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いしのおと と ヒカルの碁


囲碁漫画である。(ネタバレがあります)

私も囲碁はやるけど、もっぱら詰碁で、しかもアプリである。
その上、著しく弱い。
19×19の世界を、俯瞰で見ることなど出来ない。
囲碁は、琴棋書画(きんきしょが)の一つで、文人の嗜みの一つである。
琴は古琴のことで弦楽器を奏でること、書は書芸であり、書道である。画は、文人画のことを指すので、絵心だろうか。
そして、棋が、囲碁である。将棋のように思えるけれど、碁である。
盤上のさまざまで行われている戦局を把握しながら、その大局を見て、勝利を掴む。なるほど、これらは知的な遊戯であり、文人の素養が問われるわけだ。

教養人は囲碁を打てるのである(私は下手糞なので、我軍はみんな死んでしまうのである……)。

囲碁の漫画といえば、有名かつ、傑作に『ヒカルの碁』がある。
『ヒカルの碁』はリアルタイムでプロ試験編を読んでいた時、こんなにおもしろい漫画は他にはないだろうと思えた。それは、今もそう思っている。
読者のほとんどがルールを把握してないであろうが、
これは、押井守が著作で書いていたのだが、麻雀映画の手はデタラメでもばれない、そこに注力する必要はない、福本伸行の漫画が面白いのも、勝てばどうなるかというそのドラマにこそあって、人は彼らの感情にのめり込むのだと。まぁ、識っていて、正確ならば尚良ではあるが。
『ヒカルの碁』も同様であるが、然し、囲碁の世界へ読者を誘うその敷衍した筋運びは脱帽するしか無い。
ほったゆみはそういう意味で、誰よりも美しい棋譜を書いたと言える。ヒカルが自分の碁の中に佐為を見つけるシーンも素晴らしいけれど、それを塔矢アキラ、終生のライバルの彼だけが見つけるシーンは鳥肌モノで、これほど見事な照応を描いた漫画はそうない。タイトル付けのセンスも抜群である。読者は巧みに作者に誘導されて、きれいな物語を楽しんだ最期、ほっと息をつく。

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で、『いしのおと』である。

これは様々な短編が込められた作品で、表題の『いしのおと』は碁打ちの主人公石野音(いしのおと)は元院生でプロを目指していて、彼女の院生時代の仲間の話や、職場の同僚女性に碁を勧める話などがある。
同僚は仕事は出来るのだが、理想のポジションに置かれないことで、会社に
不満を抱いているが、彼女の視野は狭窄していて、自分を客観的に見ることもできない。
そんな彼女が碁を始めることで、だんだんと柔らかくなっていき、俯瞰の視点を獲得する。石の動きを人と見立てて、周囲のことを考え始めるようになるのだ。

私がこれらの短編の中で一番好きなのは、『碁精』なる作品で、これは長編を見据えて描かれた作品のようで、喧嘩の強い青年が碁の天才少女(碁聖/精)を守ることになる話なのだが、壮大な構想があるのだろうか、まだ話は始まったばかりのプロトタイプというか、デモテープ的な意味合いが強い作品で、なんとも言えないのだが、とにかく描写が美しい。彼女の一手を放つ時間の経過を、碁盤を背景に、植物の伸びゆく姿を描いて、見開き一コマにまとめているのだが、美しく、叙情性がある。
頁を開き、次の駒で、天元を掴むと碁盤をテーブルクロスのように引き上げる、というシーンになるのだが(何を言っているかわからないと思うが、本当にそうなのである)、私はこのシーンには見惚れた。こういう表現が、センス・オブ・ワンダーなのだと思う。
この表現一つで、この漫画は只者ではなくなった。

この漫画に収められた作品は、勝負事の世界を描いているため、非常に暗く、辛い側面にも光が当てられているのが特徴的である。
その勝負の辛さを包括しているからこそ、囲碁の持つ奥深さが過不足なく描かれているのだろう。

囲碁は美しいのである。白と黒の碁石が織りなすのは、棋譜であり、楽譜であり、宇宙だと人が言うのにも頷ける。
ルールを少しでも識っていたら、なるほど、これは凄まじく広大な世界だとわかる。

奥が深すぎて、単細胞の私には太刀打ちができないんだけどね。

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