゃない。日本人らしくて奥ゆかしくて、それが色っぽくて。あたしは好きよ」
「でもBって名前だって可愛いじゃないの。あんただいぶBって感じするよ」
「うん、嫌いじゃないよ。だけどさ、奥ゆかしさはないでしょ?おっぴろげ〜って感じしない?あっけらかんとしててさ」
「そうかな?あんまり固有名詞に拘らない方がいいと思うけどね。名は体を表すなんて迷信に過ぎないから」
「拘りはないんだけどさ、ちょっと気にはなるよね。一生付き合うものでしょ」
「一生って言えば私いつか自伝書きたいな。遺書とかは書きたくないけど自伝書かせてほしい」
「自伝なんだから勝手に書きゃいいんだよ。あたしも小4のとき書きかけた。経験値低過ぎて筆進まなかったけど」
「やっぱそれがネックかー。私さ、今以上のサビがこれから訪れるとは思わないんだよ。気の合う友人とバンド組んで、オリジナルソング作って、帰り道は好きな音楽の話して。これって人生の大サビじゃん」
「でも売れる曲って意外とサビ前無難だったりするんだよね。AメロやBメロがパッとしないからこそ待ちに待ったサビが終わってあぁいい曲だったなぁって思うんじゃない」
「でも玄人ウケの名曲はサビもサビ前も派手だよ。まあ、そういう曲は全然売れない可能性も大いに秘めてる訳だけど」
「チャコさんもあたしも後者に幻想を抱くけど結局突き抜けられずに前者を選んでしまうチキンアーティスト人生ね。売れ線だけ選んで結果的に無難に落ち着く。怖くて賭けが出来ないのよ」
「残念ながらね。あーあ、タワレコ行ってジュディマディのCDでも盗んでやろうかな」
「制服で?大胆ね。じゃあその間、あたしはあの角の煙草屋で適当な煙草買ってきてあげる。折角なら向井秀徳のと同じ銘柄がいい?」
「あんたこそ制服で大胆なことするね」
「いかにも令和の『檸檬』とはあたしたちのことよ」
「随分とリスキーな爆弾。風紀の乱れも甚だしいわ」
「現実は想像以上に退屈だね。ジュディマディのCDを盗むことも制服で煙草を買うのもメルヘンの世界では一つの正義の形だけどこの世界では余裕で犯罪なんだから」
「私たちに許されてるのはあの電機屋で機材用の延長コードを買うことだけ」

彼女たちは案外まともな分別を持っている。Bが指差した先には駅前の大型電機店。周辺の建物を制圧するかのように、そして意志を持ったように強く根を張ったその店は2人を少しだけ現実に呼び戻した。

「延長コード代はこの前のペナルティとしてあんたの奢りだったよね」
「ついてないわー。総数にしたらチャコさんの方が練習遅刻してくること多いのに」
「遅刻常習犯はアングラスターの特権でしょ」「あ、今あたしを暗に揶揄したね。まぁチャコさんの才能は今や誰もが認める域だからしょうがないんだけど」
「…雨、強いね」

そんなことはなかった。雨は依然として淡々と同じリズムを刻んでいるだけだった。長く続いている雨は彼女たちを少しずつ濡らすだけで、彼女たちが気にかけるまでもない。いつか誰かが教えてくれるまで。それはいつか止むものなのだから。本来ならば。

「チャコさん、まだ気にしてるの?」
「そんなことないけれど」
「嘘だよ。平生チャコさんがそんなに口数少なくなることなんてないんだから」
「…だって私月なんて本当に行きたくないのよ」
「月ねぇ…あたしは少しばかり頭が弱いから未だによくわからないけど」
「私だってよくわからない。正体不明の物体がもうすぐ地球にやってきて、そいつが地球の生態系をガタガタにする。その結果、3年もしないうちに人類を含めた生命全てが滅亡する。秀でた才能を持った者や保護すべき動物が未然に地球外逃亡として月へ送られる。当事者の私が説明されたのもこれだけだね」
「その説明、もう20回聞いてるけど何回聞いてもノアの方舟ね。つまらない冗談すぎる」
「いっそ冗談なら良いんだけど。アメスピを買うこともジュディマディを盗むこともできない。その上、私はこの星で命を全うしようと思って生まれてきただけなのに、現実はそれすら許してくれない。3年経ったら人類滅亡?上等よ。ジャズマを抱えて一思いに滅亡してやりたい。ロックンロールイズノットデッドっつって。私はそうやって生きてそうやって終わりたいだけなのに」
「チャコさんの信念、あたし大好きよ。でも残念。あんたはそれが許されるほど凡人じゃない。あんたの思想や技術やあんた自身はあと3年で滅びていいほどクズじゃないよ」
「そういえばね、月ではこっちで倫理的に禁止されてる人間のクローンがバンバン作られるんだって。月に送られたその人が本当に優れていた場合だけだけど」
「地球では作り得なかった最高の世界を月で作るんだろうね。チャコさんは永遠に最高の世界の住人となるわけだ」
「変な話ね。好きなことを好きなだけやっていただけなのに勝手に才能アリ認定されてこんな面倒に巻き込まれるなんて」
「そうだチャコさん、あたしお願いがある。真剣に聞いてほしい。こんなこと言うのあたしらしくないかもだけど。月に行ったらね、すぐゴッチと林檎様と、師匠と、本物のチャコさんと、あと雨穴さんとPOISON GIRL BANDの吉田さんと。あと勿論向井秀t」
「ちょ、ちょっと待って。あんたが好きな人並べてどうするつもり?サインもらってもあんたに渡すことなんて不可能だが?」
「違うよ。あたしが好きな人は多分大体月に行くと思うの。何故ならあたしが好きな人は須く才能があり、あたしは才能のある人を須く好きであるから」
「すごいこと言うね」
「だから、少しずつでもいい。みんなとコラボしてほしい。東京事変featチャコさん、ナンバガfeatチャコさん、チャコさんを迎えてPOISON GIRL BAND活動再開。全部やってほしい。あたしが絶対に叶わないこと、全部やってほしい。今はチャコさんとあたしの2人だけの音楽ユニットだけどこれは既成事実に過ぎないから。月でチャコさんが色んな人とコラボしてくれたら間接的にあたしも天才たちとコラボ出来た、みたいになるでしょ?自慢したいのよ」
「引くほど貪欲ね。長くてもあと3年しか自慢できないのに」
「そうじゃないと惨めでやってらんないから。あたしは羨ましいよ、月に行けるの。だって終わりたくないから。怖いんじゃないよ。あたしの全部が、たとえそれがくだらないものだとしてもそれがなくなるのが許せない。だからせめてこの3年だけはあたしが生きてたんだって世界に主張したい。オタクの妄言でしかないかもだけど。それでも後悔はないって言って終わるだけの権利はあるでしょ。それにねチャコさん、月に行くって転調後の大サビだよ。チキンアーティスト人生のあたしたちにとってこれ以上のことなんてない」
「…月に行くってサビは陽キャ好みでダサいから好みじゃないな」

電機屋前で佇み、話し込む女2人はかなり異様な光景であった。通りがかりの老人が店の軒下に入るよう促す。それでも Aの顔には一筋の河が流れていた。Bも、 A自身も気付かないほどの細い河。しかしそれは、彼女がただの1人の少女であることの証明であった。

「折角なら宇宙まで届く長さの買ってこようよ」「気でも触れたの?」
「失礼ね。比喩だよ。私とレジェンドたちの月フェス、あんたがサポートメンバーで入ってたらもっと楽しいのにと思って」
「あたしが入ったらめちゃくちゃになっちゃうでしょ。あたしはチャコさんが月でフェスしてる事実を得られるだけで充分だなぁ。何故なら賢い女だから。目に見えるものよりもイマジネーションが大事なの」
「コミュ障の私がフェスできるとも限らないしね。事実は知らない方がいいときもある」

外は雨が上がっている。店内にいる彼女たちが向こう30分ほどそれを知る由はない。やっぱりそんなものなのだ。

「あんたは私の代わりにロックを叫んで滅びてよね。負け犬の特権でしょ。私も月で一旗揚げるんだからさ。交換条件よ」
「ごめん、うんとは言えないわ。あたしの生への執着はイカツイから」
「あー今気付いたけど私もあんたも生きづらいっぽいね。自分に対してこだわりがあり過ぎる。何でもかんでもいいような陽キャに戻りたいねぇ」
「気付くの今更?あたしたちって生きづらくて面倒臭いのよ。今、戻りたいって言ったけどチャコさんいつまで陽キャだったの?」
「うーん、年長さん、かな?」
「勝った。あたしは小2までだよ」       
「つよ」

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