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読者と作者

小説の書き方に関して、様々な人の意見があり、その中には、読者を想定して書くこと、読者に伝わるためにどう書くのか、という、一見真っ当であり、耳障りの良い言葉を目にすることが多い。

然し、これは罠である。

まぁ、これは私の独断と偏見による文章であり、相容れない方も大勢いるだろうが、述べさせて頂くと、読者(或いは評価者)を規定して書くことは誠に虚しい行為である。それは、著しく本質とかけ離れていくからである。

商売、という意味では、読者を想定して書くのは当然であり、小説は慰安であることを考えれば、共感させる、楽しませる、悲しませる、怒らせる、考えさせる、学ばせる、というのは作中に織り込むべき重要なファクターである。

然し、小説を書きたいという初期衝動は、本来、商売とは乖離しているはずである。詰まるところ承認欲求であり、自己顕示欲であり、オナニーである。
この、公開オナニーにおいて、オナニーでご飯を食べていくことにおいて、
オナニーはオナニーのままにしておくのが良いのであって、これが自慰行為から逸脱して、単なる接待になってしまってはつまらなくなること請け合いである。セックスの幸福は人間の幸福であり、感情の喜びであって、藝術とは真逆のものである。

無論、接待も突き詰めればプロの仕事、そこにはエンターテイメントの真髄が詰まっているが、それは本質ではない。

読者というのも千差万別であり、頭脳明晰な方もいれば、信じられないミラクルおバカな方もおり、その読者レベルを書き手側、売り手側で想定して、それに合わせて書くことはある程度可能であろうし、よく行われていることだろうけれども、そういうマーケティングをすることは、御自分にとって本当に必要なのかどうか、である。読者とは思った以上に読めており、同時に思った以上に読めていないものである。そこに右往左往する暇があるのか、ということである。

藝術、というのは基本はオナニーであり、乃至は、パトロンへの接待であって、大多数の最大公約数への模範解答大会ではない。

また、売れた売れない、受賞した黙殺された、というものも、様々な読者の意見が入り込み、そこに、初期衝動の神聖さの欠片もない。
読者を信じるよりも、御自分を信じることである。
最大の読者というのは自分であり、誰しもが自分の書いたものこそを愛している。書き手ならば、私淑する作家がいようとも、最大限の敬意を払いつつも、愛しているのは自分の文章のはず、である。

自分が書きたいものを書く、そうして、それが分かる人にだけ分かればいい、そのような得難い真の意味での読者に恵まれることの幸運が降りかかるかどうか、それは神のみぞ知るところだが、人は書いていくうちに、何時しか他人の目を気にして、なるべく多くの読者の獲得に勤しみ始める。
これが罠である。最大の罠であり、誤謬である。評価の数は質とは一致していない。ただ売上をだけを誇る、読まれていることを誇る、それはもはやオナニーではなく売春行為であり、乱交である。

オナニーは秘めやかに行われるべきであって、それが見つかった場合、それはもうしょうがない、そこに座って頂き静かに見て頂くとして、アグレッシヴに見せに行くのは露出狂のそれであり、本来は逮捕されるべき案件である。
何か、話がとっ散らかってしまったが、結局は、読者というものは思った以上に流動的であり、意識的に獲得できるものではない。
意識的に獲得した読者は、それは方程式乃至は商品やムーブメントに魅力を感じており、作者のまやかしの術が解けたときには、さっとその場を離れてしまう。
読者は正直である。そうして、大抵の読者もまた、御自分を愛しているので、少しでも癪に障れば離れていくのだ。

自分が好きなものを書く、自分のために書く、それが転じていつの間にか、自分から磁力が出始めて、それに共鳴した読者が自ずからやってくる、これが本来である。
まずは、誰も読まない小説を延々と書くべきである。
それは永久に読まれることはないかもしれないが(恐らく、この世界には日の目を見ること無く消えた小説が億はくだらない)、然し、どんな作品よりも御自分に寵愛されて読まれ続けた日々を経ているわけで、そこに真髄がある。

最高の読者、最愛の読者は自分である。藝術家はオナニストであり、売文家は詐欺師である。

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