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小説をリメイク

スクウェアから発売されたゲームの『ライブ・ア・ライブ』がリメイクされるニュースを見た。

『クロノ・クロス』もリマスターされるのだというが、残念ながら私はNintendo Switchを持っていないので蚊帳の外である。
1990年代半ば〜後半のスクウェアは神懸っていたといってもいい。私は最近、『FINAL FANTASYⅪ』の特設サイトのインタビューを読むのが日課になっているが、スクウェアは開発陣のインタビューも面白いのである。

リメイク、というのは作り直すということで、リブートは再起動、同じ素材を使用して仕切り直す、的なイメージが多い。

リメイクといえば、『FINAL FANTASYⅦ』のリメイクが絶賛発売中&開発中だったりするが、ゲームというものは、非常にリメイクが多い。映画も然り。そして、漫画などもリメイクというか、原作ありきでの漫画化というものが非常に多いが、小説のリメイクというものはあまり聞いたことがない。

例えば、谷崎潤一郎の『春琴抄』を現代作家がリメイクする、というのはあまりないように思える。

現代語訳や、新説なんちゃら的なものはあるが、正面切ってのリメイクである。文豪が文豪の作品をリメイクするのは、非常に難しいだろう。
そもそも、純文学は個人が核にある。個人の感性、個人の経験、それが個人の文体に成って生み出されるわけで、つまりは、全ての純文学は究極的には私小説である。そこに巧緻な作劇が施されていようとも立ち昇る個人の体臭は隠しようもない。それに挑むことができるのは、仕事と割り切れる人種だけだろう。

或いは、小説という媒体物はそもそも売れていないし、労力をかける割にはリターンも乏しいだろう。結句、小説というものは、個人の排出であるから、他者の排出した残滓に乗るということが、そもそもの難しいのかもしれない。
或いは、ドメインの問題かもしれない。単純に、著作権の問題上、会社の資産である映画やゲームはリメイクの俎上に上がり、小説は個人が権利も絡む為、難しい…というのが真相だろうか。
今は、小説なども著作権は死後50年から70年に延長したので、例えば谷崎潤一郎は1965年に亡くなっているので、2015年に解禁されたが、現在では2035年までは正式にはだめなのだが、それまでに解禁されたものはOKという括りなのだろうか。

然し、私は『春琴抄』のリメイクや『金閣寺』のリメイク小説というものを読んでみたい。同じ題材を使う、というよりも、ストーリーラインも同じで、文体或いは文章、語彙の使い方如何でどのような作品に変貌を遂げるのか……。そういう新人賞も面白いのではないだろうか?
例えば、川端康成の『雪国』をお題に、リメイク作を拵えてみるとか……。

恐らくは、モチベーションが続かないか。

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