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谷崎潤一郎の陰翳礼讃


という随筆は超有名なので、たくさんの方が読んでおられると思う。
要は、日本の伝統美は、闇や影が作り出す、陰影の最中にこそある、的なことを具体例を挙げながら延々と語っている。
例えば、夏目漱石も言っていたけど、羊羹の色は最高に和的でクールだよね、的な感じことである。

本作の結びは、まぁ、試しに電灯を消してみることだ、という言葉である。
ここに書かれている陰影というものは、別に東洋に限ったものではないだろう。西洋でも、陰影故に浮かび上がる美はいくらでもある。スタンリー・キューブリックの『バリー・リンドン』を思い出してほしい。あの、蠟燭の灯りだけの貴族世界なんて、陰翳礼讃ではないだろうか。絵画にも至るところに闇に満ちた物が存在する。
私の大好きなヘッセの『少年の日の思い出』なんて、陰翳礼讃の世界に近いと思う。
たまたま、私達はDNAに日本の陰影が刷り込まれているだけであって、舶来の中にも馥郁たるそれが香る時がある。

谷崎には、同じようなことをテーマに忍ばせている作品(と、いうか、後期谷崎はいつも同じ話ばかりしている)に、『武州公秘話』という変態小説があって、これは架空の武将である、武州公の話だけど、彼の幼名は法師丸という名前で、人質として暮らしている。

彼は、夜な夜な城の中で行われている、討ち取った首を美女が綺麗に洗ってあげて、おめかしをしてあげている、という魔空間を見せられて、強く自分の性的嗜好を自覚してしまい、変態男爵になってしまう。若干の、ネクロマンティックともいうのかもしれない。特に、鼻を削がれた生首を見ると、性的興奮を覚えてしまうのだ。

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老女にその場所へと連れられていった法師丸の描写を、以下に引用させて頂いた。

彼は、首そのものからは強い印象を受けなかったけれども、首と三人の女との対照に、不思議な興味をそそられたのであった。と云うのは、その首をいろいろに扱っている女の手や指が、生気を失った首の皮膚の色と比較される場合、異様に生き生きと、白く、なまめかしく見えた。
彼女たちはそれらの首を動かすのに、髻を掴んで引き起したり引き倒したりするのであったが、首は女の力では相当に重いものなので、髪の毛をくるくると幾重にも手頸に巻き付ける。そう云う時にその手がへんに美しさを増した。のみならず、顔もその手と同じように美しかった。
もうその仕事に馴れ切って、無表情に、事務的に働いているその女たちの容貌は、石のように冷めたく冴えていて、殆ど何等の感覚もないように見えながら、死人の首の無感覚さとは無感覚の工合が違う。一方は醜悪で、一方は崇高である。
そしてその女たちは、死者に対する尊敬の意を失わないように、どんな時でも決して荒々しい扱いをしない。出来るだけ鄭重に、慎ましやかに、しとやかな作法を以て動いているのである。法師丸は全然豫想もしなかった恍惚郷に惹き入れられて、暫く我を忘れていた。

ここで、生首を抱えた美女が、自分が綺麗にしてあげた首と見つめ合って、にこりと微笑むシーン、ここで法師丸は昇天するのである…。

詳しくは書籍を買って頂きたいのだが、のっけから漢文が現われるので、面食らうかと思うが、ここは飛ばして宜しい。小説は、わからない箇所は飛ばして読むのに限るのだ。

この話は谷崎自身のプライベートも大変に強く反映されている。
今作には桔梗の方という、法師丸が憧れる女性(後の松子夫人)と、妻の古川丁未子をモデルにした、松雪院(しょうせついん)という女性が登場する。法師丸が結婚するのは松雪院だが、実際の結婚生活と同様、谷崎は丁未子には飽きてしまっていて、松子に恋い焦がれている。谷崎はずっと松子が好きなのである……。それを作品に忍ばせるのは、文豪とは恐ろしいもので、この作品は古川丁未子と新婚旅行で高野山に行って、それからしばらく籠もって今作を書いていたわけだから、現在進行系である。

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今作においては、陰翳礼讃的な世界が濃厚に漂っている。
後半、武州公が桔梗の方の部屋へと向かう折、厠を使うシーンがある。ボットン便所とも言えるだろう。昔のお城は、厠も脱出口の一つである。
ここで、当時の厠についても、一家言あるらしい谷崎が、唐突にナレーションとして口を挟んでくる。

その頃の高貴な婦人が使う厠の構造について述べることを許されたい。
むかし吉原の或る有名な太夫は緡銭を毛蟲と間違えたふりをして上品さを衒ったと云うが、大名の家庭に生れた貴婦人たちは銭を知らなかったどころではない、自分の体から排泄する物質をさえ、一生人に見せなかったのみならず、自分でも見ないようにした。それにはどうするかと云うと、厠の下に深い縦坑が掘ってあって、彼女が死ぬと永久にその坑を埋めてしまうのである。
蓋し糞便の処置方法として此のくらい高雅な仕掛けはない。
蛾の翅を無数に積み重ねてその上へ固形物を落し、落ちると同時にそれが翅の中へもぐり込んでしまうように造ったと云う
倪雲林(げいうんりん)の厠なぞも、贅沢さに驚かされるけれども、掃除人夫にさえ見せないで済ます点では、到底前者の奥床しさに及ぶべくもない。かの平安朝の宮廷の美女は、
色好みの平中を魅惑するために丁子の実で自分の排泄物を模造した逸話があるではないか。
かりそめにも上臈と云われる者にはそのくらいな嗜みがあったのである。
それに比べると現代の水洗式装置などは、清潔で衛生の趣意にはかなっているけれども、誰よりも自分がまざまざとそれを見せられることになるので、無躾な、人の居ない時にでも礼儀と云うものがあることを忘れた、浅ましい考案だと云わなければならない。

このように、長々とウ○コに関してのトリビアが綴られるのだが、谷崎のドヤ顔が目に浮かぶようだ。
ここで語られている、中国の厠の蛾の翅を大量に積み重ねたというものは、ものすごく雅でもあり、ものすごく気持ち悪くもある。掃除する人が本当に大変そうだ。でも確かにそれは贅を尽くしているように思える。

とにかく、影こそが、美を生む。明るさは、美を産まないのだ。という感覚である。闇の中に浮かぶ顔や紋様にこそ、人は不可思議な幻想を見るのだ。
このような考え、所謂古典回帰に近いのが谷崎の40代の仕事の傾向で、『蓼食う虫』、『盲目物語』、『蘆刈』、『春琴抄』、『細雪』、『夢の浮橋』あたりはその潮流を汲んでいると思う。
けれど、老境に入った『瘋癲老人日記』あたりはモダンな香りが漂い、あれ?陰翳礼讃は?的な世界にからりと転換する。
40代〜50代くらいは拘りが出るのかもしれないが、70とかになると、明るくて便利なものがいいのに決まっているのだ。

私は『陰翳礼讃』よりも、『武州公秘話』をお勧めする。
こちらは作品としても面白く、かつ耽美極まりない。
そして、今作の続編の構想が、谷崎にはあったという。変態の物語は続くのである。

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