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映画「そばかす」感想(ネタバレあり)

ひさびさに

こういう感じの映画を観に行った。こないだけっこうぶりに映画をみたとき「すずめの戸締り」をチョイスして、「なぜこんなに好みじゃないやつを選んでしまったのだろう・・・」と微妙な気持ちになって帰路についたのだったが、そばかすは好きなやつだった。そもそも、前評判というか、自分がよくブログを読んでいる人がツイッターでおすすめと言ってたから、何かを感じたいという心が開いた状態で観たと言うことも大きいからかもしれない。すずめの戸締りはもはや、「みんなこれがいい、って思うわけ?」みたいな好戦的な(?)感情がどうしてもぬぐいきれないため、ある意味素直にみれなかったのかもしれない。笑 

没入

前置きが続くけど、気の合う(価値観はところどころ異なるけど)友だちと観に行きました。映画みおわったあと、「没入感すごかったな」「短く感じた」という彼女の言葉に「それな」と思った。ただ、こう、最近自分の感性が不安定になっている、というか、自分に集中できてない、ツイッターとかティックトックとかインスタとかを常時巡回していて他人の感覚とか他人の言葉がうっすら常時脳内に流入している状態なので。もう少し自分に集中できている時期なら、映画を観てた時に感じたことをしばらく保持していられるのですが、映画館を出て2時間ほど経過して自宅の自室の椅子に腰掛けているナウ、すでに消えかかっている。映画館で没入したときには確かに感じてた、自分のなかの何かしらの感情。忘れたくないのに・・・。悲しい。手のひらの隙間からこぼれ落ちてしまうようなそんな感じ。前置き終わり。

母の、もっと明るい服きなさいよ

とにかく私は佳純の父が出てくるシーンはどれも泣けた。あ、まって。その前に。だいぶ序盤に佳純が合コン(のはずじゃなかったのに合コンだった食事会)から帰ってきた時に、同居する母が結婚どうのとか言い出して佳純の部屋に乗り込んできて、グイグイくるんだけど、佳純はあーハイハイと流す対応し「もーでてって」と部屋から追い出すんだが、その去り際におかんがハンガーにかかったコート類をザザっといちべつして「もっと明るい服きなよね・・」的なセリフをこぼして、たつとりあとをにごしまくってる何気ないワンシーンがあるわけよ。あのシーンでもう私は没入してしまった。激しく共感した。まじであーいうことやるオカン!!!大嫌い!ウウウウーー(頭抱え)。これ一緒に観た友だちにはまったく共感されなかった。笑 「うちもよく言ってくるけど、まったくきにならんよ」といわれたが、私はまじで、似たようなセリフをこないだいわれたばっかり。服ぐらいのことで、そんなに頑なになるなと、ガチギレされたけど、こっちはこっちで、服ぐらい好きにさせてくれ、と思うし、着るものについて強めに口出しされることについて、長年の積もり積もったものでマジで勘弁、と言う感情になっている。もともとは原色系の派手な服をよくきてたんだけど、最近太ってきてる自分があまりすきじゃないのと、お金と思考のリソースを服以外のものにさきたいから、全身真っ黒のコーディネートが自分の制服のようになってて、様々な条件から導き出した現時点の自分にとっての最適解なんよ。ほっといてほしい。真っ黒の服着てる娘、ってオカン的にはマジ勘弁、という感情なのはわかるが、感情の吐露まではいいとして、それを押し付けないで欲しい。実際に服装を変えるまで問い詰め続け、自分が納得する理由を述べよと迫ってくるのまじやめてほしい。嫌い。

母の、もっと明るい服きなさいよ2

あのシーンで没入したのは、その、服のくだりに共感したのもあるけど、あのおかんの距離感のリアリティというかそういうのに引き込まれた。その後に続くお見合いのシーンも含めてなんだけど、「娘のためを思って」必死な感じがめっちゃ、既視感やべえええ!となりました。踏み込むときに、こっちはかわすというか、介入してほしくないという、角が立たないように、さりげない意思表示をするんだけど、軽くバリアのようなものをこっちがはって、争わないように(言いたいことは山ほどあるけど、のみこんで)(これまでの不毛なバトルが屍のように積もり積もって導き出された作法)、丁重な距離感をがんばってつくろうと、対応してるのに、訪問販売の人や相棒の右京さんが閉めようとする扉の一瞬の隙をついて絶妙に足をぐいっと入れてきて、扉をこじあけ、グイグイ、っと。ズイズイっと、こちらがわに介入してくるようなあの、感じ!!!!言葉では、「あなたのことを第一に考えてますよ」「無理強いはしませんよ」というようなセリフを並べ立てておきながら、けっきょくは「結婚してほしい」(私の場合は、結婚はしてるが、子供はまだかとか、将来のための貯金はしてるのかとか、配偶者が無職だからどうのとか)という自分の心配事をはらしたいための、材料をくださいと迫ってくる。こわいいいいいいいいい!圧。圧が無理。あの絶妙な圧にリアリティを感じた。声が甲高くてキーキーと畳み掛ける、焦燥感を含むあの、特有の圧。心配だよう、というニュアンスをまぜてくるあの感じ。うううう。鳥肌がたつほどに絶妙ないやな母のあのかんじ!!!佳純はえらいよ、お見合いでまじであれは逃げ出したかっただろう。ああいうものにゾワゾワとしてしまう。でも母ならあそこまでしていい、みたいな世間的にも許されるラインなんだろうなとぼんやり私もそう思っていて、そのあたりも嫌いというか嫌悪感がある要因のひとつ。

父の存在

そう言う感じで、母は圧がやばい。社会的規範(結婚して、こどもがいて、そういうのが幸せやん?という画一的な幸せを強く純粋に信じている感じ)に娘をどうしてもあてはめたい。それに沿って人生が進んでないと無性に不安になるから「娘が心配なだけな私」というあの感じ、ですごくもう序盤で私は息が詰まって、日常の何気ない、大きな出来事じゃなくて、こう、こういう圧がしんどいんよな・・・というリアル母娘やりとりをみせられて、もう私のメンタルは「つら・・・」となっていて、そこにポッと登場するおとん。公園でなわとびとんでるおとん。おとんんんんんんんんん!!!おとん出てきただけで感極まる私、笑。おとんのシーンはどれもよかった。離れみたいな、プレハブみたいな部屋でチェロを弾くシーンもよかったしな。おとんだけは無言の許容というか。自分の存在を無条件に許容してくれてる。みたいな空気にもう、おとん・・・。ってなった。救われる。自分の場合は25歳のときにおとんが死んでしまったので、よけいに、今おとんがいてくれたらな・・・と毎シーン思わざるを得なかった。この映画の場合は、お婆もなんとなく、許容というか、おかんとタッグをくんで圧をかけてくるわけじゃないから、べつに四面楚歌感はないがやっぱおとんの存在は格別やなと感じた。映画の流れとか何も関係なく、自分自身のおとんへの気持ちが溢れかえって、自分にとって、おとんがどれだけ大切なのかを切実にかんじた。映画の感想からはだいぶ逸れるけれどね。

妹の存在が思ったより切実

妹やばかったな・・・。「お姉はゴーイングマイウェーでいいですねえ・・・」みたいなあの感じ。何も気にせず生きれてええな?おおん?みたいな。佳純からしたら、親の期待通りに結婚して、子どもが生まれる予定で。親孝行できてて、すごいよ。っていう道を進んでるけど、そういう社会的に良きとされるレールに乗ってる側やって大変なんやぞ?みたいな、自由な人はいいですね・・・。てきなやつ!基本に姉妹は適度に仲良くて。おかんと険悪になった佳純を和ますために部屋きてお菓子一緒に食べよーみたいな雰囲気にしてくれたり。ふつうに良い関係なんやろなと思うし、良い子なんやろなと思う。けど心のどっかに、「自由なやつはいいよな」みたいな。静かな怒りがあって、それが終盤の夫浮気どーのこーののシーンで爆発する。「ほお、お姉はええよな、他人事かよ」みたいな。この、社会規範の中でもまれて、頑張っとる私は大変よ。闘っとるよ。まじ。やのに、お姉は土俵にも上がらず、いいっすね。好きな人が自分より好きな人ができてよかったね、やと?おおん??みたいなあのキレちらかし感がリアリティ。つらい。全然違うけど私の場合は、仕事やめてアルバイターになって自由謳歌してて、まっとうに仕事してる友達とかに、自由でええな?と言われるけど、自由はもちろん自分で選択して謳歌してるが、一方で生活不安定だし、お金の心配しなくていいなら、社会に適合できるなら、そりゃそっちの方がいいけどな。ぎりバイト生活を選んだだけで百パーポジティブで百パー信念持ってやってるわけじゃない。不安もあるよ、といいたくなるし、社会に適合してサラリーマンやっていける人への羨ましさだってあるよ。と思う。そう言う時の感情をすごく思い出す存在が妹だった。いとうまりかさん。

シンデレラの紙芝居の発表のところ

あのシーンな〜〜!いろいろ考えさせられた。私はバイトで子どもを預かる放課後デイのスタッフをやっているが、リアルに考えたら多分普通にあーゆーイベントごとで発表する出し物って絶対事前チェックはいるから、あんなスタッフも知らされてませんでした感はありえないよな、と思った。まあでもそこはフィクションだからなとしゃーなく思える部分。で、一番思うのは「多様性というが、まずは一般的な価値観のベースがあって、その上に補足する形で教育すべき」みたいな、政治家のオジサンからのありがたいお小言をいただいたシーンね。あれなー。マジで私も日々、何が正解?とおもうところ。自分が子どもだったら、あなたの意見はいいので、世間一般ではなにが常識とされているか教えてくださいよ、と思うだろう。そう思っていた自分の子供時代の感情がまだ思い起こすことができる。(ただ、これ何歳ぐらいの記憶かおぼろげ)。でもこれって、本当にそうなのかな?と最近はおもう。これが一般的な考えで〜、っていうのをもちろん教えるのが大人の役目で、その中で違うな、って思ったり、自分はこうだな、って判断していく主体性は子どもであっても本人が選択したり感じたりしていくものだと思う。だけど、その一般的なものを教える、という概念が強すぎて、結局これが常識だから、という目に見えない同調圧力を強化するパワーに加担するだけでは?とも思う。今の私は教育する立場ではないから、(あくまでサポートスタッフてきなポジなので、日々のケアが中心でガッツリとなにかを述べるような業務はない)何かを聞かれたときに、かるく、「別にそれだけが全てじゃないよね」と言うニュアンスのことを返答すぐるがいしかできない。たとえば、「ピンクは女の子の色だよ〜」とか「これは女の子のおもちゃだから男の子が使ったらおかしいんだよ」とか言うのに対して「誰が使っても良いよ」的に言うぐらいのことだ。女の子=ピンクが好きという風潮はたしかに存在するけど、それを選択するかどうかは自分で、周囲が決めるものではない、ということを伝えるってむずいよなと毎回思っている。あかん、このテーマは話し出すとまとまりもないし、終わりもないぞ、笑

シンデレラの紙芝居の発表のところ2

この映画のなかで、シンデレラの発表のところに込められた意味は、先に述べた私が言ってるような話ではないとは思う。のちに真帆が真帆のおとん(政治家のおじさん)に啖呵きるシーンに繋がるところで、「自分がしっくりくる、と思える感覚を発表するだけやのに、怖いと思うような空気はおかしい」という。話が主題のとこやと思う。実際に、デジタル紙芝居を上映して、話がすすんで、まわりがどんどんどよめいていくにつれ、佳純の表情がこわばって、追い込まれていく感じは、かなりつらかったし、そこにいろんな事例がこめられている場面だと感じた。自分が自然に持っている感情をありのままに発表するだけなのに、こんなに怖くて、緊迫感のあるものなんだ、と擬似体験するような。そりゃ、「発表の仕方をもっと工夫するべき」「ゲリラてきにではなく、もっと穏健的にやればよいのでは?」てきなツッコミも思いつくけれど、フェミ的な話題にもよくでてくる、マイノリティ側ががなぜ工夫してマジョリティ側に「伝わりやすく」するために努力すべきというのがベースなん?そこがすでに不均衡では?っていうアレに結びつくところやとおもう。そのまま、素直にやるだけでは、あかんのでは?というすでにマジョリティによる「まなざし」が上から目線なんよな、が体感できる場面だと思うし、私も一呼吸置く前にまず、それがくる。その「当たり前」の価値観が染みついていると自分自身が思い知らされる場面だと思った。たとえば、「前置きに、これは古典的なシンデレラから着想をえたオリジナルの物語だよ」と説明すれば、もっと「伝わりやすい」と思うよ?などとアドバイスしてしまいそうになるけど、そもそも、そこがや、その、そういうとこやぞ?というシーンなんだと自分は理解した。「そのまま」でいることは「恐怖」という擬似体験。

あっちゃん

毎回思うけど、あっちゃんにものすごく嫉妬してしまう。こっちはハロプロファンなので。とくに自分がハロプロを好きになったのがプラチナ期が終わりかけるころで、ちょうど、AKB48がサクセスを極めていく時期だったんですよね。ハロプロのほうがすごいのに!ハロプロの方が魅力的なのになぜそれが世間に認められないんだ!!とずっと悔しくて、ハロプロ以外の女性タレント全般への嫉妬が堆積しいく一方だったんですよね。それでもあっちゃんのフォトブックは買ってしまった。かわいいから・・。複雑な心境。卒業後もどうしても成功して欲しくない・・。という拗らせ感情があり、あっちゃんを素直にみれない。また前置きが長くなった。そういう感情を抱きながらも、あっちゃん演じる真帆、よかった。普通にやっぱかわいいし、パッと明るい感じとか、引き付けられるよね。一緒にキャンプ行くシーンがよすぎた。ああいう楽しい瞬間て宝物やん。友だちとの笑い合えるひとときってすごくなにものにも変えがたい。とてもいい。しかもそこに緑があって、流れる水があって。テントで寝て。ふと目覚めたら友だちは外でぼーっと景色を眺めてて。オーイって手を振ったら、ニコって手を振り返してくれて。いい。こういう時間ってすごく豊かよね。私にとっても友だちとすごすこういう時間、すごく好き。この映画、一緒に観に行った友だちと去年からドライブに行くのにはまってて、金沢にいったり兵庫北部の道の駅にいったり。映画見終わった後「次瀬戸内いこか」ってお互いなったもん。

結婚式のシーン

その前に。え?真帆と暮らすと思ってたああああ!ってなったが。笑 真帆のからりと明るいところ。思ったことをすぐに言ってしまうシンプルな人柄に心地よさを感じた佳純が、真帆と一緒に住みてえ!となってワクワクするところ、こっちも「新生活たのしみ・・!どんな生活が待ってるのかなぁ!」って高揚してたから、「すまんのかいっ」と思ってしまった。笑
でも、そういう縛りの薄さも友だちっていう関係性で大事なところ。絶対にこうしなきゃみたいなのがない繋がりが築けるところが友だちというもののいいところやから表裏一体なんやろうけど。ああ、ここでタイミングあわんかったか・・。と見てる方はガックシなった。

で、結婚式!チェロの演奏のとこめちゃくちゃよかった。こう、きれいやった。とても。しみたわ。なんていうか、私の中でこういう儀式への反抗心とすごく好きな気持ちが常に両方ある。やっぱり、この公式的な空気感のなかで、相手に自分の気持ちを発表したり伝えたりすることって格別感がある。そういう公衆の面前でやるからこそ、晴れやかな感情になるというか。堂々たる。公式的な。その感じはやっぱり気持ちいいものがある。「儀式」「結婚式」というものにもちろんネガティブな捉え方というか、こう枠にはめてくるかんじ、形式的なもので感情がないという見方をする自分もいる。そこにリアルを感じない虚無なもの。テンプレ的。結婚という古典的な概念をすりこむ害悪、的な気持ちがないわけではない。実際に今自分は既婚で、既婚ゆえの縛りに不自由さを感じる。恋愛させてくれよ。なぜ恋愛したらあかんの?法が個人の自由を縛る範囲広くない?範囲広いし強制力つよくない?みたいなことも思ったりもする。が、ふつうにチェロの演奏のシーンは感動した。たぶん、「伝える」という意味では、ハレの日じゃなくてもできることではあるが。私はあの一堂に会するっていう行事が個人的に好きなんやと思う。こないだ同窓会の幹事した時も思ったが。みんなが集まって。繋がりを感じることが好きなタイプな人間なんだと思う。(でも自分が好きになるタイプ、友達家族恋愛対象かかわらず、大勢が苦手タイプがおおい。笑 じぶんと違うタイプを好きになってしまう)

結婚式のシーン2

話がめっちゃそれた。チェロのシーンがしみたのは、佳純の思いがここにこもってるんやぁ、と思うとすごくいいなと。音が低めでやさしくて。「言葉にするのが苦手だから演奏します(意訳)」って言った通り、佳純から真帆への祝福がこめられていて。チェロの音色が佳純が語りかけるようなイメージで耳をすますと、とてもそのように聞こえてきて、「すごくよい」と感動してしまった。佳純の声って、真帆のパーンと通る声質とは対極のすこし低めであたたかく穏やかなニュアンスなのでそれがチェロの音色そのものやん。みたいな。自分は長年、言葉でハッキリ言わないと伝わらんやん?って思い続けてきた人生だったから、最近ようやく言葉以外で自分の内面を表現する大切さを見にしみて感じるようになってきてる。自分の夢や希望のために仕事の世界で自分を追い詰めまくって限界をむかえたとき、絵をかくこととか、手先をうごかして折り紙をおったりレース編みを編んだり、あとは物語を書くこと(私小説)とか、いろんな形の「表現」が自分を救ってくれて。より多くの人に伝えたり、正確に伝えること以外の「表現」することの大切さにすごく自分自身が癒されると本当にここ1、2年で知ったというか実感することになって、だから。このチェロがしみたんよな。佳純自身、音楽学校に進学してきっと、これはただの推測だけど音楽でご飯を食って行こう、みたいな夢をもってたときもあるかもしれないけど、そうじゃない現実があった。でも、音楽が、演奏が、何かの自己実現の手段だったり生産性のあるものだったりしなくても。意味がある。ってあの真帆の結婚式のあの瞬間。とても意味がある。と私は感じたときにぐっとくるものがあった。

海辺で大の字になる

だいぶ終盤で大の字になるとこ。佳純が行きつけの海辺で大の字になるところがすき。いつも実家でおかんに小言たれながされて、息が詰まりそうになるときとかにあの海辺にいってボーっとしてる。真帆に偶然出会ったのもこの行きつけの近所の海辺。そこだ大の字になって寝そべってる場面好きや!解放感をとても感じた。映画「ノマドランド」をみたとき、主人公の女性が全裸になって川にぷかぷかと浮いて空をぼーっと見てるシーンがあるけど、私がめっちゃ好きなシーンなんですけど、それを思い出した。なににも縛られなくて、開けた視界に大きな空がみえていて。体もこころもリラックスするとき。これが幸せなんやなぁ。と。これがたまらなくよい。一緒に映画見に行った友だちと北陸ドライブしたときに一緒に行ったスーパー銭湯の外気浴の寝そべれるところで、「アメリカにいかなくても、これができるって思った」と友だちにノマドランドの説明をしたことがあったが、それをまた今回も引き合いにだして、感想を伝えると友だちが笑っていた。

まとめ

まとまりなく書き連ねてしまった。少し書くのが疲れてきたのでこの辺でしめよう。最初に出会った、ラーメン屋の彼と、友だちとして仲良くなれたのに、向こうが恋愛感情もってしまって「ごめん」となり、「男として見れないならそういってくれやああ」と不機嫌になられて、「いや、そういうことじゃなくて」とわかってほしいのにわかられなくて悲しくて、でも最後に北村匠海が演じる職場後輩が紙芝居をみて「わかってくれた」感じとかに、あああ、よかったなああ!と思ったこととかもう少し書きたかったけれど。一旦しめる。あ、あとは私自身、恋愛真っ只中にいて、それの心情に引っかかる部分とか。例えば恋愛対象その1(中学校の時好きだった人)は多分アロマンティックに近い感じの感覚のひとなんじゃないかな、と思いながら、彼から見る景色はこんな感じなんかな的な。そこに私が踏み込むこと(好きなので会いたいですというアプローチ)はやはり迷惑なのか、あるいは負担のない接し方があったりするのだろうかとか。恋愛対象その2(高校の時好きだった人)の趣味がソロキャンプなので、こういう感じでたまに世俗から切り離された空間に身を投じたい感覚になったりするのかなと想いを馳せるなど。自分が今配偶者と二人で暮らしているが、本当にそれがいいのかな、みたいな。あの、1年前突如として恋愛が再熱したときにハッとした感覚。自分の尊敬するおとんに見せたい本当の自分に出会った気がしたあの感覚。あれがやっぱり自分の研ぎ澄まされた純度の高い自分だったんじゃないか、とか。そういうあの感覚という不確定な形のない感じに映画は誘ってくれるのだなみたいな。そういう形のないものを呼び起こしてくれる時間だったなとか。まとまらないけど、そういうあれこれが、ポコンと浮かび上がって消え、またポコンと浮かび上がって消える、そういう時間だった。映画を見てる時。自分も、そういう感情を切り取ったり、きれいだと感じる瞬間とかイメージをもっと外にだせたらいいのになとかそういうことも思ったりした。映画、みても何も感じなかったら嫌だなとおもって、しばらく遠ざけてたけど、やっぱりいいかもしれない。「あの子は貴族」「あの頃。」「花束みたいな恋をした」「ノマドランド」「春水江暖」とかみてうわああああってなってた時のことを思い出してた。またなにかしら観よう。


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