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R15とかR18とかだと、エロいのか怖いのかどっちかわかんねーよ!

お茶の間で映画を観ていて、一番困るのはセックスシーン、所謂濡れ場であったり、唐突なシモネタであろう。

他には、それぞれの家族が問題視しているものがテーマに上がる場合、それもそれで嫌なことだが、セックスシーンを、「お!濡れ場が始まったぞ!皆で観よう観よう!」という父親がいたら最悪だし、集まってくる家族も嫌である。家族間セクハラであり、パワハラであり、モラハラである。

昔は、そういう性の話を簡単に話せる親子関係というのもいいなぁと思っていた黒歴史があるが、普通に考えて、自分の性の遍歴を語ったりするなんてイヤ過ぎる親父だろう。性の話は秘め事であり、家族間でも包むべき場所なのである。相談事だけ、聞いてやればいいのだ。

一番困るのは、恐らくはデートで行った映画での唐突なセックスシーンとの遭遇だろう。いや、これいる?という濡れ場が多すぎるのである。私的には、濡れ場は映画に関しての一切効果的な寄与を果たしていない。
性をテーマにした、例えば、『愛の渦』とかセックス中毒のマイケル・ファスベンダー(そういや、最近あんまり出てないね。どうしたのかな?)の『シェイム』、『陽暉楼』とか五社英雄の作品や『愛のコリーダ』とかならそういうテーマの映画なので、無論大事である。然し、その他の映画は、意味のないセックスシーン、乃至はシモネタが多く、困惑させられてしまうことも屡々である。

基本的にいつもAV見てるか女を抱くかばかりしている男、その名はファスベンダー(役でね)。

左様、たしかに、セックスは人の営みであり根幹を成すもの。けれども、せめて映画には、初デートに行く少年少女のことを考えて、R15やR18などの曖昧性を持った言葉ではなく、『この映画にはセックスシーンがございます』という、予めのラベルを貼っておくのはどうだろうか。『だいたい、5分前後の濡れ場にございます』的に注釈を添えて。そうしたら、(ああ、あの映画、濡れ場があるんだ。やめておこう。気まずくなったらいやだしな。)という、少年少女へのエクスキューズになるし、(お!セックスシーンあるんじゃん!これで気分があがるし、ホテルにも誘いやすいぜ!)というチンポ野郎が、「なぁなぁ、あの映画行こうぜ!」と誘ってきた際には、(あ、あの人、こんな映画誘ってきて……下心全開!最低!)という、危険察知にもなり得る。逆もまた然り。

R15とか、R18とかそのような漠然とした言葉ではなく、丁寧に伝えるべきである。

そして、小説も同様だ。

なぜか村上春樹の小説にはたくさんのセックスシーンが出てくるにも関わらず、誰でも買える状況になっているのだという。私は、未だに村上春樹の小説は読んだことは一度もないが、村上春樹の話を耳にする度、
1・やれやれ
2・セックス
3・比喩

というほどだから、よほどセックスシーンに溢れているのだろう。え?それじゃあ、ポルノじゃないのか?という疑問符すら付く状況である。
なので、村上春樹の本の帯にも、『この小説にはセックスシーンがございます』という言葉を添えて、それを見た文部省の役員が、「なんだってぇ!これはすぐにでも全生徒及び全保護者に通達しなければ!け、け、けしからーん!」という怒りで我を忘れて早速役員を集めて緊急会合、全国の教師に通達が行き、彼らも「そんな危険な書物が野放しに……。生徒たちを守らねば!」と、翌日には全国の校庭及び体育館での緊急朝礼、そこで全生徒達に、如何に村上春樹の小説にセックスシーンが多いのかを説き、それを聞いた保護者たちは恐れ慄き、慌てふためき、「騙してポルノ本を売る書店を許すなー!」とデモ行進を始め、不買運動が全国規模で開始、ついには村上春樹の小説は完全なる赤本として、発禁処分になり、この世に文学の火は消えてしまう……かと思えたが、然し、地下世界では流通し始めていて、「なぁ、ハルキ・ムラカミって識ってるか?」「ああ、識ってる。いい小説なんだってな。相当エロいって聞いたぜ。」などと、数多の文学好きから愛されて、厳しい監視の目を掻い潜りながら、世界に第四次文学革命が起きた時、遂にはノーベル文学賞を受賞する、という、そんな夢を見た。

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