映画『西の魔女が死んだ』

Twitterで回ってた邦画タグで、この作品を今でも好きでいる人を何人もお見かけし、嬉しく思いました。

少しネタバレすると(だいぶ前の作品なのでお許しを)

不登校になった女の子が、田舎の祖母宅で、自然に囲まれ、祖母と共にいろんな体験をしながら、成長していくお話。

母方祖母が大好きだった、そして不登校経験のある私にとっては、
自分を見るようで、恥ずかしく、イライラもし、そして、祖母への思いが溢れてくる作品です。

私の祖母も、強く、優しい人でした。
早くに夫(再婚だったけど)を亡くし、まさに、この映画に出てくるような田舎で、長く一人暮らしをしていて。
器用で、料理も裁縫も得意あとだった。貧乏だったから、何でも手作りしていただけかも
しれないけれど、カレーを、スパイスから作ったりするなんて、明治生まれにしては、ハイカラな人だったんだと思う。
父はサラリーマン、いわゆる転勤族だった私は、幼なじみもいなくて、環境が変わる度に、周りをうかがうクセがつき、誰にも心を開けない小学低学年生活を送っていたのです。

そんな私が、人目を気にせず、素でいられたのが、当時住んでいた社宅から、少し離れた祖母宅で過ごす時間でした。
一緒におやつを作ったり。山に、四つ葉のクローバーを探しに行ったり。山菜も採ったりしたなぁ。
山の中に、泉?を見つけた時の感動。「秘密基地」感。

祖母は優しく、怒られた記憶はありません。
ただ、一度だけ、祖母が怒った場面を、鮮烈に覚えています。

私だけでなく、同年代のいとこ達数人も、祖母宅に遊びに来ていたある日。
祖母宅の側で、護岸工事が行われており、山から帰ってきた私達が通る、いつもの堤防が、平均台のようになっていました。通行止めではないけれど、10㎝ほどの幅の橋を、バランスを保って、ひょいひょいと渡らなければならない。もし、足を踏み外せば、小川に転落してしまう。
しかし、そこを通らなければ、ずいぶん遠回りをしなければならない。一瞬で渡れるところを、10分かけて帰ることになる。
いとこ達は、何の迷いもなく、すいすいと「平均台」を渡っていきました。親達も、すいすいと。
しかし、私ときたら。自分が川に落ちるイメージしか描けない。足がすくみ、動けない。
向こう側で、皆が笑ってる。「早くしたら」「まさか、渡れないとか?」と、嘲笑するのが聞こえる。
ますます動けない。涙だけがぽろぽろ落ちる。

自己否定の沼にはまりそうになった時、祖母の声が響いた。

「笑うことじゃない!! 渡れた者がえらいわけじゃない。この子の慎重さは素晴らしい!!」

皆は黙り、祖母宅に向かって歩きだした。
祖母は、「平均台」ではない方向へ、ゆっくり歩き始めた。私はその背中を追った。二人でゆっくり、歩いた。道中、祖母は、さっきの出来事に、一切触れることはなかった。あそこにあの花が咲いてるとか、虫の声がするとか、他愛のない話をしただけ。気付けば私の涙は止まっていた。

幼かった私は、その日の出来事を分析的に振り返る事もなかったし、祖母にお礼を言った記憶もない。
ただ、好きだった祖母が、ますます大好きになった。
その後も、学校に行けるようになっても、事ある毎に、祖母宅に足を運んだ。私に合った私立中高に進学し、毎日学校に行くようになってからも、祖母が入院し、亡くなるまでの間も、いちばんそばにいたのは私。

あの出来事は、祖母があの言葉を発さなければ、私にとっては、「私は、皆のできる事ができない、ダメな子だ」という、劣等感に苛まれるだけの出来事です。今でも情けなくはなります。
でも、祖母が、ダメな私を認めてくれた事、ただただそばにいてくれた事で、とても温かい記憶として、私の中に残っています。
人間、そんなもんじゃないかな、と思います。
できた事を誉めてもらえるのは、もちろん嬉しい。自己肯定感が上がる。
でも、それだけじゃ、生きていくには十分ではなくて。うまくいかない時、失敗した時、悲しみに駆られてどうしようもない時、それでも、そばにいてくれる。そんな存在が大切なんだろうなと。
そんな存在があれば、叱責されなくても、立ち上がれる。これぞ、北風と太陽。

私には、祖母のような気概はないけれど、少しでも、近付いていけたら、と思っています。
もう祖母はいないけど、あの家、風景が大好きで、今でも時々、足を運んでいるのでした。